ぷくぷくぷく、吐き出す酸素が頭の上であぶくになる。膨れたお腹は満足感を与えてくるのに、一度浮かんだ不満を鎮めてはくれない。いつもは居心地の良い蛸壺ですらも落ち着かなくて、じりじり吸盤を外して這い出した。
砂に着地した六本足が、周囲に転がるプレゼントボックスにぶつかって転がした。解けたリボンが水を漂って海藻みたいだ。ひとつひとつ、綺麗に包装された箱を手に取っては中を覗く。それは勉強道具だったり、きんぴかの何かだったり、スプーンだったり、様々な物達がご機嫌を取ろうと浮いている。しかし、どれも気に入らなくて溜息をついて、またぷくぷく泡を出した。誰がくれたのか、それすらあまり覚えていない。家族でなけば、そもそもどうでも良かったけれど。
箱の中を掻き分けて、砂の上に無造作に転がった貝殻を発見して手に取る。大きさは手のひらより少し小さいくらいで、陶器のような感触をしている。丸い表面はコインみたいにピカピカだ。両手に閉じ込めるようにそれを眺めると、尖っていた唇が笑みをつくった。
これは宝貝と名前の付く貝殻だった。今日が始まってすぐ、蛸壺の前に現れた双子の片割れが、自信満々の笑顔で「あげる!」と投げ渡してきた物だ。あまりに珍しい柄と大きさに驚いた僕に、彼は意地悪そうな顔で笑って、おめでとうと言い残して去っていった。
件の彼とはフロイドで、僕はすぐに片割れも現れるはずだと踏んで、いつもなら家族に挨拶をする時間を過ぎても待っていた。しかし、片割れは来なかった。
何度思い出しても同じ温度でむかむかするものだ。これがもし勝手に期待して待っていたのなら、こんな風には思わなかった。だが彼は確かに昨日、約束したのだ。何が欲しいですか、じゃあそれを持ってきます、待っていて下さい。結局、僕が欲しいといった珍しい貝殻はフロイドが持ってきたし、彼はお祝いすらもしてくれない。泡を吐きながら上を見れば、海面から夕暮れの橙色が良く見えた。
六本の脚を両腕で抱え込んで、顔を埋める。膨らんだ頬が潰れてあぶくが漏れる。結局、あいつも同じだったんだ。僕を期待させるだけで、揶揄うための詭弁でしかなかったのだ。悔しくて、泣きそうになる唇を噛んだ。どうせ今は自分の事など忘れて、気まぐれにプレゼントを寄越してきたあの片割れと楽しく泳いでいるのだと考えると、悲しみと怒りが湧き上がってきて思わず唸った。近くを泳いでいた小魚が自分を遠巻きに消えていく。それにすらムカついて、いっそう頭を足に沈めた。
恨み言を言ったって仕方がない。信じた僕が悪いのだ。あんな甘言を、何の疑いもなく、喜んで頷いた昨日の自分が馬鹿らしくて笑える。強者は所詮、そう在るのだろう。例外なんてそこにはなかった。一瞬でも、あの無邪気そうな笑顔を受け入れた愚かしい心に、冷たい氷のナイフを突き立てるように、内省的な呪詛を吐く。勝手に動く足が砂を撒き散らし、一緒にプレゼントも舞い上がっていく。はっとして、顔を上げる。宝貝まで飛んでいってしまいそうになって、必死になって手を伸ばした。
そのとき、ぶわりと水圧が飛んでくる。波に押され、貝殻が僕の方へ押し戻される。引っ込めそうになった手の中に、ぴたりと収まった。水圧を寄越した正体を恐れて、貝殻だけ持って蛸壺へ引っ込もうとした。
「――、――!」
すると、遠くから声がした。必死に何かを叫ぶようなその声は、ちょっとだけ聞き覚えがある気がした。上半身だけ蛸壺から出して、振り向く。
「――アズール! 見つけた!」
名前を呼ばれた、と気が付くと同時に、その正体を知った。
侮蔑や冷酷さを持たず、ただ溌剌と僕の名前を呼ぶなんて、家族に他にはただひとりしか知らない。
夕暮れの向こう側から、翠色の尾鰭を翻しながら、すごいスピードで泳いでくる。その体に宿った発光体が、ぼんやりと薄暗い深海を照らしている。
ボサボサの髪を波に揺らして、砂埃に塗れた尾を打って、彼は無邪気さを湛えた瞳で僕を見る。暗がりだった小さな世界の中、目の前がチカチカするくらいの眩しさが、そこにあった。
「アズール、これです! 見て下さい!」
彼は一気に距離を詰めて、目の前にまで降りてきた。その尾鰭がプレゼントをまた散らしたけれど、彼は見向きもせずにぼろぼろの両手を差し出してきた。
「……フ、ロイド?」
まるで泥遊びをしたあとみたいな姿に、思わず尋ねてしまう。いつも冷静に振る舞う彼の、こんな姿は見たことがなかった。いつも綺麗に整っている髪も、尾鰭も、汚れてしまいボロボロであった。それと不釣り合いなくらいの笑顔が眩しくて、ちょっとだけ目を細める。すると彼は少し目を丸くしてから笑った。
