文字に注視していた目の端へ、動く物体を捉えた。素早く視線を向ければ、シックな色合いの布地に包まれた腕が映る。その指先は、リボンで留められた小さな包を置いた。
辿って見るまでもなく、相変わらずの甘ったるい花の香りがその正体を告げていた。広い共有ルームの中、彼にだけ聞こえるように息をつく。
「毒でも盛りました?」
「あなた相手に必要だと思いますか?」
返された平坦な声音につい睨みつける。想像と違わず、偽物の笑みが茨を見下ろしていた。また聞こえるように、今度は舌打ちをする。
「じゃあ何ですか、イベント用のプレゼントが余ったとか? よりにもよって自分に持ってくるなんて、妙な事もあるもんです」
言いながら、袋に目を遣る。白色のリボンが掛かった透明な袋。その中には、薔薇を模った焼き菓子が入っていた。
ちらと横を見ると、ちょうど弓弦が前に組んだ手を組み替えるのが見えた。
「バレンタインデーの返礼でございますよ」
「は? いや、あんたもあの日にくれましたよね?」
「あなたの購入したチョコレート、かなり高価だったでしょう。あなたに借りを作るのは御免被りたい、と思いましたので、こちらのクッキーを」
するりと細長い指が再度組み替わる。目線を上にずらすと、相も変わらず読めない笑顔だけがあった。
「……贈り物の値段を調べるのはマナー違反なのでは?」
「あなたが善意だけで贈るとでも?」
「いや、…………」
意地やプライドで言わんとした言葉が口の中で交錯し黙ると、弓弦はほら見ろと言いたげな目で茨を見やった。
あの時は嬉しそうにしてた癖に、と胸中で文句を垂れながら、やっと読んでいた本を閉じた。
「まあ、ありがとうございます。一応貰っておきますよ、一応」
「味わって食べてくださいね。良いものですから」
「はいはい。腐らないうちに食べますよー」
藍色を視界から追い出しつつ袋を手に取り、消費期限を確認する。焼き菓子であるためか二ヶ月先まで持つようだった。改めて見えたその菓子は、確かに細かく造形されていて、良いお値段を感じられる。
「では」と短く言い去っていく、嫌味にしゃんとした背を見送って、さっさとリボンを解いた。それから中から取り出した一つをひょいと放り込む。さくりと歯で砕いたはずの感触は、やけに柔らかかった。
「……クッキー、ねえ」
ふわりと広がる焦がしたアーモンドの香りに、瞼の裏のまで焼きついた胡散臭い笑顔を思い浮かべる。こういった俗っぽい文化の、贈り物の意味などを知っているたちなのだろうか。その思考では、興味はなくとも知っている、という答えがしっくりきた。知らないのなら、こんな事をする意味はない。
少し逡巡して、本棚に数ページしか読めなかった文庫本を戻す。珍しく取っていた休憩が潰されたと当て付けに考えながら、無造作に財布を引っ掴んで部屋を出た。
◇
柔らかいベッドに腰を落ち着けて、膝に置いた文庫本のページをめくる。ブックルームから借りてきた小説に目を滑らせながら、弓弦は小さく息をつく。
疑念の消えない意図を探る青色の瞳が、頭の中で繰り返されている。彼は意味を知っているだろうか。興味はなくとも情報として知っているような、そんな気がする。伝わってほしいと思う一方で、知らなくていいと叫ぶ理性も騒がしく、また小さく息を吐いた。
不意に、部屋の戸がノックされる。「はい」と応えて顔を上げ、返事をする前にドアノブが捻られた。
「失礼します」
「お帰りくださいまし」
「いやあ、丁度暇そうで何よりです!」
遠慮なく足を踏み入れてくるのを見て、弓弦は三度目の溜息をつき、ほとんど読めていない本を閉じサイドテーブルに置いた。その間に茨は後ろ手で扉を閉めながら、躊躇いなく弓弦のそばに歩み寄る。
「何です」
「あんたが昼間にくれたお返し、価格がオーバーしていましたよ。というわけで、そのお返しを持ってきました」
「……はあ。わざわざありがとうございます」
否定の句も何となく浮かばず、適当に頷いた。胡散臭い笑みを貼っ付けて、左腕から下げていたビニール袋を弓弦の横に置く。軽く覗き込めば、小さな可愛らしい包みが入っていた。茨はそれを取り出して、弓弦の眼前に持ってくる。
「これは……マシュマロ、でしょうか?」
「そうですよ。これがまた正にぴったりの値段でして!」
「……そう、ですか」
言葉が切れ切れになるのを呼吸で誤魔化して、小さく口を噛む。それから笑みを取り繕って顔を上げると、茨がその包装を無造作に開けていた。はらりと灰色のリボンが足元に落ちる。
「ちょっと……何のつもりで、むぐ」
茨が一粒摘んだと思うと、指先で挟まれた物体が口にぶつかった。ぎゅうと押し付けられて、自然と開いた口の中に滑り込む。思わず咀嚼したら、甘ったるい後味を残して、しゅわりと溶ける。そうして、この贈り物の意味を想起した。
「それはこっちが聞きたいんですけど」
茨は静かにそう言いながら、感傷的になっている弓弦の肩を掴んだ。ベッドのスプリングが小さく鳴いて、茨が膝から乗りあげる。マシュマロを詰め込む袋は容易く倒れ、中身がころりと転がった。それをもう一粒摘んで、また弓弦の口に押し付ける。
「やめ、ん」
抗議を口にすると同時に放り込まれた一粒が舌に乗った。再び溶け始めた甘味に顔を顰める。そして、べたつく指先が頬を掴んだ。
「……っん、」
眼前に迫った青い瞳に驚いて、咄嗟に目を閉じる。すぐに唇に柔らかい感触が押し当てられる。ざらつく砂糖をぬるい感触が浚っていく。不随意に開いた唇から、その体温が捻じ込まれる。崩れかけたマシュマロにそれが触れて、どろりと溶かしていく。絡まった舌の間からは、とろけたキャラメルの味がした。
かちり、と鼻に冷たい感触が当たって、我に返った。押し込まれる感触を追い出すべく、掛かる体重を腕で押し返す。名残惜しく体温が離れて、すぐに自然と酸素を求めて呼吸が荒くなる。
「……ふん。自分は贈り物に込められた意味なんか知りませんが、あのマドレーヌは美味しかったですよ」
潤んだ目元を拭って見れば、茨はブリッジを押し上げ不遜にそう言った。茨の反抗的な目に、今だけは安堵してしまった。
「それは、良かった」
呼吸のたびに広がる甘味に、どうしようもなく心臓が騒ぐ。吐いた息も甘いような錯覚がした。茨がそれを喰らうように口を開いた。肩を押されるがまま倒れてやると、彼は一瞬だけ躊躇ってから、二の腕をぎゅうと握った。
「いいですか、続き」
「……お好きにどうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
首筋に唇が触れて、ぬるい指が肌を滑る。そのどれもが甘ったるく、胃もたれしそうだ。渇くままに汗ばむ首へ腕を回して、唇に噛み付いた。
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