未明の彗星 - 2/4

 

 ◇

 ――どおん、と遠くで音がした。海の方からだった。水飛沫を上げて、水平線の彼方、小さな何かが勢いよく落下した。火球が宙で霧散する。遠いジェイドの方まで風圧が来る。熱い風だった。ジェイドはつられるように空を見る。光はどんどん近付いている。彗星はもう遠い。夜になった空の中で、赤い星々が全てを砕いているかのようだった。
 残された時間はきっと少ない。ジェイドはそれでも動かなかった。ただじっと空を見上げて、今朝の事だけを夢想し続ける。
 楽しそうに計画をする、片方だけ上がった口角。ジェイド達のからかいで吊り上がった眉と眦。目を逸らし、伏せた睫毛。傲慢げな物言い、呆れた声色、暴言にも似た彼の言葉。「手が空いたら」なんて有りもしない事を約束する、彼の横顔。それを知りながら、未だに逃げ出す事が出来ないでいる自分のこと。
 内省的に物事を考える事は案外少ない。一人だけの空間に立って、何もせずに空を見上げられる時間など、特にこの一年では無かった。目まぐるしくも変わりゆく環境の中で、落ち着ける時間はあまりにも少なかった。出来ない事は出来る様に、難しい事は簡単になる様にと奔走する事は嫌いでは無かったけれど、決して疲れないわけではなかった。そして、疲れ切った時にはいつも傍に二人がいた。
 また、遠くで水飛沫が飛ぶ。頬を撫でる生温い熱に、冷えていた筈の全身が体温を創り出す。
 これは希死念慮なのかもしれない。それ以外に来ない物を待ち続ける心理など、ジェイドには理解できない。自分の事が、何よりも分からない。どうにもならない自分に嫌気が差す。

