「帰りたくない」
試みに掴んでみた手を握り返され、茨は暫し呆然とした。片方の靴だけ履いた中途半端な状態で、振り向いた紫の瞳が、間抜け面を映している。
「……そう言ったら、どうするんですか?」
力の抜けた弓弦の手は冷えていて、茨の熱が混ざっていくのがまざまざと分かる。試すような、探る視線が生温い。
いつだか言い訳にしたかった雨も今年は降っていなくて、今日も明日もお互いに休日なんかではない。こんな議論は全くの無駄なはずなのに、かち合った視線は外せない。
「もしもの話は好きじゃないんですよね」
「ああ、わたくしの言い方が悪かったですね」
弓弦の手が一瞬離れて、宙を浮いた茨のそれを握り返した。翻ったコートの下で、空になった靴の踵が地面を蹴るのを、どこか夢見心地で眺めていた。
「――帰りたくないんです、茨」
思考より早く体が動いて、その冷えた体に熱を移しながら、それから茨は口を開いて――
途端、ぱちりと目が開いて「えっ」と声を上げた。見慣れた天井と閑静な空気の中、その声が吸われていく。わずかな寝息と寝言の後、無音が訪れ、浮かれていた頭の中が冷めた。
「……なんだ」
未だ叶わないでいる約束が、悔しくて夢にまで出てきたのか。茨はルームメイトに聞こえない程度で溜息をつき、頭を掻いた。
用のなくなったアラームを切って、起き上がる。欠伸を一つして、スケジュールを確認する。時間には余裕があるからと、緩慢に着替えを済ませると、音を立てないように寮部屋を出た。
醒め切らない脳を起こすためにコーヒーでも飲むかと考えて、真っ直ぐ共有ルームに向かう。誰もいないだろうとドアを開けたところで、ふわりと甘い香りが漂った。
「……、……」
浮き足立とうとした心を鎮めて首を振る。茨と同じく、早朝から目覚めてくる人物はいくらでもいる。あいつはこんなに早くは起きないし、大方ジュン辺りがランニングに出る前に水を取りに来たのだろう。そう考えて、逸る気持ちを殺して足を出す。
思考の隅で、無意識に息を詰めていた。そうっと顔を出して、それから、紫の瞳と目が合った。
「おはようございます……おや、茨? 随分と早いのですね」
「……おはよう……ございます」
「何です、その顔は? 寝ぼけているのですか?」
鮮明な夢の記憶が蘇り、目の前の光景と重なった。微笑みながらコップを置いたその姿を、どこか不思議な気持ちで眺める。
弓弦は席につき、湯気の立つそれに口をつける。過去と違う貴族めいた所作が目について、じとりと睨んでいれば、ちらと物言いたげな視線をもらった。すぐさま誤魔化すよう、コーヒーメーカーに近付いた。
「良い初夢は見れましたか?」
コポコポと小気味いい音で、コーヒーはマグカップへと注がれていく。わざと背を向けていた方向から、容易く声を掛けられて、茨は気付かれないよう小さく深呼吸をした。それから笑みを作って振り返る。
「ええ、それはもう縁起の良い夢を見ました。一富士二鷹三茄子」
「そうですか。わたくしも、なかなか良い夢でしたよ」
ぽた、と最後の一滴が注がれる。静かになった空間に漂う生ぬるさが肌に痛い。マグカップを持ち上げたまま、次の動作を考えていれば、小さく笑う息遣いが耳をくすぐる。
「浮かれてしまって、こんな時間に目が覚めてしまうくらいです」
コップを見下ろして、弓弦は小さく笑っていた。最近、この柔らかい顔をよく見せるようになった。平和ボケして、絆されている。機嫌が良いのは本当らしく、茨に対してさえも花笑みを向けてくる。ただ、それは存外、悪い気はしなかった。
「そ……んなに、良い夢だったんですか」
「ふふ」
なぜか戸惑ってしまって、言葉に詰まった。弓弦は揶揄うでもなく、親しげに笑いかけた。どうぞ、と正面の席を指され、夢の景色を思い出す。
整わないペースに段々と苛立ってきて、どっかりと椅子に座り、ふてぶてしくコーヒーを飲んだ。きつい苦味が味蕾を抉るようで、やっと頭が冴えてくる。弓弦からのお咎めは特になく、彼もまた優雅に何かを飲んでいた。
机上に投げ出された手の甲を見る。冷えた手を温めたような赤みを持っていた。ことりと机に置かれたコップには、白いふわふわの水面が揺れていて、甘いスパイスの香りがした。
「……弓弦」
脳内でぐちゃぐちゃに巡る言い訳を全部ねじ伏せて、弓弦の手を握った。芯の冷えた手に熱が奪われるのを感じながら、顔を上げた弓弦と視線を合わせた。彼は虚を突かれた表情で茨を見る。
「明日って時間あります? 確かfineの仕事は午後から休みでしたよね。個人の仕事もないらしいですし」
「……まあ、その通りですが」
「じゃあ、それ自分が貰っていいですか? 姫宮氏も友人と初詣に行くと聞きましたよ、どうせ暇なんでしょうし、積もる話も……」
断る隙を奪うべく滔々と言い募る最中、弓弦が段々と俯き始めた事に気付く。弓弦は机に視線を落として、口を挟む様子もなく黙っている。
「弓弦」
「いえ……聞いております。続けて下さいまし」
「真っ赤ですけど」
そう言ったら、弓弦はすぐさま手を振り解き、逆に手の甲を抓ってきた。慌てて手を引っ込める。
実のところ、言うほど赤くは無かったが、稀有な事に弓弦がかすかに表情を変えているのが茨にも分かった。痛む手を伸ばして触れた頬は少し熱い。弓弦は眉間に皺を寄せながら、小さく息を吐く。
「妙だと思っていたんです。年始だというのに、こんなに早く暇をいただくなんて」
「いやあ、元々あなたがたが優秀ですからな。二日早めるくらい簡単でしたよ」
「……全くもう」
弓弦は口を曲げて、不機嫌を作った顔でカップを傾ける。やれることはやった、とじっと答えを待つ茨に、落ち着かない様子で座り直したあと、目を向けた。
温くなった手が茨の手を掴んだ。柔いようで鋭くて、奥から覗く甘い色が、動揺する茨を映し出した。プリンによく似た甘ったるい匂いがする。温度が混ざっていく。夢よりも、相当にリアルな感覚。
その口元が、ためらいがちに動く。仕方がないな、と呆れたような響きを持っている。それがなんだか、懐かしかった。
「……嬉しいです」
現実が理想を超えるのは、たった十数分で叶ってしまった。すぐにお叱りの言葉に切り替わってしまっても、熱い感覚が胸を焦がしていた。
さてどうやって逃げ道を絶ってしまおうかと考えることにリソースを割いて、腕を抓る手を避ける事が出来なかった。
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