損の無い内容で

 

 ノックを三回、短い許可の応答を聞いて扉を開く。「失礼いたします」と告げながら後ろ手に閉じる。銀盆に載せたティーセットをコーヒーテーブルへ丁寧にセッティングし、一歩引いた。どうぞと声掛けする為に顔を上げた時、ジェイドを見ている瞳と視線がかち合った。
「何でしょう」
 平常通りの微笑を湛え、アズールを見返す。彼の視線は探る様でも、疎ましげでもなく、ただ存在を確認しているだけのような軽い物だ。意図を測りかねる。
「明日の予定は?」
「明日ですか? 休日ですし、山へ登ります。アズールも来ます?」
「行きませんよ。では、明後日は?」
「フロイドと街へ行こうかと。なんでも、新しい服が買いたいとか。一緒に行きますか?」
「……いえ、遠慮します」
 少し迷った様子にくすりと笑いが零れる。それが気に障ったのか、アズールは態とらしく咳払いをした。
「それで、どうして僕の予定を? 暇をしていたら、休日まで働かせるおつもりだったとか」
「違いますよ。流石に休みを奪っては平日のパフォーマンスに支障が出るでしょう。そうではなくて、タイミングを考えていたんです」
「タイミング、ですか?」
 少しズレて感じる言葉に首を傾げる。零す鸚鵡返しに対してアズールは首肯する。
「本当は、時間のある明日か明後日にしようと思っていたんですが……予定があるなら仕方ない。今日にします」
 かたりと椅子から立ち上がり、ティーセットを用意された席につく。会話の途中であっても、ジェイドは慣れた手付きでティーカップに紅茶を注ぐ。それからアズールは向かい側を指して「どうぞ」と言った。当然の疑問や不信はあったが、何となく先行きの見えない状況を楽しく思い始めたジェイドは素直に従う。
 アズールはゆったりと紅茶を飲みながら、ジェイドが正面に座るのを確認してから、悠然と口を開いた。
「さて……早速ですが、ジェイド。あなたに提案があります」
 にこ、とでも聞こえてきそうな、綺麗に形成された笑顔を浮かべたアズールは左手をひらりと見せる。取引の際によく見る光景だと思い付き、ジェイドもにこりと人好きのする笑みを作り返す。
「提案ですか。それはそれは……仕事終わりの疲労困憊した従業員を呼び止めてまでされるのですから、相当に素晴らしい物なのでしょう?」
「ええ、期待していいですよ。必ず、その首を縦に振らせて見せます」
 自信満々な物言いに、おやと思う。相当に機嫌が良いらしい。互いに先の笑顔は崩さないままで少しの沈黙を過ごした後、「楽しみです」とジェイドは言外に続きを促した。
 アズールはもう一度紅茶に口を付けてから机上に戻す。胸元へ手を伸ばし、マジカルペンを摘んだかと思えば、宙にキラキラと魔法が飛ぶ。そして、アズールの手の中には見慣れた紙が浮いていた。契約書だ。思わずジェイドは眉を顰め、何故と問うべく唇を開いた。しかし、その紙面上の文字が視界に入って認識した途端にその思考が鈍る。珍しく、言葉を失った。
 アズールはマジカルペンを元に戻して、空になった両手を広げてみせた。
「僕と”恋人”になりましょう、ジェイド」
 契約書に大きく記された文字列と違わない言葉を、満面の笑みで伝えるアズールは、勝ちを確信したかのような表情で、瞠目したジェイドを見遣る。思わずぱちぱちと瞬きをして驚きを表したジェイドは、ふうと息を吐いて目を閉じた。
 それから、眉を寄せて本物の困惑を表明した。
「何を言っているんですか?」
「ですから、恋人になりましょうと……ああ。パートナー、番と表現した方が易しいですか?」
「いえ、言葉の意味ではなく。……もしやアズール、疲れているのでは?」
 心配よりは呆れを含んだ目で意気揚々と話すアズールに視線を投げる。忙しなくも無いラウンジの状況と粗方片付いているVIPルームの書類を見ても、彼が疲労困憊する事情は何処にもない。そんなジェイドの視線を受けても、アズールはふふんと笑う。
「その反応は想定済みです。その様子なら分かっているでしょう、僕は疲れで頭が回らなくなっているわけではありません」
「そのようですね。まぁ、突拍子も無いのは普段からでしたか」
「さあ、話を逸らすのはこの辺りにして下さい。否定から入るよりも、まずは条件を知って、それから考えてみて欲しいんですよ」
