ガチャン、と思いの外重厚な音を響かせながら鍵を開ける。それと同時に、扉越しに室内からも似た音が聞こえてきた。アズールは入り慣れた筈の自室の扉を前に僅かに躊躇って、それから内側に入った。
「戻りましたよ、ジェイド」
後ろ手に鍵を掛け直して、目の前の光景に意識を向ける。ベッドの上でぼんやりと虚空を見つめていたジェイドが、声を掛けると直ぐにアズールの方へ目を向けた。微かに爛々とする生への光が宿り始めた目に、安堵する。
「今日はお前の好きなキノコ料理ですよ。フロイドに作らせました」
温かな湯気の立ち上る皿をことりとベッドサイドのテーブルへ置いた。スプーンはアズールが持っている。誘われる様に身を起こしたジェイドの手足が重い金属音を鳴らした。そちらへ伸ばされたジェイドの手をやんわりとベッドへ戻してから、リゾットにスプーンを差し込む。一般的な一口分を意識して掬い取り、手を添えながら、ぽっかりと開いたままのジェイドの口へ運ぶ。虎鋏を思わせる歯が躊躇いがちに降りてきて、長い舌がスプーンの上に乗った固体を舐める。飲み込み終えたと見て、スプーンを抜き取ると、再び皿へ突っ込む。それを何度も繰り返して、ジェイドの唇が固く閉ざされたら終わり。
「美味しかったようで何よりですよ」
空になった皿へ目を遣りながら語り掛ける。返事はないが、切長の目は何かを訴えかけている気がする。ふふ、と笑えば、心なしか拗ねた様にも見えてくる。
ここ数日で分かったのは、ジェイドが言葉を発さないという事。理由は至って単純。億劫だから。生きる事への未練も無いのに、語る事などないという訳だ。
そして、一人にした瞬間に能動的な自殺を試みるという事。初日、試しにイデアの協力を得て、監視して貰った状態で部屋を出ると、直後にイデアの悲鳴めいた報告が入った。慌てて部屋に戻ると、アズールが愛用しているペンの切っ先を喉元に突き付けた状態で停止するジェイドを目にして、少し裂けた肌から微かに溢れる血を発見し気が動転したフロイドが魔法で部屋をぶっ壊し掛けるという事件が起きた。それからジェイドは両手両足を魔力の込めた鎖でベッドに繋いで寝かせている。
また、アズール若くはフロイドが与える食事は飲み込むという事。逆に言えば、適当に置いておいた食事は恐らく死ぬまで放置する。食事以外の事も全てそうだった。睡眠すらもどちらかが促すまで行おうとしない。抗ってまで目を開けていようとする。初めて気が付いた時には、これは呪いなんだったと再認識させられる程に異様な光景だった。
食器を下げながら、その一挙手一投足を空洞の様な眼で観察し続けるジェイドの傍に件のスケッチブックを置いた。ジェイドは当然、見向きもしない。鉛筆は自傷行為に繋がるため置いていかない。傍を離れようとすると、一瞬だけ、喉がひくりと動くように見える。それでも口を噤むのは、その何も無い筈の心に何かが宿っている証左であるとアズールは信じていた。だからこそ、無意味と知っていても、去り際にその頭を撫でている。
「良い子にしていて下さい。また来ますから」
なるべく優しい声音になるよう告げれば、微かに首を擡げて、頭を手に押し付ける。クルーウェルのように仔犬と称してしまいそうな仕草だ。
「……元に戻ったお前に見せてやりたいですねぇ」
嫌がるのは間違いない。怒るだろうか。照れるのだろうか。それとも、もっと別の感情を示すだろうか。目の前のジェイドはただアズールを見つめるばかりだ。
部屋を出れば、フロイドが待っていた。軽く手を挙げたかと思えば、入れ替わるようにすぐさまジェイドの元へ駆ける。背中を目で追えば、ぱっと顔を上げたジェイドが目に映る。自分の時とは随分違うな、と自嘲して、踵を返した。
アズールの為すべき事は山程あった。学生として勉学に励み、支配人としてラウンジを保ち。しかしそれは片手間にやる事。現在の主目的は術者の探索、それに並行して、ジェイドの正気を取り戻す作戦の考案である。目下の目標はリリアの述べた”執着の出所”を見つける事だ。
迷わず自らが所属する教室へ向かい、予鈴と共に席に着く。フロイドは間に合っただろうか、いやどうせあの様子では離れられない。行儀良く座って机に指定の書籍とノートを並べる。自分すら授業の内容は入らないのだから、別にどちらでもいいのだ。
先生の声を話半分に聞き流し、脳は全く違う動きをする。時折閃いてはノートに書き、違うと思い直して消す作業を繰り返した。そしてチャイムが耳に入るや否や、さっさとそれらを片した。先生が出て行くのだけは待つ。一度部屋へ戻っておくか思案し、移動教室の長さを考慮すると諦めて歩き出した。
