「疲れました」
革を軋ませながらソファに身体を投げ出す。口を衝いた言葉はわざとらしく投げかけた。びりりと紙が破ける音がして、次いで「え」と呆けた音節が耳に入る。
疲労感はそれほどない。今日の業務はどちらかと言えば楽な方だった。別に飛行術があったわけでもない。ぱらぱら手の中に収まっていた紙切れが床に落ちた。だらりと全身を革張りに預けると随分と重力を軽く感じた。
「……今日は客入りも少なかったはずですよ。お前にはもう少し働いて貰わないと困ります」
「でも、疲れました。文字を見るのも飽きました」
辛うじて絞り出したような台詞は、一度空気に流せば滔々と溢れるらしい。毎度の事ながら合理的なアズールの言葉に面白いと思う反面、面倒な気持ちが沸々と湧いた。両手を投げ出し背凭れに頭を乗せたら、染み一つない天井が見えた。この部屋の天井はこんな色だったか、とどうでもいい思考に沈んでいく。
「何を急に、フロイドじゃあるまいし……」
戸惑った声が溜息混じりに吐き出された。少し間を空け、文字を書く音が再開する。ぼーっと天井を見上げながら、常より拙いリズムを聴く。そして一拍遅れて、今しがた自らに向けられた言葉を咀嚼し始める。
「ジェイド。床に落とした物を拾って下さい、後は寝ていても構わないので」
アズールの声が耳を抜けていく。疲労を主張しても、ジェイドもフロイドも大抵は流される。なあなあで働かされて、別にそれが苦痛なわけではないが、何故だか今現在は納得がいかない気分だった。
「おい、ジェイド」
働く時間が惜しいわけでもない。睡眠時間は十分で、何なら夜中に起きて活動する事も間々ある。趣味の時間も十二分に取れている。では何が不満か、答えはなんとなくとしか言えなかった。投げ出した踵を鳴らすと、アズールが椅子を立つ気配がした。
「ジェイド」
口を閉じる事すら億劫で、ぽかんと気を抜いた顔を正すことなく、覗き込んできたアズールの顔を見返す。想像通りに眉間に皺を寄せて、煩わしげにジェイドを見下ろしている。通常であれば嫌味の一つでも言ってやりたいくらいには分かりやすい表情だった。しかし今は、そんな気も起きず、アズールの顰め面を突き抜けて天井を見続ける事にする。
数秒程、アズールはそのままの顔でジェイドを睨みつけていたが、不意に右手が顔を掴んだ。頬を潰されては、流石に意識をアズールへ遣る。
「どこ見てるんです」
「アズールの間抜け面です」
「天井だろ」
思わずペースに乗っかって減らず口を叩いた自分に驚いた。正直にだけ言葉を紡ぐ心算でいたのに、と潜考している間にアズールの顔が間近に寄った。避ける気もなくただ見ていると、こつりと頭蓋骨同士が接触する。触れた額からじんわりと温い熱が伝ってくる。
「なんです?」
「体調管理を怠りでもしたかと思いましてね。まあ違ったようですが」
アズールが離れると額がすっと冷える。間違いなく平熱である事は自覚がある。そもそも、体調など悪くはない。尚も首や手に触り体温を確かめてくる相手をぼんやり見ながら、未だ残っていた背筋の緊張を解いた。
更にだらんと体勢を崩したジェイドに、アズールが目を丸くしたのが見える。それから胡乱げにジェイドを見つめ、手首を握っていた手を離した。
「体調不良でないなら何なんですか? スケジュールに不満でも?」
鬱陶しげに腕を組み、立ち直る気配の見せないジェイドを目を眇めて見下ろす。そんなアズールを見上げながら、首を傾けて疑念を示した。アズールの眉がぴくりとつり上がる。
「お前な」
その手がジェイドの肩を掴む。抵抗する素振りは見せず、する気もないのでされるがまま、殊更ひどく体勢を崩した。ソファから半分落ちかけたジェイドにアズールの方が驚き、慌てて両脇を持ち上げた。ずるずるとソファの上に戻される。気分は宛ら野良猫だ。
再び革の上に尻を落ち着かせ、困惑と共に汗を拭うアズールを、改めて見上げた。彼の目がジェイドを見たら、自然に口を開いた。
「疲れた、では駄目なんですか」
きょとん、とあからさまに目を開いた。その目はジェイドを見つめ返すばかりで、特に言葉を投げかけるつもりはないらしいと分かったら、更に思考を打ち出した。
「なんとなく、はいけませんか」
言いながら、人体の内で最も重いらしい頭部がソファを滑る。ずるりと背凭れを降りて、今度は肘掛に収まった。寝転がる姿勢を整えるのも面倒で、中途半端に座ったまま体を横たえた。
