その一言では済まされない - 2/5

 

 二人で縺れながら下山する。帰路の半ばでアズールがジェイドを取り落としかけてからは長い脚をフロイドが両手で抱え、肩を寄せ合い雨避けの範囲を狭くして魔力を節約しながら、漸くコンクリートに足を付けた。カツンと鳴る踵の音が心地良い。水っぽい土の足跡を付着させながらグレートセブンの御前へ辿り着くと、アズール達を待ち構える人影があった。
「無事戻ってきたな、仔犬」
「クルーウェル先生……」
 仁王立ちして不敵に笑むのはクルーウェルだった。鷹揚とした足取りで彼らの傍へ寄り、手を差し伸べる。アズールは躊躇する。しかしフロイドはあっさりと脚部を任せた。アズールの視線を受けたフロイドはへらりと笑う。
「オレが言ったの。ジェイド連れて帰るから助けて〜って」
「お前が?」
「だってオレらだけじゃ、どうにもなんないじゃん?」
 気分屋のこの男は、極限に在ればあるほど、意外と冷静な思考が回る。口には出さず感心をした。クルーウェルの空いた片手が催促に振れたのを見て、アズールも温い半身を預けた。
 着いて来い、と言われるままに背中を追う。向かうのは保健室だ。無作法にも足でドアを引いて、然し対照的な優雅さを以てベッドへ重い長身を横たえた。
 清潔なシーツと布団に挟まれた姿にやっと息をついた。フロイドも同じで、何処か緊張で固まっていた背を曲げてベッドにしがみ付く。
 治癒魔法を断続的に浴びるジェイドを尻目に、アズールはクルーウェルへ向き直る。遊びを含まない真剣な目につい肩に力が入るが、彼はとんとその肩を叩いて落ち着ける。
「リーチ弟から既に話は聞いている。普段と違って整然と話すから驚いたが、お陰で調べ物が捗ったよ」
「原因が分かったんですか? これは唯の自殺行為でないと? では一体何なんです?」
 逸る気持ちが制御し難い。身を乗り出したアズールの肩を押し戻しながらクルーウェルは続ける。
「唐突な自殺衝動というのは儘ある話だが、リーチ兄には前兆が無かったそうだな。古来より意志と反した行動は呪いの類と言われ畏怖の対象とされてきたが……」
「これは呪いなんですか?」
「そう考えるのが妥当だろう。現時点の情報から照合すれば、だが。もう少し様子を見る必要はあるぞ。呪いの詳細を知る為にもな」
 そう告げて、随分顔色もマシになってきたジェイドへ視線をやった。つられてアズールも彼を見る。ぴくりと指先が動くのが分かり、思わず傍へ駆け寄った。
「ジェイド! 起きた!? オレの声聞こえる?」
「お前、随分と迷惑を掛けてくれましたね……完治したら馬車馬のように働かせますから、そのつもりで目覚めて下さいよ」
「うわ、アズール鬼ぃ〜」
 耳元でケラケラと笑うフロイドの声に反応したのか、固く閉じていた瞼がぴくりと痙攣した。既にその下の二色を鮮やかに想像していた。しかし、背後から伸ばされた手によって、瞼が塞がれる。
「ステイだ、仔犬」
 クルーウェルの掌がジェイドの目元を覆って、光を遮る。それから何か呟くと、ジェイドの身体がまた弛緩した。手が外れると、瞼は再度貼り付いていて、その内にすうすうと静かな寝息までもが聞こえ始める。
「何すんだよ」
「吠えるな。今目覚めたところで、原因を解消しない限り、この仔犬は同じ事を繰り返すだけだ」
「目が覚めれば……また、死のうとすると。だから眠らせたんですね?」
 掴み掛からんと立ち上がるフロイドをいなしながらクルーウェルは首肯した。アズール自身も、そこに対する懸念が元よりあった為に冷静でいられている。次に同じ行動をとろうものなら、今度こそ救えない確率は高くなる。一度見つかった場所へ向かう事はないだろうし、ジェイドの中で第二の死に場所だなんて、恐らくフロイドも思い当たらない。