 浮遊する一枚の契約書が憎まれ口を止める様に目の前に飛んでくる。ジェイドはそれを胡乱げに見遣り、しかし捨て切れない興味から手を伸ばした。受け取った紙の、ピリと魔力の走る感触が慣れない。彼に言われた通り、まずは紙面に目を落とす。
「僕の恋人になるメリットは、大きく分けて三つあります」
 黙読のスピードに合わせる様に、アズールが口頭でも説明を始める。まるでスピーチだ、と入学式を想起してジェイドは目を細める。
「まず、一つ目は”安定した将来の保証”です。僕は優秀ですから、海でも陸でも、間違いなく、安定した収入が見込めるでしょう」
 ちらと大仰な口調で述べるアズールに目を向ける。確かにそうでしょうけど、と脳内で返事をする。恋人になる以前の段階で、真っ先に将来の話をするだなんて気が早すぎる。そう思い付いて、口元が緩んだ。
「次に、僕はお前達兄弟の関係やお前の性格に理解があります。なので”最大限の自由”を約束しましょう」
「……なるほど」
 それは間違いなくジェイドにとって重要だった。納得の声を返す。しかし恋人になるのに兄弟の話を持ち出すのか、と考えて、ジェイドの脳内に巻き込むなよと顔を顰めるフロイドが浮かんだ。今度は少し笑ってしまった。それに気付いて、どう解釈したのか、アズールはやや怯んだように言葉を詰まらせる。
「……最後に、三つ目です。先程言ったように、僕はお前の性格に理解がありますから……」
 不意に真面目な顔になって、アズールは身を乗り出した。気圧されるようにジェイドは上体を引いて背もたれに背中をくっ付ける。しかし、退路を探す気は無く、それどころか笑いを堪えるのに必死だ。そんなジェイドの様子を見て、再びアズールが笑顔を浮かべた。
「楽しいでしょう?」
「ええ、まあ。ここまで一方的に押し付けてくる契約なんて初めてです」
「対価は”恋人らしい振る舞い”だけで充分です。たったそれだけで、将来も自由も確約された状態で、恋愛という行為が経験出来るんですよ」
 つつ、と宙を擦った指に沿って契約書が持ち上がる。そして、指先に従って机にぱたりと広がった。
「……アズール」
「もしお前が望むなら、安定性の無い将来を選んでもいいでしょう。要らないというなら、縛り付けてやってもいい」
 アズールがジェイドの手を握り、声に乗せて伝えられた条件が並び立てられた紙の上へ連れて行く。無抵抗で様子を見るジェイドには、触れ合う肌が熱を持つ錯覚がした。
「約束しますよ。一生、退屈しない日々を提供すると」
「それは……ふふ。魅力的ですね」
 ぷかりと飛んできた魚の骨を見て、海の中みたいだと思う。それはジェイドの手に擦り寄るように寄ってきた。そちらへ意識を向けている間に、アズールがジェイドの肩に触れ、耳へ口元を寄せた。
「迷う事はありませんよ。……だって、お前は僕の事が好きなんでしょう?」
 揶揄うような響きに、ジェイドは目を見開いた。そのまま目線がついと下へ落ちる。
 それは甘く、脳が熔かされるような音だった。しかし、ジェイドには違った。違う意味を持って届いていた。
 ふ、と息の漏れる音を聞いて、俄然勝ち誇った笑みを浮かべながら離れたアズールは、ジェイドの様子に気がついて思わず顔を顰めた。肩を震わせながら口元を押さえるその姿は、間違いなく、現状ではアズールに良くない意味を含んだ笑いを堪えている。
「……何です?」
「ふ、ふふ……すみません。ふふふ……」
 不満げに口を尖らせるアズールを見てますます笑う。
「よっぽど、その結論に自信が無かったのだと思うと可笑しくて……」
「……は?」
「契約を持ち出す程度には望み薄だと思われているのかと考えていたんですが……ふっ……」
 とうとう涙まで流し始めたジェイドにアズールの眉間にどんどん皺が刻まれていく。これ見よがしに目尻を拭ったジェイドの手は、迷いなく魚の骨を跳ね除けた。
「ここまで用意して下さった事を無駄にしてしまうのは非常に心苦しいのですが、契約はお断りします。あなたと契約して得た一生なんて、いくら自由で楽しくても、安心して過ごせませんし」
「……そうですか」
 ぐ、と寄せられた眉根に、不機嫌とは別の感情を読み取る。観察するように目を細めながら、ジェイドは続ける。
「ですが、あなたの恋人というのは悪くない提案です」
「……え?」
「面白そうですし。確かに退屈しなさそうです。こうして話しているだけでも飽きないんですから、一生というのも強ち間違いではないかもしれませんね」
