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すっかり濡れてしまった箒と体操着を振りながら、しとしと雨を降らせ続ける曇天を睨む。後数時間あれば、数ミリ程度浮き上がる事が出来る計算だったのに、と舌打ちをして地面を蹴った。適当に風の魔法を使って体操着を乾かした。雨を止ませる魔法はあっただろうか。記憶を探るが、今すぐに実践できそうな物は無かった。大人しく待つしかないらしいと分かったら、じたばたせずに壁へ背を預けた。
空を見上げながら、近頃ずっと考え続けている懊悩へ思考を巡らせる。考え始めただけで溜息が出る。アズール同様に濡れながら走り抜けていく生徒、傘を差した生徒が視界を通り過ぎていくのを眺めながら、水を切る様に箒を振った。
気が付いた時には、視界に映るのは背中ばかりになっていた。幼馴染に好きだと伝えたのは昨年の暮れの事で、いつもと変わらぬ笑顔で承諾されたのは未だ鮮やかに思い出せる。ずっと補佐役として傍に置いていたものだから、そこから大きな変化は望めなかった。如何せん近すぎたせいで、手に触れるのも今更に思えて、言葉一つも跳ね付けられると想像すれば言えなかった。触れれば笑ってくれただろう事は想像に難くない。しかし、そこに恋や愛は存在するかと問われれば首を傾げるほかない。きっと彼は面白い事が起きた程度にしか、アズールの告白を受け止めていない。睦言を言おうものなら、真逆の言葉で打ち返される事は分かっていた。
だからこそ、分からない。また溜息が零れた。本人はさり気無く、のつもりであろうが、当事者からすればあからさまな避けられ方をしていた。あの目が最後にアズールを真っ直ぐ見据えたのはいつだったか。
腕時計を一瞥する。もう飛行術を練習する時間はない。くそ、と小さく悪態を吐いて空を見上げた。丁度、陰っていた雲が、太陽を避けるように広がっていくところだった。
雲の切れ間から覗いた太陽がまぶしくて、手の甲で目元を覆う。
「あ」
その指の隙間に、七色の光が映った。そっと手を外して空を見遣れば、からりと広がる群青の空に、綺麗な虹が架かっていた。それを綺麗だと思うより早く、隣で綺麗だと笑う姿が見たいと思った。
乾いた箒を指に引っ掛け、晴れた空の下に足を踏み出す。さっさと片付けてやろうと駆け出したら、水が引っ掛かって転び掛けたので、仕方なく歩く事にする。
倉庫に箒を片付け、更衣室で制服に着替えてからジェイドの教室に向かう。走り出したい気持ちを抑えて、早歩きで進む。目的の扉を見つけるなり押し開け、中を覗いた。しかし、そこには誰もいなかった。黒板を確認し、まっさらである事を確認したら、去ろうとした。しかしふわりと覚えのある潮の香りがして、足を止めた。暫し迷ってから教室に足を踏み入れる。導かれるまま、後ろの方の席に向かう。綺麗な机に手を置くと、慣れた香りが強くなった。
こうして、手を重ねたら。笑うだろうか。まさか照れはしないだろうが、少しくらいは驚くだろうか。好きだと言って頷いたけれど、本心はどうあるのか、知るのも少し恐い気がする。ふと自らの行動の気持ち悪さに気が付いて、後退るように手を離した。重症だな、と独り言ちて、教室を後にした。
次は錬金術室へ向かう。放課後のざわめきが未だ残る廊下を進みながら、窓の外を確認する。綺麗なアーチを描く七色は空に描かれたままだ。
彼は昔から空を眺めるのが好きだったと記憶している。初めて海面から顔を出した時、世界の音が広がった。その事に驚き興奮するフロイドとアズールを微笑んでみていたジェイドは、夜空を見上げて、その凪いだ瞳を輝かせていた。確かに美しいと思ったが、梃子でも動かなくなったジェイドには二人して手を焼いた。最終的には飽きたフロイドが諦めて海を漂い、手に負えず仕方なく、彼の隣で空を見上げたのだった。あの日見た星空は、悔しいくらいに輝いていた。
初めて虹を見た日もそうだった。その瞳いっぱいに七色を映して、楽しそうに見つめ続けていた。その思考が何処に飛んで行っているのかは全く分からなかった。それでも、その隣で見上げた空は、いつも綺麗だった。
錬金術室の扉を開けると、数人の生徒が釜をかき混ぜている最中だった。傍でクルーウェルが様子を監視している。補習だろうとすぐ理解し、ジェイドの姿が無い事を確認したら扉を閉めた。時計を見ると、ラウンジの開店時間に近付いていた。もう闇雲に探し回っている場合でもないかと判断し、端っこに寄りスマホを開く。真っ先に現れる連絡先に通話を繋ぐ。しかし一向に繋がらない。次に二番目の連絡先にも通話を掛ける。何コール待っても繋がらない。
