二人分の寝息だけが流れている。ふと、そう意識した時には目が冴えていた。一度覚醒した頭は、なかなか寝付いてくれない事をジェイドはよく理解していた。
ぱちりと開いた目の中に、暗闇と静謐に満たされた部屋が映る。目だけで隣の様子を窺えば、片足を床に落として斜めになって眠る姿があった。存外に落ち着いた呼吸を繰り返す片割れを起こさないように、音を立てずにベッドを降りる。枕元に置いていたマジカルペンを手に取り、軽く振って制服に着替えるだけして、そのまま部屋を後にした。
真夜中の学園は、実に静かだ。普段の騒がしさとは打って変わって、人の気配がない空間では音が無い。ゴースト以外は活動していないであろう時間帯を歩く事は、ジェイドにとってはそう珍しい事柄ではなかった。静かで、暗い。深海を思わせるそれを、時折感じたくなるのだ。ぎしりと床が軋む気がする。無音の中で響く音というのは、小さくてもよく聴こえた。
すっかり歩き慣れた道程を通り、モストロ・ラウンジに辿り着く。扉に鍵を差し込んで回す。開錠の音がやけに大きく響いた。重厚な扉を、音を殺してゆっくりと開いていく。いつも通りの、少し冷えた空気がジェイドを迎え入れた。客も従業員もいない、勤めを終えて眠りに就いているラウンジに足を踏み入れると、深く呼吸した。
ここは海だ。小魚も外敵もいない、平和呆けした深海だ。飾られた美しいだけの水槽を見上げると、より一層強く、それを感じた。どうせ誰もいないのだし泳いでしまおうか。窮屈な服を脱ぎ去って、面倒な文化を取り払って。ネクタイを少し緩める。衝動が深くなる。
その時、何処からか物音がした。とても小さな、誰かが椅子に座っただけの音。そんな音でも今は漏らさず耳に入ってくる。水槽を背にしてラウンジを見回す。ここではない。それでは、と向けた視線の先にある豪華な扉。誰だろうか、など考えるまでもなかった。緩んだネクタイを締め直し、少しよれていた襟を正す。それから、物音の正体を確かめる前にキッチンへと足を運んだ。
使い慣れたキッチンは、夜の闇にあっても変わらない。冷凍庫から漂う冷気でどの場所よりも寒く、少しだけ故郷を思わせる。定位置にあった薬缶に水を入れ、火にかけた。その間に棚から茶葉を選別する。時間帯や相手の好みを頭に浮かべながら、青色の缶を手に取る。食器棚からティーポットを取り出す。缶の蓋を開けると記憶通りの優しい香りが広がった。
何度も試して知り得た適当な量をポットに入れた。薬缶が揺れる。茶葉を棚に戻しながら、火を止める。布巾を使って薬缶を持ち上げ、そっとポットへ熱湯を注いだ。香りが広がる。余った湯はカップに注いで温める。それから水気をふき取って、ティーポットと共に銀盆に乗せた。
薬缶とポットから立ち上る湯気が、寒い北の海をも温めていた。ここは海では無かったな、と当然の思考に苦笑する。銀盆を手に乗せると、さて正体を見てやりましょうか、と未だ物音を立てる部屋へと足を向けた。
VIPルームへと繋がる扉の前で一度立ち止まり、耳を澄ます。ペンを走らせる紙擦れの音が微かに聞こえる。音が一旦止んだタイミングで三回、丁寧にノックをした。途端に全ての音が止まる。誰もいなくなったみたいだ。それでも気配は残っているから、じっと待つ。しかし、存外に早く「どうぞ」と耳慣れた声がして、ジェイドは銀盆を持ち直し扉を開けた。
部屋の中は大方想定通りの光景だった。執務席に座るアズールと、机上に広がる無数の書類。それから、少しの呆れ顔。
「こんな時間までご苦労様です、ジェイド」
ペンを置いて、部屋に足を踏み入れたジェイドに投げかける。その声は表情と同じく呆れを含んでいた。手元に視線を感じる。それに対しては笑顔で返す。
「それはこちらの台詞ですよ、アズール。この時間まで残業ですか?」
「え?……ああ。いえ。これは……手持ち無沙汰だったので。」
言いながら、やや散らかっていた書類をさっさと纏めて端に寄せる。ちらと見えた一番上の紙面は、確かに急を要する内容ではない。今の言葉は本当のようだった。銀盆を手前のコーヒーテーブルに置いて、ソーサーとティーカップを机にセットする。
「暇潰しに仕事を始めるだなんて、あなた、すっかりワーカーホリックですね」
「お前が言いますかね?」
「僕は好きでやっているだけですので」
「それをワーカーホリックと言うんでしょう」
執務席を立ったアズールが、ティーカップの設置された席に着く。革張りのソファが少し沈んで、その身体を包む。ティーポットを両手でそっと持ち上げ、煮出したばかりの紅茶を温かなカップに注いだ。ふわり、と優しい香りがVIPルームにも広がっていく。
「これは仕事ではなくて、趣味の一環ですから」
揺れる深赤の水面を見つめていると、その縁に細い指が触れた。カップの取っ手を摘まんで持ち上げる動作を目で追うと、紅茶とは正反対の澄んだ青があった。
「僕に紅茶を淹れるのが?」
「ええ、まあ。別に”あなたに”という訳ではありませんが」
「へえ、そうですか。僕以外に紅茶を淹れるお前なんて、あまり見た事がありませんけどね」
