未明の彗星 - 3/4

 

 ◇

 ぱちん、と世界が弾けた。珊瑚から溢れる泡を突いたみたいに、確かに目の前にあった筈の全てが小さくなって消えた。そして全ては真っ暗になり、ゆっくりと浮上する感覚に従って目を開けた。
 数時間ぶりに開いた眼が朝日を虹彩に過剰なほど取り入れてくる。窓の外では朝型の魚達がゆっくりと旋回していた。窓際の時計を見れば、もうじき朝食の時間だった。
「……はあ」
 部屋の中でも強力で広範囲な魔力の気配を感じる。嫌になってしまうくらい、何もかも、感覚すら覚えていた。ぼんやりするどころか、日頃の疲れが吸い取られたかと疑うほどにすっきりとした頭を抱え、それから隣で唸る兄弟に声を掛けた。

 普段よりも幾分か騒がしい食堂の席に着いて、軽めの食事を口に入れる。隣ではフロイドが不機嫌な様子でパンを齧っている。正面では、ずっと目を泳がせたままのアズールが水だけを飲んでいる。ジェイドは食事をさっさと食べ終えると、スマートフォンを取り出す。話題のニュースばかりが取り上げられた情報サイトを眺めれば、真っ先に『千年に一度の彗星』の見出しが飛び込んできた。視線を前に向ければ、煩わしげに水を飲む幼馴染と目が合った。
「彗星、今日らしいですよ」
「知ってますよ! クソ……」
 だん、と乱暴にコップを机に叩き付けると、アズールは早々に席を立つ。思わず笑いを零したジェイドを睨み付ける眼の下は、まだ赤かった。
「観光客向けの事業のお話はいいのですか?」
 揶揄うつもりで口にした言葉を、アズールは真面目な顔をして受け取って、溜息と共に首を振った。
「先に学園長室ですよ、まったく……」
「めんどくせ……」
 フロイドはガジガジと齧っていたパンを適当に飲み込むと、殻にした袋を自分でぐしゃぐしゃに潰した。

 三人揃って学園長からこってり絞られた後、再びジェイドは海岸横の丘に立っていた。
 結局、今回の騒動は浮かれる生徒達を試す避難訓練でしかなかったというのが全ての顛末だった。緊急事態が起きた時、慌てず急がず的確な避難が行えるかどうか、それを試していたという。今になって思えばおかしな点は幾つもあった。例えば、たかが隕石如きを”あの”マレウス・ドラコニアが止められない事だとか。
 もちろん、完璧にこなせた生徒がナイトレイヴンカレッジに居る筈もないが、少なくともほとんどの生徒は故郷へと避難していった。しかし、オンボロ寮生徒を除いて三人だけ、唯一それをしなかった。
 ジェイドは当然、「避難指示が出たら何があろうと従う事!」と叱られた。フロイドは「闇の鏡の前で寝る生徒がいるなんて……」と嘆かれ、アズールは「闇の鏡を何度も使って人探しをしないで下さい!」と切実に呆れられていた。フロイドは「だって」とジェイドを見て、アズールは「すみません」と言って目を逸らした。
 そして長い説教が終わって学園長室を出たところで、ジェイドから「放課後、彗星を観に行きませんか」と誘ったのだった。

 空気の澄んだ賢者の島からは、月も星も綺麗に見える。当然、彗星もだった。熱で空に溶けたはずの彗星は美しい青色の尾を引いて、穏やかな速度で空を横切っていく。
「ジェイド、お前はどうして逃げなかったんですか」
 望み通りに一人で静かに観測をした夢の中と違い、半歩後ろから耳慣れた声が掛かる。その言葉には、彼らしさの薄い無感情さが乗っていた。彼が感情の隠蔽を試みている事には気付かない振りをして、ジェイドはいつも通り平坦に微笑む。
「貴方を待っていたんですよ。約束しましたから」
「してませんよ」
「ふふ、そうでしたか?」
「そうだよ。はぁ……まさかお前がこんな馬鹿な真似をするとは思わなかったから……」
 くしゃりと草を踏み分ける音がして、左隣にアズールが来る。逆側の真横では、大の字になって空を見上げるフロイドがいる。そばの海岸では、夢の中で見たより随分と多くの生徒達が押し合いながら天体観測に勤しんでいた。ジェイドは密やかに目を細め、彼らから視線を外して昏い空を見上げた。
「でも、貴方は来てくれたでしょう。いつも」
 頭上で煌めく星は、決して落ちてこようとはしなかった。手を伸ばしても届かない、夜空の中の塵だった。
 潮風が頬を撫でていく感覚に身を任せ、穏やかに瞬きをする。アズールは何も言わなかった。ただ、砂を蹴る音だけが聴こえてきた。
「アズール、貴方こそどうして人探しを?」
 見上げたままでも、隣で肩を揺らした姿は視認できた。それから歯軋りの音と、眼鏡の金具が触れ合う雑音が混じった。
「……分からないなら、お前はよっぽどの間抜けですよ」
「冗談です。僕のためですよね」
「クソ」
 あからさまな舌打ちが聞こえてきて、ジェイドは楽しくなって口元を弛ませる。夕空に浮かぶ彗星は、依然として強く輝いて、とても消えそうもなかった。
「そういえばフロイド、どうして闇の鏡の前で寝てたんです?」
「アズールがずっと使ってたし、オレの話全然聞かねーし、ジェイドも来ねーし。なんか飽きたから」
「飽きた?」
 飄々とした返答に、アズールが少し剣呑さを込めた声色で聞き返す。その不器用過ぎる心配に、また表情が緩んだ。フロイドはあっけらかんと「うん」と答える。
「めんどくせーんだもん、ふたりとも」
 それだけ言った彼は大きく口を開け、猫のような欠伸をした。

 本格的に寝入ってしまったフロイドの前髪を撫でながら、ふと思い付いてジェイドはアズールの方を見る。彼は見上げていた視線をすぐにジェイドへと向ける。
「アズールは、明日世界が終わるならどうしますか?」
 訊いてみてから、成程と思う。この仮定は確かに気軽で、有り得なくて、面白い。ぽかんとしたアズールの間抜け面を見ながら微笑んでいると、彼はまた真面目な顔になった。
「別に、どうもしませんよ。いつも通り過ごすだけです」
 ジェイドの隣に腰掛けて、アズールは静かに空を見る。随分と暗くなった空の中、赤い光は泳ぎ続ける。唸るフロイドの鼻を摘んで、それからジェイドも空を観た。
「僕もです」

 

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