「あいつら……」
思わず愚痴を漏らそうとしたところで、ぽん、と通話の繋がる音がした。
「なに?」
間の抜けた声が聞こえて、ほっと息を吐く。今日は機嫌が悪くなさそうだ。そう考えながら、告げる言葉を組み立てる。
「そろそろ開店時間ですが、ジェイドに連絡が付かないので探してきます。いざとなったらお前に任せます」
「んー……いいよ。さっさと見つけて帰ってきてねぇ」
「ええ」
想定以上に気分が良いらしい。あは、と笑い声が聞こえて、ぷつりと通話が切れた。どうにか開店しそうだと安心し、次の目的地を考える。次は図書館へ向かう事にした。
図書館への道のりは大抵静かだった。今日も例外ではないようで、人影は少ない。角を曲がった所で、逆側へ向かう曲がり角へ消えていく踵が見えたくらいだ。図書館をそっと覗いてみる。そこにも姿は無かった。しかし、窓際の席を見咎め、息を吐く。窓の傍が不自然に濡れている。雨が降り頻る中であろうと開け放ったまま読書や勉強に熱中できる男を一人知っていた。踵を返して、来た道を戻る。もう一度窓の外を見る。空が昏くなり始めて、虹も陰り始めている。
「どこまで行ってるんだ、あいつ……」
普段なら三か所目あたりで見つけている。こうも見つからないと、避けられているせいではないかと思いついた。消えていく虹を惜しく思いながら、最後に植物園を目指す事にした。
植物園は夕方にも関わらず明かりが消えていた。サイエンス部の活動も早く終わったのだろう。適当に中に入って点灯する。そこにもジェイドの姿は無かった。先の考えを半ば肯定された気になって、ずるりと地面に座り込む。
思えば、好きだと告げたのも、気持ちが返されたのも最初の一度だけだった。今更だという気持ちが邪魔をして何も言えないアズールに、ジェイドは何も言わなかった。
「もう、忘れてるんじゃ」
ぽつりと声を落とした。その考えも正しい気がしてしまって頭を抱えた。もう一度、あの一世一代を告げるのは無理だ。次もあの笑顔に迎えられるとは限らない。以前はつまらなかったから、と断られても不思議はない。
ふと視界に小さな原木が入ってきた。小さな茸が頭を出している。ジェイドの物だと考えなくても分かった。なんとなくすがる様に傍に寄る。湿った原木を見下ろして、ずきりと心臓が痛むのを感じた。この世話の痕跡は、ジェイドの愛の証明だ。それが自分にはあるだろうか。恋の一つも告げられない自分には。
はたと気が付いた時には星空があった。驚いて時計を見れば、もうすっかり夜だった。フロイドの事を心配したが、何だかんだで平気な気もする。取り敢えずラウンジへ戻ろうと腰を上げると、外から小さな物音がした。咄嗟にジェイドの顔が浮かんで、すぐに打ち消す。期待などするだけ無駄なのだ。少しの警戒を含ませ、扉を押し開けた。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
目の前に、膝を付いて俯く長身があった。乱れたエメラルドグリーンに覆われた睫毛に大粒の雫が溜まっている。瞬きをする度に白い頬を伝い、地面に向かって落ちていく。その雫には、月の光が反射している。その手が必死に雫を拭う。
「……ジェイド?」
茫然とした響きになった。その光景を、すぐに理解する事は難しかった。目の前で弱々しくも涙を流すこの男が、ジェイドだとは思えなかった。涙に濡れたヘテロクロミアの双眸がアズールを捉え、漸く目前にした事実を飲み下す。ふらりと足が前へ出る。同時に、ぼたぼたと涙を零す目がわざとらしく細まった。
「こんな時間までお疲れ様でした」
涙にぬれた声が鼓膜を揺らす。いつも冷めて回る頭も、絡まってしまっている。どうすべきか分からないまま、弱さを誤魔化そうとするその姿に近付いた。涙を伝わせる白い頬に手を伸ばし、そっと触れる。間違えたら壊れてしまうのではないかと有り得ない想像をして手が震えてしまう。落ちていく涙すらも壊してしまう事を恐れて、そっと拭う。
濡れた瞳は凪いだ振りを続けている。久方ぶりに真っ直ぐに見詰めた黄金色は、緩やかな絶望に揺れていた。その意味が分からなくて、掛ける言葉を思いつかない。
「ねえ、アズール。空を見て下さい」
その指先がすっと、何も言えずにいるアズールの背後を指す。つられて夜空を見上げ、思わず息を呑んだ。そこには、陰ったとばかり思っていた虹が煌煌と輝いて、二人を見下ろしていた。