「その様子では、フロイドはまだなのでしょうか? なら僕の勝ちですね」
「勝ちって?」
「どちらが先に珍しい貝殻を見つけられるか競争していたんです。より珍しいものを、より早く君に渡した方が勝ちです」
「ばかだな」
勝手に競争の舞台に使われて、馬鹿馬鹿しさに溜息が出た。彼は気にもしない様子で、もう一度、手の中に大事に収めていたそれを僕に差し出してきた。
色々な感情に巻き込まれて処理が遅れ、今更になって彼のプレゼントを覗き込む。彼の手の中にあったのは、小さな瑠璃色の貝殻だった。手のひらいっぱいに集められたそれは、まるで海を閉じ込めたかのようだ。
「すごく綺麗でしょう? あっちの浅瀬で拾ってきたんです。君も見たことがないのではありませんか? きっと実験材料としても使えますよ」
片割れと同様に、自信満々に彼は言う。それに少しムカついて、視線を上げて睨み付けた。しかし、すぐに僕は何も言えなくなってしまった。
手の中いっぱいの瑠璃色の貝殻を、どこまでも無邪気に笑って差し出す彼の頬は砂まみれで汚れていた。それなのに、それゆえに、暗くなった深海でも彼はきらきら輝いている。それは発光体のせいじゃないなんて、少しでも考えた僕は馬鹿だ。
「……綺麗だけど、先にする事があるだろ」
「ああ、そうでしたね。お誕生日おめでとうございます、アズール!」
「そっ……うだけど、そうじゃない!」
何の衒いもない言葉に不意を突かれて、何の準備も出来ずに心臓がうるさくなった。彼の笑顔が見ていられなくて、頭を下に向けたままで治癒魔法を掛けてやった。するとまた「ありがとうございます」と無邪気な声が降ってきてどうしようもない。
「……フロイドは今朝、これ持ってきたよ」
誤魔化す代わりに、フロイドからのプレゼントを見せてやると、彼の笑顔が驚きに変わった。
「えっ、これ……宝貝ですね! すごい、さすがに完敗です……」
彼も受け取った時の僕みたいにそれを見つめて、それから眉を下げて溜息をついた。楽しそうな雰囲気は変わらないが、少しだけ肩を落として瑠璃色の貝殻を見ている。
「……なんでおまえが決めてるんだよ」
「えっ?」
「僕のプレゼントなんだろ。だったら僕が決めるべきだ」
気付けば、口が勝手に動いていた。顔を上げた瞳から落胆が消えたのを見て、なぜか安堵した。
「僕は、ジェイドの貝殻のほうが好きだよ。……き、綺麗だし、使い勝手も良さそうだろ」
それは本心だった。そして、目の前の人魚の笑顔を見たいと言う下心だった。あんなにも拗ねていたというのに何とも現金なものだ。
言葉を聞いて更に目を丸くしてしまった彼に、僕はひどく後悔した。ついさっき反省したばかりだったのに、また甘言に踊らされている。しかし、僕の考えが落ちきってしまう前に、彼の手の中からポロポロと瑠璃色が落ちていった。
「あ、おい! 僕の!」
咄嗟に手と足を出して拾い集める。黒い肌に浮かび上がるような瑠璃色は、珍しくないのだとしても、僕にとっては宝石みたいに思える。それくらいに美しい色彩を放っていた。
あまりに静かであることにふと気付き、ぱっと顔を上げた。そして僕は今度こそ、深く後悔した。
「……やっぱり変なひとですね、君って」
くすくす、そう言って柔らかく笑う頬が色付いていて、全身がかっと熱くなった。頭の上から足の先まで血がぐるぐる巡っているような、そんな熱だった。
◇
小瓶に詰め込んだ瑠璃色を揺らしながら、遠いようで近い、昔の事を思い出す。底の方には大きな貝殻も踊っていた。
海水と一緒に詰め込んだ貝殻たちは、まるであの日そのものを閉じ込めているかのように思えて、ずっと手放せないでいる。
結局、記憶の中で砂だらけになってはしゃいでいたジェイドは後にも先にもあの日しか見ていない。一体何が特別だったのかと考えたところで、違う、と自らの思考を否定する。特別だったのは僕の方だ。彼の笑顔も、それに脈動を速める心臓も、馴れ切ってしまうくらいに時間が経ったというだけの話だ。
今日までずっと際限なく増え続けているガラスの瓶をぎゅうぎゅうになった木箱に詰め直しながら、時計を見る。もうすぐ、今年もやってくる。
扉の向こうから、すっかり聞き慣れた足音が聴こえてくる。今年は何が来るだろうか。起き抜けにバースデーソングを熱唱するのと唐揚げを持ち込むのだけは勘弁してほしい、なんて思いながら口元が緩んでいく。今年こそ、抱え込んだ淡い恋心を吹き飛ばしてしまうような酷いイタズラを期待しながら、高鳴る心音を押さえつけ、ベッドの上に倒れ込んだ。
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