いつかきっと笑い話にするよ

 
 
 しとしと、窓の向こうで雨が降っている。天気予報は今になって雨と言い始めた。傘は、持っていなかった。
「いつ止みますかねー」
「……予報では、朝には止むと言っていました」
「へえ」
 キッチンから気の抜けるような声が聞こえる。溜息混じりに返して、居心地悪く小さなソファに座り直した。
「じゃ、今日はお屋敷に帰れませんね」
 茨の指がかちりとつまみを回し、火が消える。戸棚を開けて、笑う声がぬるい部屋に響いている。弓弦はまた溜息をつく。
「濡れてでも帰ります」
「そこまでしますか」
「しますよ」
 幅広のコップをふたつ取り出して、小鍋から直接、中身が注がれていく。そこから溢れる湯気が排気フードへと吸い込まれている。その温度で雨が止んでくれないだろうか。
 茨がコップを低いテーブルに置いた。温かい温度の奥から、ほのかに甘い香りがする。卵と、牛乳の匂いがする。
「エッグノックですか」
「簡単ですから。あんたに教えてもらったレシピですよ」
 ふわふわときめ細かい泡粒を見つめて、どこか焦っていた心の芯が溶けるのを感じた。コップを持ち上げれば、熱が手のひらを灼くようだ。
「……ありがとうございます」
 茨と目が合う。すぐに逸らして、コップに口をつけた。少し舌に乗せれば、甘くて優しい味がした。
 正面に座って、茨が弓弦をじっと見た。視線に気付いても、弓弦は顔を上げなかった。茨はコップを持ち上げて、ぐいと熱いエッグノックを飲んだ。
「最後の一日くらい、いいじゃないですか。帰らなくても」
「良くありません。叱られてしまいます」
「じゃあ、悪いやつに捕まったって事にしません? あんたは頑張って帰ってきた、それでどうです?」
 ぽたぽた、窓を叩く音が聞こえる。急かしているようにも、宥めているようにも聞こえる雨音。弓弦はふっと笑えてきて、口元を緩めた。
「あなたのせいにするくらいなら、叱られる方がマシですね」
「……お優しいことで。そう言って帰っていくんだから最低でもありますが!」
「そうですね」
 柔らかい湯気を吸い込んで、肺が満ちる。帰りを待っている姿を浮かべながらも、目の前に伸ばされる手を避けられなかった。頬に触れた茨の手のひらも、灼かれたように熱かった。
「まあ今はいいですよ。いつか絶対に帰りたくないって言わせてやりますから!」
「期待していますよ。頑張りなさい」
「ふん。言われなくても」
 ぱたりと窓の向こうが静かになった。茨越しに見えた空に虹がかかるのを見つけて、ああ止んでしまったな、と思いながら、弓弦は目を閉じた。甘いエッグノックの味がして、温い指が弓弦の目尻を拭っていった。
 
 

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