「……と、いう訳なんです。何か良い案はありませんかね?」
隣を歩くクラスメイトに声を掛けた途端、思い切り嫌がった表情を見せてスタスタ足を早められる。負けじと追いかける。
「付いてくるな!」
「お忘れですか、僕達クラスメイトなんです。行き先は一緒ですよ!」
「ああそうだったか、全く知らなかったよ!」
廊下では走らない。目立つ事が嫌いなジャミルはこれ以上速度を上げないと知っているアズールは全力で早歩く。体力差で振り切られそうになったが、ちらちらとすれ違う生徒の視線を受けて、既に目立っている事に気が付いたらしいジャミルの速度が落とされ、これ幸いとばかりに並び立った。
「ああクソっ、鬱陶しい……」
忌々しげに呟いて頭を掻いた。目は一切合わせないで、並んで移動する。滑稽に思えて笑いが溢れる。対照的にジャミルは舌打ちをした。
「何か案を出して下されば、対価は弾みますよ」
「要らない。今すぐ消えてくれ」
「つれないことを仰らないで、僕とジャミルさんの仲じゃないですか!」
「俺達の間には何の関係もないね、つまりこの話は終わりだ」
「まぁまぁ、落ち着いて下さい」
「誰のせいだと……あぁ、もう!」
止まらない要求に苛立ちが頂点に達したようだ。立ち止まり、遂にアズールの方を向いた。剣呑な睨み付けを受けて、アズールはにっこり笑う。思惑通りだ。
「何か案を出せばいいんだな? いいだろう、教えてやるよ。ジェイドのユニーク魔法を、お得意の契約で奪えば良い」
思わぬ提案に、「え?」と間の抜けた声調で聞き返した。ジャミルはふんと鼻で笑う。
「要するに、あいつの腹の底が知りたいんだろう? それなら、正に打って付けの魔法じゃないか。あの時フロイドにしていたように、適当に声でも何でも交換して、ジェイド自身に使ってやればいいんだ」
底意地の悪い笑みを浮かべて、アズールに指先を突き付けた。虚をつかれ、つい瞠目したまま黙り込んだ。機嫌が少し直ったジャミルが「それじゃ」と背を向ける。
「流石はジャミルさん! 謀略に長けている! やはりあなたとは良い友達になれそうですよ!」
「ああ、うるさいな! 対価だ! さっさと俺の前から失せろ!」
律儀に立ち止まってから怒鳴る姿に、変な所で面倒見の良い人だと改めて思う。アズールは「もちろんです!」と答え、その言葉通りに方向転換する。
「おい、教室はそっちじゃ……って、ああ。なるほど」
一度呼び止めんとする声がして、すぐに理解を為した呟きが聴こえた。やはり良き理解者である。
騒がしい鏡舎を抜けて、閑散とした寮へ訪れる。そこで予鈴が鳴った。こんなに堂々とサボりをするのは初めてだ。長い廊下を悠々と進み、見慣れた扉の前に立つ。音がしない。二人で眠っているのか、と考える。光景を想像しつつ押し開けた。しかし、実際の景色はそれと重ならなかった。
「……平気ですか、ジェイド」
大きなベッドに繋がれて、ジェイドは傷だらけになった腕を投げ出している。傍にフロイドはいなかった。あの状態から授業へ向かったとは考えづらいが、かと言って別の可能性も浮かばない。釈然としないまま、ジェイドの傍へ寄った。無気力の目が光を宿す。
「アズ、……」
「…………え?」
腕を治療してやる為に近付いた聴覚が、確かな発声を捉えた。よく響く低音に動転した腕が力加減を誤り包帯を千切った。ばっと顔を上げれば、しまった、と言わんばかりに口を噤み目を逸らすジェイドがいる。確信する心臓が激しく脈打っている。
「お前、喋れたのか」
「…………」
「今更誤魔化されませんよ」
目を閉じてベッドに四肢を投げ出したジェイドの襟元を掴み、引き上げる。う、と小さく呻く声は間違いなく目前の喉から転び出た物だ。横に逸れた顔を手で掴んで合わない目を強引に合わせる。
「どうして黙っていたんです?」
色々と。付け加える主語は心の中へ仕舞う。ジェイドの視点はふらふらと宙を漂う。呪いのせいだ、とつい先刻までのアズールであれば思うであろう仕草は、一度感知してしまえば真偽を見抜くのは容易い。
「お前が何も言わないなら、僕もフロイドも、留年するかもしれませんよ」
ぴくりと肩が微かに跳ね、掛かったなと口角を上げる。これは大きな収穫だった。ジャミルの案を試すまでもなく、ジェイドはとうに正気を取り戻している。