宝石に似た青色は瞼に伏せられる。カップは更に持ち上げられて、その中身を吐き出した。白い喉が上下する。熱い紅茶が通ったせいで、少しずつ赤みを帯びていくように思える。ふぅと零れた呼吸は確かに温かかった。
言葉が止まると、途端に夜を思い出す。静謐に埋め尽くされた、どこか落ち着くような、不安になるような懐かしい心地がする。全身を揺蕩う水に覆われている気になって、知らず肺呼吸をやめていた。
ラウンジや寮を包む水槽を泳ぐ。二本の足ではなく、一本の長い尾で水を蹴る。心地良い。でも、寒い。
「それで?お前はこの時間に何をしていたんです?」
また声がして、想像上の水が唐突に取り上げられた。はく、と口が動く。咄嗟に肺へ酸素を取り入れる動作を思い出せない。黙っているジェイドを一瞬怪訝に見たアズールの手が伸びてくる。
「ジェイド?」
頬に温い指が当たった。どうも冷え切っていたらしい肌には、灼ける様に感じてぴくりと反応してしまう。息が詰まる。は、と急いた呼吸が漏れた。熱い体温が頬を撫でている。無意識にその手に触れようとして僅かに持ち上がった腕を制す。
知らず下がっていた顔を上げると、普段の合理を詰め込んだ色の瞳の中に、少しの心配が滲んでいた。その色に、やっと陸での呼吸法を思い出した。けほ、と一つ咳を零して首を振る。
「すみません。少しぼーっとしてしまいました」
「ぼーっと……してましたね」
頬を撫でていた手が離れていく。体温が遠ざかると、冷めた肌をはっきり自覚する。海では存在しなかった温かい彼の手に、改めてここは海では無いのだと意識させられた。
ガラス越しに観察するアズールの目がすっと細められる。考え事をする時の癖だ。紅茶を一口飲んだ。それから、カップの縁を指でなぞりながら口を開く。
「眠れないんでしょう」
問いかけではなく、確認。色々と見透かされた気分になって、素直に頷くのが憚られた。黙ってにこりと笑い掛ければ、彼は溜息をついた。いつの間にか空になったカップを机上に返してから、ジェイドへ目を遣る。
「僕もです。色々と考えている内に目が冴えてしまって」
「支配人は大変ですね」
「お前もそうだろう」
「いえ、僕はフロイドのいびきに起こされてしまいました」
うそつけ、と考えているのが口に出されずとも伝わった。ポットを軽く振って中身を確かめ、充分に在ると分かってカップを引き寄せた。もう一度、カップへ紅茶を注ぐ。アールグレイの香りで満たされていく。潮の香りが掻き消されていく。
「本当にいい香りですね」
横から攫うようにしてカップを持ったアズールが、柔らかく微笑んだ。それを静かに見つめる。冷めていた身体が、内側から温められた気がした。
「僕も、お前の紅茶を飲むのは好きですよ」
柔い言葉と一緒に、アズールは紅茶を飲み込んだ。ポットに触れていた手が意識の外でふるりと動く。何故か勝手に緩む口元を、その手で触れて誤魔化す。しかし、それを不思議そうに見られてしまった。
「実は、今淹れた紅茶に毒を混入させました」
「は?」
「と言ったら、どうします?」
上がる口角は誤魔化せないと断念して、笑顔を作る方向へ切り替える。解かされていく表情は、きっといつもよりうまくは作れていないと知りながら、真っ直ぐにアズールを見た。
少しの間ぽかんと開いていた口がふ、と緩む。返されたのは、想定外に優しい顔だった。
「入っていませんよ。お前が僕に毒を盛る筈がないだろう」
「ふふ。信用されているようで」
「当然です。そうでなければ、傍に置いたりしませんよ」
先程よりも早いペースで紅茶が細い身体に吸い込まれていく。そして再び空になってしまった白いカップが机上に戻された。ポットを振るが、残りは少なかった。
「続きを淹れてきましょうか」
「いや、もういいです」
緩く首を振って、アズールはソファに体を預けた。それを横目に、ティーセットを銀盆へと戻した。下げる為に持ち上げようとした手は、しかしアズールの手に遮られる。窺えば、じ、と熱を持つ青い瞳がジェイドを見ていた。
「それも後でいいので、もう少し話しましょう。夜が終わってしまいますよ」
静かで、暗くて、寒い。夜はそうだ。しかし、ここに夜はない。
「ええ、そうですね。折角の夜が勿体無い」
アズールの隣に座って、体を沈める。その感覚は何処か水中に似ていた。それでも、熱っぽい青色に囚われては、海の底から水面上まで引っ張り上げられる。海のようなその色が、ジェイドの中に満ちる海を取り払っていく。
「……ジェイド、いいですか」
頬に熱い手が添えられた。紅茶で温められたのかもしれない。否、きっと違う事は分かっている。返事の代わりに、冷え切った自らの手を重ねる。どちらに染まるのかと試す様に、ジェイドもまたアズールの頬に手を添える。奪う体温に手が赤く染まっていくのが感じられた。
アズールは鬱陶しげに眼鏡を外す。その乱暴な仕草に笑っていると、熱に浮かされ滲み始めた青色が間近に迫った。それから触れた熱い感触に、先の答えが示された気がした。
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