 不満を体現する顔のままで、フロイドがまたベッドに齧り付く。規則正しい寝息を立て、その目前でジェイドは眠っている。これが呪いであろう物ならば、解呪の術を手に入れない限り、恐らくは一生このままだ。
「さて、俺は暫く仔犬の容態を見ておく必要があるな。お前達は好きにしていろ。例えば……図書館でお勉強なんてどうだ?」
「ヤだ。オレ、ここにいる」
「ああ、好きにしろ。怪我さえしなければな」
 むくれるフロイドに語り掛けているようで、言葉はアズールを向いていた。断りの言葉を入れて、アズールは保健室を出ようとする。扉に手を掛けた所で、何かが投げられた。咄嗟に受け取れば、落としていたアズールのスマホだった。クルーウェルの肩は笑う様に揺れていた。

 言われた通り、図書館へ行くのも考えた。しかし、それでは闇雲に探す羽目になると目に見えている。時間の無駄だ。今はとにかく情報が必要だ。しかも、その対象は呪いときた。正直、アズールには専門外に等しい領域である。
 他人を頼る、と思考が回った時点で、アズールの行き先は決まっていた。

「……で、アタシの所に来たってわけ」
 洗練された優雅さを以て、輝くブロンドの髪を払って憂鬱を示す。訪ねたのはヴィルだった。学園中でも、彼は群を抜いて呪いに精通している事は周知の事実である。上品な談話室のソファーで向かい合うと、蠱惑的な香りがした。
「呪いの知識や実践に関して、あなたの右に出る人物はいないでしょう?」
「まぁ、それは認めましょうか。呪いと言えばアタシ、みたいな感覚で来られるのは何だか癪だけど」
「早速ですが、これまでの話から何か分かる事はありますか?」
 無理矢理話を続ければ、鬱陶しいと言わんばかりに顔を顰めた。それすら美しい演技の様で感心してしまう。顎に手を当てて、そうね、と静かに考える。
「アンタの話を聞く限りでは、”生気を奪う呪い”が症状として近いでしょうね」
「……と、言うと?」
「要するに、生きる活力を奪うのよ。自分から勝手に死んでいく呪い、とでも言いましょうか。命を奪う上に知覚が難しいから、術者はかなり限られてくるはず」
 流石、と舌を巻いた振りをしようと思ったが、やめておく。余裕のない今、上手く見せられなかった場合に話を切り上げられる事が怖い。
 ヴィルの話を反芻し、頷いた。確かにジェイドの症状に当て嵌まっている。
「なるほど……では、対処法についてはどうです?」
「次から次に訊いてくるわね……お得意の対価は寄越さないのかしら?」
「必要なら何でもしますよ、あなたが望む事をね。ああ、もちろん僕に可能な範囲でお願いします」
 言い切れば、ヴィルは少し目を瞠る。それから悪戯っぽく、くすくす笑う。その仕草は美しい。
「驚いた。アンタ、相当……。そういうタイプだと思わなかったから意外ね」
「それで? 教えて頂けますよね?」
「いいわ、面白い物が見れたしね。タダで教えてあげましょうか」
 手近な本棚に手を伸ばして、一冊の書籍を手に取る。赤い表紙を開いてパラパラと捲り、途中で動きを止めて、ぱたりとアズールへ見える位置へ倒した。
「さっきも言ったけど、術者は限定的。現代に存在するかも分からない。だから記述は、アタシが知る限りではこの部分だけ」
 すらりとした指が紙の上を滑り、短い文言を撫でる。集中して目で追う。『生気即ち生への頓着を奪う呪術は、解呪法が確立されていない為に禁術指定される』。
「解呪法が……無いだって?」
 茫然と口から零れた音は動揺に震えていた。ヴィルの指が離れて、視線を釘付けられていたページが閉じる。