 ふと見上げていた空の中に、赤色ではない星が浮かぶ。どの星よりも強く光るそれを、ジェイドは良く知っていた。
「北極星……」
 星を観測する時、まずそれを見つけるといいらしい。星を眺め続けるジェイドの横で、本を読んでいた彼が教えてくれた事だった。濡れて重いページをめくりながら滲んだ文字を読む彼の方を見れば、何でもないような目で見返してきた事も鮮明に覚えていた。君も星が好きなんですか、と問えば、別に興味ない、と素気無く返されたのも覚えている。
 隕石にも勝る存在感を放つ星を眺め、近くにある薄い星と線で結ぶ。あれはこぐま座。そう言ったのも彼だった。すぐ横には北斗七星がある。これを教えたのはジェイドだった。興味がないのは嘘だと思って何度か星を教えたのに、彼はいつでも興味の無い顔で本を読んでいた。星を見ようと誘ったら、いつでも彼は「気が向いたら行く」「書き取りが終わったら行く」と適当な返事をして、それでも絶対に現れたものだった。
 だから、だろうと思う。そんな経験のせいで、今は違うと知っているのに動けないでいた。もしも、あの頃のように「終わったから来た」と言って現れたなら、どれだけ。
「……どれ、だけ」
 言葉が落ちる。遠くでまた隕石が墜落する。今度は地上だった。小さな石ころ一つの衝撃で、大陸が振動する。そして、ジェイドの脚がかくりと崩れた。柔い草の上に脛が倒れる。
「嬉しかった、か……」
 もう隕石は際限なく落ちていた。何度も地上は揺れ、微細な火球に焼かれ、海面は嵩を増していく。きっと故郷も、学園も、駄目になってしまう。しかし、そんな事は元々、どうでも良かった。
 世界が終わってしまおうと、それが結果的に楽しい経験として終われるのなら構わないとすら思っていた。今もその考えは変わらない。それでも、こんなにも絶望的な気持ちでいるのは、世界が壊れて悲しいからでは無かった。
 ――明日世界が終わったらどうする?
 そんな問い掛けを、いつだったか耳にした事がある。初めて聞いたのは魔法史の授業中で、すぐさまリドルに咎められていたのを覚えている。その後も尚懲りずに「俺は家族と過ごす」だとか「高い買い物したい」だとか、「好きな子に告白する」などと馬鹿げた話をずっとしていた。その後で、余程その仮定話が気に入ったのか、授業終わりにジェイドにまで聞いてきた。その時、どう答えたのかは定かではない。確か、あまり興味がないと思ったのは覚えている。
「……アズール、僕」
 北極星が真っ直ぐにジェイドを見下ろしている。ジェイドはそれを見つめ返して、苦笑した。
「貴方のこと、思っていた以上に好きだったみたいです」
 草の上に座り込んで、失敗談でも聴かせるようなおどけた言葉で星に告げる。星は何も返しはしないで、ただ輝いている。彗星はとっくに溶けて消えていた。
「貴方と星が見たかった。空に興味の無い貴方が教えてくれる空が好きだった。貴方が隣にいて、それだけで、僕は良かった……」
 目の前の海は質量を増して、海岸線まで飲み込んでいる。空になったサーバーと望遠鏡が漂流物と共に浮いて、遠く流れていく。それでもジェイドは立ち上がる事も、振り向く事すらなく、昏い空を見上げていた。
「きっと初めて会った時もそうだった。貴方のくれる全てが、僕はきっと嬉しくて……」
 熱波とは違う熱が眦に溜まるのを唇を噛んで誤魔化した。このまま死んでしまうのは情けないし、悔しいだろうと分かるのに、それでもまだ脚は動かない。
「こんな事を言ったら、貴方は笑うんでしょうね。でも、どうせ貴方はここにいないんだ」
 ぴしゃり、と足元を海水が濡らした。震える唇を両手で抑え込んで、俯いたら、目の前に随分と高くなった海があった。思わず漏れたのは嘲笑だった。それは、泣きじゃくる方法を知らない子供の嗚咽であった。
 明日世界が終わるのならば、これらの言葉を伝えるのも悪くない。その時、彼はどんな顔をして、何と答えてくれるだろうか。考えるだけでも愉快だった。でも、世界の終わりは今日だった。
「傍に居て、ほしかったんですね、僕」
 水飛沫が頬に散る。今までの比ではない熱量が身体を灼いた。余りの熱にようやく身を退いた。近くの海に、遂に隕石が落ちたのだ。肉の焼ける音がして、すぐさま脚に痛みが走る。飛散した火だった。
 立て続けに降る岩石に海が高さを増している。座り込んだジェイドの腰が海に浸かっている。仕方なくのろのろと立ち上がったと同時に、また地面が揺れる。脛を濡らす海水は、随分と温かかった。もう終わりが傍まで来ている。そして、ひどい後悔が全身を支配した。
 冷え切っていく指先を庇う様に握って、空を見上げる。一番近い隕石の軌道が自らの方を向いているのが、その一瞬で分かってしまった。ポケットを探ったが、マジカルペンはそこになかった。どこかで落としたらしい。諦観のままに両腕を下ろした。
 蟠る感情が胸を焼いている。脚に負った真新しい火傷よりも身体中を蝕む痛みとなって、それはジェイドの心臓を絞めつける。自らを巣食う激情の名前を、ジェイドは知らなかった。表現するための語彙も、知識も、常識と関心を詰め込んできた脳は持ち合わせてはいなかった。
 彼が一つだけ確かに分かったのは、目の前で輝く少し欠けた銀色の月と眩しい星、溶けゆく彗星を、隣でつまらなそうに見上げる横顔が見たかった。ただそれだけだった。
「……あの星の名前は、何というんでしたっけ。アズール」
 迫る熱源から逃げるように、そっと目を閉じた。どぱん、と真後ろで水飛沫が上がる音がして、融けるように、死を受け入れた。