「ちょっと待て。お前、今断りましたよね? 何を言おうとしているんです?」
「僕がお断りしたのは契約ですよ、アズール」
 ジェイドは自らの前に置かれた紙面に触れて、にこりと笑う。戸惑うアズールから視線を外さないまま、爪先でトンと文字を叩く。
「ここで保証されているのは僕のメリットだけ。では、あなたは?」
 心底を見透かす黄金色が、すっかり意気を失ったアズールの揺れる瞳孔を捕らえる。
「ねえ、アズール。あなたのメリットは何ですか? 僕と恋人になって、あなたはどんな得をするんです?」
「メリットも何も……そこがゴールなんですよ。それ自体が得、と言いますか」
「つまり、どういう事でしょう? 察しの悪い僕にも分かりやすい表現でお願いします」
「……わかって訊いてるだろう」
「いいえ、分からないから訊いているんですよ。あなたの考えが知りたくて」
 仰々しく胸に手を当てて、困ったとでも言いたげな表情を作る。
「あなたばかり譲歩して、僕の為に将来を棒に振るとまで言って……その癖にこちらには何も求めない。契約としては最悪です。僕がとんでもないコネを持っているだとか、そういった何かが無ければ成り立たない。あなたもよく仰るじゃありませんか。そんな虫のいい話があるわけが無い! ……と」
 アズールは黙ったまま膝の上で拳を握り締める。暫し目線を泳がせる彼の様をジェイドはにこやかに見守っている。
「アズール。僕はこのような、お綺麗な契約なんて信用できません。あなたの気持ちが知りたい」
「…………」
 漸く正面に合わせたアズールの目が、彼を見つめるジェイドを剣呑さを含んで睨む。そして不意に力が抜けて、はぁと自然な溜息を零した。
「そのお綺麗さを取り繕う為に、僕がどれほどの労力を使ったと思ってるんです。それを、お前ときたら……全く、簡単に言ってくれますね」
「それで、本音は?」
「……はいはい、言いますよ」
 指先を乗せていた紙の感触が霧散する。目を向けるまでもなく、そこにあった契約書は消えていた。代わりに、アズールの僅かに冷えた指先が絡む。
「一つ目。僕はお前が本当に好きになってしまったので、自由にさせておく状態に限界が来ました」
 普段から熱の薄い指先に、火が灯ったかと錯覚した。不思議に思って指先を動かすが、アズールの指は追いかけて再び絡まる。
「二つ目。お前を僕の物にする手段として恋人を選びました」
 言葉に合わせて、指がもう一本絡められる。また熱を持つそこに何故だか動揺して腕を引いたが、ぎりりと指を絞めつけられて引き戻されてしまう。それどころか、少しアズールの方へ腕が伸ばされた。
「三つ目。自由を保証するなんて方便です。四つ目。将来も別に保証できません。五つ目。ただ、お前を飽きさせないのは本当ですから――」
 一本一本自由を奪われる指に気を取られていた。訳も分からず早くなる鼓動と熱い肌を悟られるのが嫌で、平静を取り繕っていた。だから、脈絡もなく引っ張られた身体は、無抵抗に相手の肩にぶつかった。
「黙って僕の恋人になりなさい、ジェイド」
 どくり、と一際強く鼓動した、と思った。近づいてしまった距離で心音が届くのを厭って離れようとアズールの胸に手を置いた時、手のひらにばくんと波打つ感触があった。
「…………」
「……何ですか、その顔は!」
 上体を起こして正面から見たアズールの顔は赤く茹蛸のようだった。声も震えている。契約書を指して泰然自若と微笑んでいた姿は見る影もない。それから、ジェイドは衝動のままに笑った。
「笑うな! イエスかノーか、さっさと答えなさい!」
「ふふふ……はい。もちろん、イエスです」
 机を挟んで、アズールの肩に両手を置く。ほっと息をついてから、「当然ですね」と繕ってみせる彼を見つめる。
「では、アズール。明日は一緒に山へ登りましょう」
「どうしてそうなるんです」
「あなたに是非、見せたい景色があるんです。本当は独り占めしたいと思っていたのですが、こうも頂いてばかりでは不安でして」
 体を離して、ソファに戻る。再び正面から向き合い、口元に手を遣って態とらしく微笑む。ジェイドの仕草を見て、アズールはピンと来たようで、また嘘くさい笑顔を作った。
「まぁ、考えておきますよ。偶にはゆっくり”お話”するのも悪くない」

 

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