「そう。術者本人から返還されない限りは、強制的に戻す方法が無いの」
「……そうですか。つまり、術者本人を見つけ出す必要がありますね」
「手っ取り早いのはそれでしょうね。ただ、痕跡の発見がかなり厳しい。まずはジェイド本人からヒントを得るべきよ」
 風光明媚の切れ目が、アズールの苛烈な亢奮を見透かして鎮める。無意識下で抑えていた荒い呼吸を落ち着ける様に長く吐き出せば、ヴィルが華奢な指を立てた。
「その為にも、生気を奪われた人間がどうなってしまうのか。それを知る必要がある。こういう事に詳しい奴も、アンタは知ってるでしょ」
「……ああ。そうですね」
 青く燃え盛る、背を曲げた姿が直ぐに過った。助かる望みがあるのなら、使える物は全て使う気概で首肯した。短く礼を述べて背を向ける。最後に聴こえた優しい溜息がやけに耳に残った。

 煌びやかな談話室とは打って変わって薄暗い部屋に居座りながら、カタカタと閑静な空間に鳴る音を聴く。発生源はアズールに背を向けたまま、もうちょっと待って、と小声で告げる。かつん、かつんと苛立ちに足を踏めば、青い炎がびくりと揺れた。
「イデアさん。もうそのままでいいので、話だけでも聞いて貰いましょうか」
「いやだから、あと少しで進行中のイベ終わるから。報酬受け取るまで待ってくれれば――」
「僕には時間が無いんです。とにかく聞いて下さい」
 無遠慮に丸まった背中に近寄り、耳を覆うヘッドフォンを荒く外した。ああっ、と情けない悲鳴が上がる。それでも手を止めないイデアに半ば呆れて、そのことがアズールを少し冷静にさせた。
「分かった、分かったからそれ以上近寄らないでくれません? 手元狂うんだけど」
「僕には関係ないですよ。後で幾らでも対価として手伝って差し上げます」
「マ? それは助かりますわ。えー、何だっけ、生気を奪われた人間がどうなるか?」
「聞いてるじゃないですか」
 手元も目線もブルーライトに釘付けられたままで応答する。複数の思考が同時並行に動いている様が、ああ無駄な事に才能を使っている、と思わずにはいられない。
「そもそも生気ってのは、まぁ文字通り生きる気力っていうか。具体的には何の為に生きていたいかとか、そういう記憶とか感情に直結する物なんだよね」
 画面の中で大きな装飾の多い剣を振り回すキャラクターが、小さなモンスター相手に空振る。隠す気のない舌打ちが聞こえた。
「拙者で言えば今のこれとか。アズール氏ならラウンジ? で、今のジェイド氏にはそういうのが無くなってるんじゃないか……っていう感じ」
 一気に言い切ってふぅ、と息をつく。聞いているアズールも集中を解いて脱力した。早口に情報を詰め込まれても、フル回転する脳はしっかり処理を済ませた。
「まぁ拙者ジェイド氏の事はさっぱり分からんので、これ以上の有益情報は出ませんぞ。次はリドル氏辺りに訊いてみては?」
「リドルさん? なぜです?」
「ほら、クラスメイトらしいし……何かしら知ってるんじゃないかと……」
 ああ、と椅子に全体重を預けて魂の抜けた顔になる。失敗したらしい。それを後目に、アズールはジメジメとし始めた部屋を出て行った。

「ジェイドの事だろう?」
 顔を見るや否や、リドルは真面目な表情で核心を突いた。面食らうアズールに、ふんと鼻を鳴らした。
「変だったよ、近頃の彼は」
 ノートに綺麗な文字を連ねていく手を止め、律儀にもペンを置いて、勝手に正面へ座ったアズールへ向き合う。埃っぽい図書館に在っても微かに香る薔薇の香が鼻腔を擽る。
「変、と言うのは? 普段と違う風に見えていた?」
「見えていた、というか、そうだった。……彼はスケッチが好きだろう? いつも時間を忘れて没頭している。僕が声を掛けたって気付きやしないんだ」
