未明の彗星 - 4/4

 

 ◆◆

 夜の海は深海よりも海面が冷たい。陸に吹いている風というものが温度を奪っていくせいだろう。当然ながら海面から出した顔はもっと寒い。濡れた髪を無為に揺らす夜風は、元より低い人魚の体温を奪う。
 水に落ちてすぐ保護された本は、滲んでいるが幾分か状態が良い。貝殻に書くよりもよっぽど情報量が多くて、飽きずに済む。水中にはない湿った重さを感じながらページを捲る。特に興味もない夜空と動物の絵が描かれていて、無駄に多い文字は読む気を削ぐ。それでも、人より多い脚で体を支えながら、『春の星々』と表された章をずっと読む。
 ちらと視線を真横に流す。そこには変わらずに空を見上げ続けている姿があった。彼は夜空へ見惚れるように、じっと、月や星をその色違いの瞳に映している。彼の視線を追いかけて、僕も空を見上げた。
 丸い金色の月と、小さな煌めきが紫色のドームを飾る。美しい光景だ、とは思ったけれど、これを何時間も見つめ続ける気持ちは理解できない。
再び本に目を落とす。何時間も読み続けたそのページの中に、今しがた見上げた景色が切り取られている事に気が付いた。思わず顔を上げたら、先程は見えなかった一等星が飛び込んできた。
「うわあ……」
 感じたこともない高揚感に感嘆の声が零れた。いつも何を言っても黙って動かないジェイドの事だから、これも気にしないだろうと思った。しかし、予想に反して隣からは身動ぎの気配がした。そちらを見れば、やけに蕩けた瞳と目が合った。
「綺麗ですよね、あの星。君はあの星の名前、知ってますか?」
「……さあ」
「スピカ、って言うんです。真珠星とも呼ばれるんですよ。面白いですよね、空にも真珠があるなんて」
 聞いてもいない答えを、彼は得意げでもなく、ただ独り言のように語った。彼はまた空を向いて、まるで恋するみたいな横顔で、星を見る。
 なんだか悔しくなって、僕はまた本を読む。ぱらぱらとページを捲って、スピカの記述を探す。そして見つけたページの中には、彼が教えた知識しか載っていなかった。歯痒さに脚をばたつかせていると、ジェイドが微かに笑った。
「そろそろ帰りましょうか。もう随分、暗いですから」
 名残惜しそうに夜空を映す目が、横目で僕を見る。気付けば夜も更けて、とっくに門限は過ぎていた。ゆっくり空から視線を外したジェイドが、いつもみたいに手を差し伸べた。それを僕は無視して、ざぶりと海に頭を沈める。
 少し深海へ進んだところで振り返る。ジェイドは付いてきてはいなかった。暗い海の色の向こう側で、彼は空を見上げていた。迷った挙句に僕は本を放って、浮上した。水面から顔を出したら、少しだけびっくりした顔のジェイドが、嬉しそうに笑った。だから僕は、この無意味な時間が嫌いではなかった。

 空が白むまで、僕達は星を観た。朝焼けが近付いて、泳ぎ疲れた脚が尾鰭にぶつかっても、ジェイドは飽きずに尾鰭を揺らしていた。欠伸を噛み殺し、星に飽きた僕は横顔をただ眺める。彼はきっと気が付いている。いつだって僕が飽きて、不貞腐れていることを知っている。それでも約束を交わす僕を、彼がどう思っているかは分からない。ただ僕は、ジェイドと星が観たかった。彼の見る世界が知りたかった。その感情の名前を、僕は知らない。
「……あっ!」
 不意に上がった声に驚いて顔を上げた。すっかり明るくなった空の中に薄い月が浮かんでいる。白い空の中を、赤い星が横切っていた。その星の名前を僕は知っていた。本で読んだばかりのそれを披露したくて、僕は口を開いた。
「彗星!」
 重なった声が、広すぎる水平線へ落ちていった。ジェイドは目を丸くしながら僕を見た。僕はすぐに目を逸らした。
「やっぱり星、好きなんでしょう?」
「別に興味ないって言ってるだろ」
 堪える気もない笑い声が横で機嫌良く鳴る。蟠った感情をどうにかしたくて、未明の空を泳ぐ天体を暫し見つめる。それでも鳴り止まない笑い声に忍耐が切れて、楽しそうに緩んだ頬を引っ張った。

 

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