彼に好きだと言ったのは、去年の暮れ。もうすぐ、あれから一年が経つ。月の虹を瞳いっぱいに映す二色を真っ直ぐに見つめる。
「綺麗でしょう? 月虹、と言うんです。月の光に反射して架かる虹なんですよ」
きっと誤魔化しを含んだ言葉だった。それでも、かつて虹を見つけた日と変わらない燥いだ響きに思えて、心臓の痛みが柔らかく広がっていくのを感じた。にこ、と微笑んだ瞳からまた涙が落ちる。
「……ええ、綺麗ですね。とても」
その涙に反射した七色は、絡まっていた思考を解いていく。頼りなく添えていた右手から今にもすり抜けてしまいそうな頬を両手で包んだ。
「好きですよ、アズール。心の底から。貴方を離したくないくらい」
常と変わらない表情と声が真っ直ぐにアズールに届く。好き、と告げられた言葉が頭に何度もリフレインする。はくりと口が動くが、言葉がどこにも見当たらない。想いばかりは溢れていくのに、一つも形にできなかった。
じ、と見つめる瞳がくしゃりと歪んだ瞬間、腕を伸ばして必死で掻き抱いた。そんな自らの行動に、頭は追い付かないままだ。やりきれない感情を殺そうと、微かに濡れたジェイドのブレザーを握ったら、微かに笑う気配がした。
「ねえ、別れませんか。きっと何も変わりませんよ。僕達に恋や愛は向いていない」
微かな嘲笑が閑静な空間に響いた。脳まで言葉が届いたら、全身の血の気が引く感覚が分かった。咄嗟に肩を掴んで、その瞳を正面に捉える。眉を下げて微笑むのはいつもと同じなのに、涙を零す瞳だけがいつもと違う。すぐに言葉を注ごうとした。しかし、冷え切った指先が、そうではないと叱咤する。
好きだと言っても通じない。心根までは届かない。そもそも伝えたい言葉は、それではないのだから。
アズールの言葉を待つその髪に指を通して、ただ黙って、ふらつく頭を引き寄せた。
視界に色違いの瞳が一杯に広がった。触れる唇はひどく冷たく、塩辛い。まるで海のようだった。背けようとする頭を押さえ、唇を離しては接触する。その度に柔らかな唇にアズールの温度が移っていく。両手がアズールの肩を押す。それでも目を逸らされる事はなかった。手を握り、首を擽る。ぴくりと身体を震わせ、薄く開いた唇に舌を差し込んだ。ぎゅうとジェイドの眉が寄る。乾いた口腔を唾液で湿らせていく。苦しげに浅い呼吸を抜き、手が握り返された。奥で丸まっていた舌を絡ませて引き出すと、冷えた唾液が絡まった。ジェイドの体勢が崩れていく。後頭部を支えながら、そのまま地面に倒す。その拍子に一度離れた唇を再び合わせようとした時、間にジェイドの掌が差し込まれた。
「ま、待って、下さい」
荒く呼吸をしながら、驚いた瞳がアズールを見上げている。涙はもう止まっていた。その手首を掴んで、もう一度口付ける。今度は脚が腿を蹴った。それを膝で押さえつける。もう一度、その口内へ舌を滑り込ませる。苦しげに呻きながら、赤くなった目元がアズールを弱く睨んでいる。くす、とひとつ笑って、口蓋をなぞる。びくりと跳ね上がった腰に手を添えたら、思いきり身を捩って逃げられてしまった。
「な、にを、して」
「嫌でした?」
「な……」
「確かに、僕達に恋や綺麗な愛なんて似合わないと思います。そんな物、お前は受け取る事もできませんから」
逃げる体の横に手を付く。見開かれた目に情けなく縋るようなアズールの姿が映っている。しかし、今はどうだって良かった。シャツの下に手を差し入れて、ゆっくり釦を外していく。
「やめて下さい、こんな所で……」
「こんな所でなければいいんですか?」
息を乱して動揺するジェイドを初めて知った。アズールとの別れを恐れて涙を流す奴だと言う事も、今日知った。やはり、理解など何時まで経っても出来そうもない。
――だからこそ、と思う。
「お前が僕の手を取ったんだ」
肌蹴たシャツの裾を捲る。白い肌が月明かりに照らされていて美しい。震える睫毛の下に、月虹を反射する瞳がある。
「この僕が、手離してやる訳ないでしょう」
見開かれていた瞼が落ちて、残っていた涙が零れる。そして諦めた様に微笑んで、土に汚れた手がアズールの頬に触れる。その手に自らの手を重ね、同じように微笑んでやる。
「僕の部屋とお前達の部屋、どっちがいいですか?」
「……貴方の部屋でお願いします」
その声は未だ不安に揺れ続けている。青空に架かる虹を見て、お前に会いたいと思ったのだと正直に告げたなら、信じてくれるだろうか。
夜空を見上げる瞳の中には、未だ小さな虹が燦然と輝いていた。
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