暫く返答が無かったので、目を閉じる。このまま今日は眠ってしまえとどこか投げやりに思う。どうせ、アズールがいるのだし。
ふと脚が持ち上げられたと思ったら、ソファの上に全身が乗った。薄目を開けると、正にジェイドの首元からストールを抜き取るアズールの様子が見えた。次に腕を持ち上げられ、袖を抜かれた。ごろんとひっくり返されて、もう一方の腕も抜く。随分と軽くなった肩回りに息を吐いていると、今度はベルトが外された。また仰向けに戻されて、首元のボタンを二、三外す。
常より幾分も軽い思考でアズールの動向を窺っていると、アズールもまた着こなした寮服を緩め始めた。きっちり畳まれた外套が対面のソファに並ぶ。
また上半身が持ち上げられた。大人しくしていると、頭を置いていた位置にアズールが腰掛けた。ぎしりと革が軋む。
「……何してるんですか?」
訊くと、アズールは崩した微笑を浮かべ、ジェイドの背中を元の場所へ戻した。自然と頭をアズールに預ける形になる。流石に羞恥が勝り、面倒な身体を起こそうとする。しかし浮かせた腹を押さえつけられ、半ば無理矢理アズールの腿に頭を乗せた。反論をしようとしたら、その前にアズールの手がジェイドの前髪をかき上げた。顕わにされた額に彼の顔が近づき、柔らかい感触を落とされる。至近距離で目を合わせたまま、投げ出していた手を握られた。
「気分屋のご機嫌取りをしてるんですよ」
さり気無い仕草で耳に触れられ、揉むような手付きでピアスの留め具を外される。金属の細い針が抜き取られる感触が厭に鮮明だ。思わず声を殺したら、アズールの唇がくいと持ち上がる。
丁寧に机にピアスを置いた指が、もう一度ジェイドの耳朶の空洞を撫でる。同時に浮いた腹を優しく擦られる。
再度、額にキスをされる。
「お前の機嫌が悪いと困りますから。甘やかしてあげますよ」
くしゃりと頭を撫でられる。何かに靄がかっていた思考が、どろどろに溶かされる心地だった。撫でる手に頭を押し付けると、少し笑う声がした。むっとして見れば、アズールの目元にはうっすら隈が出来ている。そこに意識せずとも手を伸ばし、邪魔そうな眼鏡を取り払った。親指で目元をなぞると、綺麗な瞳が細められる。
結局こうなるのか、と自嘲しつつも、投げ出していた体に神経を通す。握られた手はやっと握り返して、固くも柔くもない腿に頬を沈める。それから体を少し起こして、疲れた顔にキスをする。
「ありがとうございます。お陰様ですっかり元気になりました。では残りの書類を片付けてしまいましょう」
「え」
ぱっと手を払ったら、床に投げてしまった大切な書類を拾い集める。それを呆けたアズールの顔の前に差し出して微笑する。ぎ、と眉間に皺が寄った。愉快で笑うと更に顔を顰めた。
アズールは乱暴にそれを受け取って、ジェイドの手首をも掴み引き寄せた。逆らわず腰を曲げたジェイドの頬に一度キスをする。そのまま耳元に唇を寄せる。
「終わったら」
「駄目です。寝て下さい」
「まだ言い終えてもいないだろうが! ああもう、本当にお前は」
呆れたように言いつつ立ち上がる。少しふらついた体を支えると、悔しげに舌打ちをした。数枚の紙切れを机に勢いよく叩き付けて、それからジェイドの方を振り向く。
「一時間ならいいでしょう」
「ふふ……そんなに溜まっているんですか?」
「違う」
椅子に座るにもがつんと音を立てる。ジェイドの方はもうすっかり機嫌も直ってしまった。反比例のごとく眉間を揉むアズールに笑うと、じろりとジェイドを向いた空色が睨んだ。
「分かりにくいんですよ、お前の甘え方は」
姿勢を正し、いつも通り傍に控えようとしたところで動きを止めた。言葉の意味を一瞬、理解しかねた。当の本人は一度の溜息で済ませ、仕事を再開した。
ああそうか、なるほど、と今更に納得をする。疲れていたわけではなく、これは。
自らの情動を漸く飲み下したら、すっきりとした。どう消化すべきか分からなかったから、全て面倒になってしまったのだ。そこに名前が付いたなら、その対処は容易だった。
「では、甘やかして下さい。アズール」
にこりと笑顔を作って覗き込むと、鬱陶しそうな目が返ってきた。
「今から集中するので黙っててください」
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