 ――その四肢に、太い触腕が巻き付いた。
「……!」
 全て享受する姿勢を取っていたジェイドに抗う術はある筈もなく、容易く地上から僅かに浮き上がる。声を出す間もなく、耳元で風を切る音が強く響く程の速度で、勢いよく背後へと引き摺り込まれた。どぱん、と今度はジェイドが水飛沫を立てて、海へと沈む。すぐさま形態を人魚へと戻し、二本の脚が一本の尾鰭へと変化するのを見届け、尾を打つ。熱くて開きづらい目をどうにか薄く開いて、絡みつく感触の正体を確認しようとした。しかし、灼ける目では視界が滲み過ぎて良く見えない。身を捩って後ろへ視線を投げかけると、僅かに靡く銀髪を視認した。
「アズー……」
 呼ぼうとしたわけではなく、思わずといった調子で声になったそれは、浅黒い手のひらに覆われて途切れる。理由を尋ねる試行も出来ず、仕方なく身を預けて、すぐに気が付く。鰓から吸い込んだ海水が温くて、火傷しそうに熱い。咄嗟に鰓を閉じて残った酸素をゆっくりと食べる。すぐに水面へ向かおうとしたジェイドの頭は、触腕に押さえつけられる。ジェイドはそれを振り解く事が出来たが、大人しく動きを止めた。彼は、その冷たい体温を信頼していた。さして命への執着も、今は残っていなかった。
 諦観と期待を込めて水面を見上げると、視界にひとつの、白い輝きを放つ石が入ってくる。一瞬、それが星のように見えて瞬きをした。煌めいたその光は、熱く暗い海の中を瞬時に照らして、その先からドーム状の壁を作り出した。閃光のようなそれは、本当に慣れた魔力だった。堪えていた筈の眦から、水が落ちて海へ溶ける。
 どん、と強い衝撃波が世界を襲う。そして目の前の防護壁の意味を解した。広がる砂塵と熱波は地上を吹き抜けていく。そして残った衝撃波が、ジェイド達のいる海の中へと流れ込んだ。バチ、と防護壁から火花が飛び散る。余りの強さに、背後の気配ごとジェイドは海の底へ沈んでいく。防護壁が少しずつ弱くなる。ジェイドは掴まれていた触腕をついに振り解き、マジカルペンを握る手に自らの手を重ねた。びくりと一瞬震えた手は、すぐに意図を察して、性急に、それでも優しくジェイドの魔力を奪い取っていく。防護壁の厚みが僅かに戻って、また火花を散らした。
 壁の外の水は急速に流れていく。あれに巻き込まれたなら、身体は粉々になってしまうと分かる。無意識にも握る手に力が籠る。魔力が次々と流れ出ていき、疲労感で息が切れる。閉じていた鰓がぱっくりと開いて、暴力的な熱と共に酸素を吸い込んで息をした。口を覆っていた手のひらが離れて、震えるジェイドの腹を支えた。
「――……!」
 キン、と強い音波が鼓膜を揺らす。滲む視界をこじ開けて、煤けてしまいそうな目玉を後ろへ動かした。
 そこにあったのは、予想していた顔ではなかった。
「――『スピカ』!」
 怒ったようでも、苦しんだようでも、まして無表情なんかではない。かつてのように顔を真っ赤にして、泣いた後みたいに目元を腫らし、それでも抗おうと歯を食いしばるアズールだった。
「別名は真珠星、乙女座アルファ星! 春の恒星です! 春の大曲線を辿って見つけるんだ! そんな事も忘れたんですか、バーーーカ!」
 ビリビリと海が震えるくらいの大声が世界を劈く。どん、どん、と衝撃が襲い掛かっても、防護壁はそれを押し返していく。急激にブロットが溜まっているはずなのに、アズールの力量なのか、その溜まりは遅い。限界はずっと遠い。全く以て、ギリギリではなかった。固く目を瞑っていたジェイドの予想は大幅に覆されてしまった。
 記憶の中で不貞腐れる幼い蛸の人魚が、激流の感情を真っ直ぐにぶつける今の姿とうまく重ならない。思考が真っ白に塗りつぶされたジェイドは何も言えず、ばっと顔を前に戻し、水面だけを見上げた。降り注ぐ火球は水に溶けて、水温は上昇を続けている。鰓はとっくに焼け爛れていて感覚もない。
 宥めるように腹筋を撫ぜていた彼の手が、上げたジェイドの顎を掴む。思わず潰れた音を出す喉を構いもせず、ぐいと引き寄せられるままに再度後ろを振りむかされる。
「あ」
 間近には海と良く似た瞳が二つ。もうとっくに決壊しているらしい彼の涙腺からは、止め処なく涙が溢れて融けていく。懐かしさと、相対する目新しさに呆然とした。目の前で、彼の口が大きく開いた。捕食を思わせたそれは、ぽかんと空いたジェイドの口に食らいついた。唇を噛む平たい歯の表面に目を見開く。甘く噛み付く感触にひどく戸惑いながら、ジェイドはじっとアズールの目を覗き込む。合わせた唇から、泣きじゃくるような呼吸が伝わる。顎を解放した彼の手は、ジェイドの感覚を失した鰓を閉じるように押さえつけた。
 海底が振動する。随分近くで墜落が起きたらしい。これまでの比ではない熱波に襲われ、アズールの体が傾いた。唇が離れてしまった瞬間に、ジェイドは両腕を伸ばしてアズールの首に巻き付いた。そしてもう一度、口付けを交わす。薄く開けた口の間隙から、折角溜めていただろう酸素が吹き込まれていく。それを押し返すよう口を合わせて、窒息しないために互いの酸素で呼吸する。その内に隙から零れる泡にも気を配る余裕を失って、手も尾鰭も触腕も絡め合う。
 次第に弱まっていく防護魔法に気付きながらも、二人はそれを止めなかった。アズールはずっと泣きながら、全身でジェイドを抱え込む。ジェイドもそれに応えるように、流されてしまわないように、尾鰭と腕を必死で巻きつけた。
 魔法が解けていく。酷い熱が二人の周囲を包み込む。世界はずっとぐらぐらと傾き続けて、その瞬間にフロイドの泣き顔が浮かび上がって、知らない間にジェイドも泣いていた。嗚咽を互いに食べ合って、一つになってしまいそうなくらいに締め合って、ふらりとアズールの手から魔法石が離れ――

