ぶち殺せ恋心

 

「はい、お疲れ様でございました」
 突っ張っていた膝を下して、どっと押し寄せる疲労に激しい呼吸をした。身の丈に合わない運動量で腕を震わせながら、ありがとうございました、とインストラクターに告げる。ちらと視線を上げれば、にこりと微笑んで手を差し伸べてくれるのが見える。ばくばくと心臓が高鳴って、疲労なのか感情由来なのか分らぬまま、汗ばむ掌を拭った。
 ぐいと引っ張り上げてくれる腕に見惚れながら、どうにか立ち上がる。もう両手両足は棒のようで、これ以上ないくらいに効いている。伏見さんが柔らかく「よく頑張りましたね」と言ってくれるから余計に効く。
 かろうじて頷いた私に、伏見さんが手を貸してくれる。そのままトレーナーの待つトレーニングルームに戻っていく。私は吐きそうになりながらも、伏見さん、と声をかけた。優しい彼は返事をしてこちらを見る。
 一目惚れだった。容姿によく似合う、穏やかな声音も好きにさせられた。優しくも厳しいストイックな姿勢も素敵だと思った。最初に指名をさせてもらった時から、トレーナーは今日まで頑なにおすすめしないと言っていたけれど、辛くも楽しい10日間だった。こうして手を引いてもらえるのが夢みたいで、それ以上に、もっとと欲が深くなっていく。
 昨日から考えていた、今日はダメもとで伏見さんを誘ってみようと。いつも夜に来ているから、伏見さんも上がりのはずだ。もしかして、もしかしたら、ちょっとくらい。
 そんな風に思って、心音が耳まで届きそうなくらい緊張しながら、私は口を開こうとした。しかし、ぞわりと冷たいものが背筋を駆け上って脳髄に届く。
 あまりの恐怖に一瞬固まって、それから恐る恐る背後を確認してみた。すると、そこにいたのは七種さんだった。
「本日もお疲れ様であります! おっと、自分が手を貸しましょう!」
 すぐさま距離を詰められて、伏見さんの手が払いのけられる。七種さんは代わりに支えてベンチまで連れて行ってくれる。伏見さんは少し困ったような顔をして七種さんを見ていた。
 七種さんは10日間、専属トレーナーとしてトレーニングを考えてくれていた。日に日に増していく強度に恐れおののきながらも、彼の手腕を信じて今日まで頑張ってきたのだ。文句など言いようもないのだが。未練がましく伏見さんを見ていると、また身の毛がよだつような感覚に襲われる。ぽんと肩を叩かれて、七種さんの方を見ると、手を差し出してスタンプカードを催促していた。慌てて懐からカードを取り出す。
「……はい、本日のスタンプです。10日間、大変お疲れ様でした! 弓弦の指導は辛かったでしょう、だから何度も止めたというのに」
「あなたが強度を上げたのでしょう? 全く……」
「自分は飽くまで彼女の目標に沿って変更を加えていったまでですよ」
 七種さんはいつもながらの笑顔を見せているが、その目は笑っていない。二人は仲が悪いのだろうか。先程の恐ろしい気配も、それが原因なのだろうか。そんな風に思いながら、どうにか会話に入れないかタイミングを図る。しかし、七種さんのマシンガントークはなかなか終わらない。言い合っているようにしか聞こえないのに、次第に、その間に漂う親し気な空気を察し始めた。
「あんなにトレーニングをした後だというのに、その恰好。もしや嫌味ですか?」
「……はあ……あなたもでしょう」
「あっはっは、そうでした! これは失敬!」
 そういえば、今日はなぜだか二人そろって、ジャージを上まで引き上げている。暑そうだなと思ったきり、伏見さんを誘う言葉を考えるので手一杯になって忘れていた。
 考えてみれば奇妙だ。昨日より気温も高かったし、他のインストラクターはいつも通りだった。理由を頭の中で構築していこうとして、なんだか本能が咎めるようで、止めておいた。
 しかし、心のどこかでは、短くも儚いひと時の懸想が砕けた音をはっきりと聞いたのだった。

 ◆

 ぱたん、と力ない音で扉が閉じていくのを見送って、弓弦の襟元に手を掛ける。軽くジッパーを下げてから、首筋に残る薄くなった噛み傷を見る。爪でそいつを抉るように触れば、弓弦からため息が漏れ聞こえてきた。
「幼稚なことを……」
「あれくらいしないと、分からないものですよ」
「……まったく」
 弓弦の手がジャージ越しに首筋に触れる。熱いからか体温がダイレクトに伝わるようで、荒む心が少し落ち着く。
 首筋に顔を近づけると、「こら」と頭を叩かれる。
「何ですか」
「なにじゃありません。日常生活に支障が出るのでやめてくださいまし」
「今日みたいに隠せばいいじゃないですか」
「英智さまにはバレました」
「それはそれは!」
 後頭部を叩く痛みを無視して、残る傷に口付ける。全く面倒な男に囚われたものだと自嘲して、顰め面を思い切り笑ってやった。

 

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