 自らの持つ認識と相違ない内容に頷きながら耳を傾ける。リドルは一度だけノートに視線を落として、再びアズールと目を合わせた。
「……妙に、写実的だったんだ。このところの、ジェイドのスケッチは」
「腕が上がっていた、という話ですか? 変というのは」
「いいや。これは一つの違和感だよ。話をしていて、その時に……」
 言葉を切り、リドルが足元に置いていた鞄を手に取る。腕を差し込んで、一冊のスケッチブックを取り出した。その表紙を見て、思わずアズールは、あ、と声を上げた。
「それは、ジェイドの物ですね?」
「その通り。スケッチを褒めたら、その時に押し付けられたんだ。必要だろうと何度も断ったのに、『もう必要が無い』と言って」
 机の上を滑らせて、アズールの目前にスケッチブックを置いた。促されるままに開いてみる。最初は見慣れたジェイドのスケッチ。ただの、細部を確かめるだけの線画。しかし、あるページを捲った途端に手が止まった。写真が現れたのだと錯覚した。しかし、それは紛れもなく鉛筆で描かれた、ただの線画であった。
「凄いだろう。ジェイドが『無意味』と言ったスケッチだ。……それだけじゃない、ジェイドは何もかもに興味を失くしていたんだ。まるでフロイドの様に」
 食い入るように、現実離れした美しい線画を眺める。没頭癖のある彼が突然飽きて投げ出すなんてらしくないにも程がある。交流の浅いリドルでさえ、異変に勘付く程の事だった。それを、どうして今まで気付けなかったのか。悔しさに歯噛みするアズールに、リドルがとんと机を指で叩く。
「話はまだだよ。僕がここにいたのは、単なる勉強じゃない。妖精について調べていたんだ」
「……妖精? それはまた、どうしてです?」
「少し心当たりがあってね」
 傍らに積み重ねていた本の塔から一冊抜き取って、パラパラと迷いなく開く。身を乗り出してアズールにそのページを示した。
「この一節だよ。子供騙しな作り話に過ぎないと思っていたけれど、こうも当て嵌まると……疑わしいとは思わないかい?」
 示された章に目を滑らせる。悪戯好きの妖精達、命を奪う呪いの話。絵の才能と引き換えに、命を奪っていく妖精。その名前に聞き覚えはなかった。しかし、心臓が激しく脈打ち始めるのが分かる。こいつだ。確信はないのに、頭がそうだと知っているかのようだ。
「図書館では、この妖精の記述があるのはこれだけのようだね。詳しい情報は、ここには無いだろう。だけど、幸いにも学内には”同族”がいる」
「ええ、非常に幸運な事に、僕にも”同族”の知り合いがいらっしゃいますから、そちらの話を伺ってみるとします」
 彼の言わんとしている事はすぐにでも理解した。アズールも丁度、同じ事を考えていた。挨拶もそこそこに踵を返そうとして、立ち止まる。
「時にリドルさん。今回の件についての対価はいかがです?」
「そういうと思ったから、用意しておいたよ。これを回収していってくれ。処理に困っていたから助かるよ」
 机上をおざなりに指し示して、リドルは再び教科書に向かい始めた。アズールは分かりました、と笑い混じりに返答すると、スケッチブックを抱えてその場を後にした。

「すまんのぉ。丁度、マレウスは出払っていてな」
 暗く荘厳な空気を醸す談話室に通されて、軽い調子で謝辞を述べるリリアと相対する。
「いえいえ。こちらが突然押し掛けて来たわけですから。それに、あなたの話も訊いてみたかったんです」
「そうかそうか、わしで良ければ幾らでも話してやろうではないか!」
 からからと笑い、変な色のお茶を飲む。鮮烈な色彩の瞳が、にぃと細められて背筋がぞくりとした。そんな自らの情動に疑問を抱くも、鋭い牙が零れる口元の動きに気付いて集中する。