『ストップ、ストッープ! 避難訓練は中止です! 中止ーっ!』

 ――叩き付けるようにオンになったスイッチの音と、焦燥と呑気を混ぜ合わせたような、慌てふためいた放送が島中に響いた。
 驚いて二人は硬直する。そして次の瞬間には、水温はすっかり普段通りになっていた。焼け爛れていた鰓も尾鰭も、何事もなかったかのように綺麗になった。ゆっくりと、近づき過ぎた距離を離していくと、泣き腫らしたお互いの顔が目の前にあった。
 ジェイドは稼働を拒否する脳を無理に動かした。余りにも予定通り現れた彗星。いやに落ち着いた学園長の放送、普段の言動とのギャップ。非現実的とも言える世界の崩壊。それらが指し示すものがすっかりまとまって浮かんだ。ジェイドは黙った。アズールは似たタイミングで身体を震わせ始めて、それから思い切り浮上した。ジェイドものろのろ付いていくと、また放送が掛かった。
『アズール・アーシェングロット君! ジェイド・リーチ君! フロイド・リーチ君! 以上三名は今すぐ学園長室へ来るように!』
 ぶつん! と切れる音が響いた後は、もうすっかり静かであった。冷たい海水に全身を浸していても尚、体温は上昇している。アズールは鍋の中で茹でられたみたいに真っ赤な顔で、空を仰ぎ見た。
「もうやだ……」
 ジェイドはそれに黙って全面同意するしかなかった。

 

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