「お主は、妖精の事が知りたいんじゃろ? それなら、確かにわしは適任じゃ。なんせ長生きじゃからな」
「……流石ですね」
 胸中を全て知られている錯覚を起こして、どうにか騒がしい脳を黙らせる。何とか絞り出した声が情けなく響いた。ああ、と嘆息しながら、愉しげなリリアに向き直る。
「うちの副寮長が、どうやら悪戯好きの妖精に呪われてしまったようなので、対処法を探しているんですよ」
「おお、その話か。うん、シルバーから伝え聞いておるぞ」
 にっこり笑って告げる言葉に、また息を吐く。情報が早すぎる。今朝の話だぞ。
「まあ、大体の想定は付くな。そいつは昔から人を困らせるのが得意なんじゃ」
「ご存知なんですね?」
「もちろんじゃ! ざっくりぽっきり教えてやろう!」
 パチンと指を鳴らして、紙とペンを引き寄せる。宙に浮かぶ一枚の紙にさらさらとペンを滑らせていたかと思うと、すぐに裏返してアズールに見せる。そこには翅の生えた可愛らしい少女の絵がざっくばらんに描かれている。
「こいつは生来、男好きでのう。好みの人間の男を捕まえては、誘惑して、素晴らしい絵の才能を与えては生気を喰らう。姿かたちを変幻自在に変えられるのが厄介な所じゃな。相手にとって、最も魅力的な容姿を見つけて、抗えない様に近付く……人間には恐ろしい妖精じゃろう」
 リドルの見せてきた一節とかなり一致している。間違いなく、同じ妖精の事を語っている筈だ。
「それで、対処法は?」
「わしの見立てでは、一ヶ月じゃな」
「……何がですか?」
「そやつが生気を奪われてから、初めて本気で死へ向かうまでの期間。つまり、生気のない状態で生きていた期間じゃ」
「え? それは……どういう意味です?」
「化け物並みの精神力と言うべきか、それだけの執着と言うべきか……。どちらにせよ、ここを解明する事が一筋の光明じゃろうな。もう知っておるじゃろうが、一度奪われた生気は術者が生きている限り戻らない。だが、生きる意味を与える事は出来る」
「……つまり、ジェイドは他人のためにしか生きられないと。そう言う事ですか」
 俯き、掌を捩じ切れそうな程に握りしめる。頭に浮かぶのは、楽しそうに好きな物を語る姿ばかりだ。あのキラキラした目が好きだった。それが、永遠に失われるなんて在り得ない。ひどい喪失感が心臓を突き刺すようだ。
 そんな内心を知ってか、リリアが飲んでいたお茶を何処からか引き寄せたカップに注いで、アズールの視界に滑り込ませてきた。相変わらず妙な色をしている。ジェイドの淹れる真紅の水面を思い出した。
「術者を探すにも時間が要る。捻じ伏せるのにも、相応の期間が必要じゃろ。それまで、ずっと寝かせておくのも、お主らにとってもしんどいじゃろう?」
「……それは、そうでしょうね。今でさえ、大分堪えていますから」
「であれば、解決まで粘らせるのが一番良い。とにかく生きていく為の理由を探してやれ。一ヶ月間も無意味な生命を縛り付けた、その執着の出所が判れば万々歳じゃろ?」
 先程までの怪物じみた笑い方はどこへやら、慈愛さえ感じさせる微笑みでアズールを諭す。何だかバツが悪くなって目を逸らす。
「ああ、そうじゃ。今回の相談料はその茶で良いぞ」
「はい?」
「味見係じゃ。何故かシルバーやセベクに断られてしまってのう」
 ちらと視線を手元へ向ける。純粋な期待の眼差しを受けて、躊躇う胃腸を落ち着かせるべく深呼吸をする。それから、覚悟を決めてカップを傾け、一気に喉に流し込んだ。美味しくない。

 咳き込みながらディアソムニア寮を後にしたアズールは、再び保健室へと戻ってきた。相変わらずフロイドはベッドの縁に肘をついて、眠るジェイドを飽きもせずに眺めている。クルーウェルの姿は見えなかった。
「お帰りぃ、アズール」
「ええ。……クルーウェル先生はどちらへ?」
「知らね。授業?」
 適当な返事に息を吐く。元々期待もしていなかったが、周囲の様子に気を配れない程に心身を掻き乱されているらしい。段々とジェイド以上にフロイドが心配になる。
 ふと、そんな自らの思考に対して閃きが下る。つい先刻のリリアとの対話を思い返して、フロイドに視線を遣った。ジェイドが生きる理由を失って尚、この日まで生きた理由になり得る唯一のもの。ジェイドの”特別”。
「フロイド」
「なに?」
「聞いて下さい。今、ジェイドを生かせるのはお前だけです」
 怪訝な顔を作ったフロイドがじとりとアズールに目を遣る。それでも聞く姿勢を取った事を理解して、アズールは集めた情報をかみ砕いて説明する。それをフロイドは黙って聞いて、それから、話終わりに複雑げな表情で口を開いた。
「多分、それオレじゃねーよ」
 半ば呆れ混じりの垂れ目に見られ、意図が測れず眉を顰める。お前以外に誰がいる。しかし聞き返そうとした時、もぞもぞと白い布団が蠢き、二人の視線も思考もそちらへ飛んでいく。
「ジェイドぉ、今度こそ起きた?」
 枕に顎を乗せて、甘えた様な声で問う。固く閉じた瞼がぴくりと動いて、それから、億劫げに押し上げられた。二色の瞳孔が緩々と移動して、フロイド、そしてアズールを捕捉する。ぼんやりと口が開いた。息を詰め言葉を待っていると、ふあ、と小さく欠伸をして閉じられてしまった。
「眠い?」
 フロイドの問い掛けには、重たい瞬きで答える。クルーウェルの魔法が効いているのか、と思い当たる。もちろん疲労もあるだろう。一度、命を落としかけて、死の淵から戻ってきた状態であるのは事実だ。
 生気のない精神のままで目覚めて、ジェイドは直ぐにでも舌を噛み切るなりするかもしれないという危惧があったが、どうにか起きていようとして欠伸を噛み殺す様子に確信をする。フロイドは否定したが、間違いなく、ジェイドは兄弟の為に生きようとした筈だ。
 双子の傍へ歩み寄る。同時に顔を上げた。色違いの二対が、期待の眼差しを向けるその光景は、あまりに平常通りだ。
「ジェイド」
 今すぐにでも吐き出したい胸中を飲み込んで、頭で練ったシナリオを辿り言葉を紡ぐ。
「これからお前を僕の部屋に連れて行きます。一人にする際には鍵を掛け、能動的に自決を試みるようであれば拘束も検討します」
「えっ、アズール? それ監禁じゃね?」
「定期的にフロイドには会わせますから、生きる努力をしなさい。”お前が居ないと駄目になるフロイド”の為に。……いいですね?」
 ジェイドはぼんやりとアズールの唇を見つめている。フロイドも同じようにして、何か言いたげに眉を下げた。しかし、どちらも黙ったままだ。アズールはそれが肯定だと知っている。
 未だ動けないジェイドの腕を掴む。山から運んだ時と同じ様に抱き上げれば、おずおずと首に腕が回る。重たげな頭を胸に預けられ、大袈裟なほど驚いて取り落としそうになった。隣からやや白けた視線を感じて咳払いをする。
「行きますよ、フロイド」
「はぁい」
 やはり自分の判断は間違っていなかったと自信を取り戻す。ジェイドはただ一人の半身の為に生きてきたのだ。そしてきっと、これから、アズール達があの妖精を殺すまでも。
 腕の中で重量を以て存在を主張する彼は、寝ぼけ眼のままでアズールを一心に見つめていた。

 

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