しかし、より解せなくなったのは、死を求める行動。ジェイドは正気の頭で考えて、自決せんと動いている事になる。入眠を拒み、空腹を無視して、一人になれば自傷する。そこに意図があるのかどうかすら判らない。そもそも、何も見せないこの男の真意を芯から理解出来た試しは、恐らくなかった。
気まずげに彷徨う視線を追いながら、淀んだふりを続ける瞳の奥から心が見えやしないかと馬鹿な考えを浮かべる。
「……どうしてお前は、そうなんだ」
やっと交わした目の、硝子玉のような事。覗き込む全てを欺く飾り付け。行動の整合性も、思考の流動も、何一つとして判らなかった。滑稽にも必死で駆けずり回るアズールを拒む様に、その瞳は優しげに弧を描いた。
数日経っても状況は好転しなかった。フロイドに尋ねても、ジェイドの声は呪われて以降一度も聞いていないと言う。あれは本当に隙の無い男の見せた唯一の油断であったのだ。油断を引き出した物が自らの名前であった事に不思議な優越感に似た高揚を覚え、そんな自らの心象に呆れた。
少しずつ状況に適応を始めている。当初のような焦燥が薄れている事実に苛ついて爪を噛む。すると、手が引っ張られて口から引き離される。ジェイドが鎖を目一杯に伸ばして、アズールの腕を握っていた。ぼうっと彼を見ていると、にこりと笑って手を離した。あまりにいつも通りの所作で、そこに皮肉も文句も笑い声も付け加えられない事がひどい違和感になる。
限界だ、と思い付いてからは、思考の流れは一瞬だった。離れた手を掴み返して、マジカルペンを振って丸くなった目の真前に黄金の紙をひらりと出現させる。
「契約しましょう」
『Contract』の文字列に数度瞬きをした瞼が不満げに落ちてくる。構わずアズールはペンを手に取って、掴んだ手に握らせる。
「あなたのユニーク魔法を担保に、フロイドを好きなだけ傍に居させましょう。単位も僕が取らせます。どうです? 悪い話ではないはずだ」
大仰な身振りも、鉄壁の笑顔も要らない。必要なのは説得力、そして相手にとっての甘言であることだけだ。内心、半ば祈る様な思いで言葉を作る。ジェイドの口元がぴくりと動き、伏せられていた目がアズールの方へ持ち上がる。きら、と光る金色に勝ちを確信した。
未だ黙したままのジェイドは、浮かぶ笑みを押さえ付けるアズールと契約書を見比べる。ペンを指先で遊ばせながら、紙を爪先で触れた。数度反芻する行動に、アズールの視線を誘導しているのだと思い当たる。契約書を少し倒して互いに見える位置へやり、その爪が指し示す文言に目を通す。フロイド、の単語に何度も指を滑らせている。
「フロイドが何か? 留年はさせませんよ。まさか僕に出来ないとでも?」
アズールの問いかけには首を振る。とんとん、と焦れたように紙を叩いて、じっとアズールを見つめる。
「何です。言わないと分かりませんよ」
少しだけ返答を期待して揶揄すれば、思考する素振りの後、ジェイドは自らの唇を指で触れる。思わず視線を向けていると、ぱくぱくとなに何事かを紡いだ。
アズール、と口遊んだ、と思った。
「……僕が、いいんですか?」
半信半疑で、恐る恐る口に出せば、嘘くさいほど満面の笑みを浮かべてジェイドが頷いた。益々判らなくなってしまう。何故、僕なんだ。フロイドの為に生きている筈なのに、それより僕に居て欲しいのか。頭を占めるのは疑問ばかりだった。それでも期待に煌めく瞳には抗えず、ジェイドの指に合わせて文言を書き換える。自分で自分を条件にするのを気恥ずかしく感じ、抵抗感からゆっくりと換えていく。
完全に書き換わった契約書を覗き込んで、一度頷いたジェイドは、迷い無くペンを走らせ始めた。むしろアズールの方が躊躇している。模範的に美しい文字が契約書を埋めていく。
ペン先が持ち上がった時、ぱちん、と光が弾けた。同時にアズールの手の中へ契約書が舞い落ちる。体内に知らない力が満ち、契約の締結を識る。満足げに微笑んでアズールを見つめるジェイドに、何だかむず痒い思いを抱えた。契約においては絶対的にアズールが優位であるのに、あの日から振り回されてばかりだ。
「……ともあれ、契約は完了です。先生に掛け合って、どうにかお前の傍に居られるよう手配しますから、一日だけ待っていて下さい」
次の行動を組み立てながら宣言すれば、ジェイドはにこにこと機嫌良さげにベッドへ寝転んだ。
事情を理解するクルーウェルの助けを得て、どうにか課題の提出で単位を確保したアズールは、翌日からジェイドの傍で過ごす事になった。それに伴い、ジェイドの自由を奪う枷も外す。これまで夜にはジェイドを寝かしつけた後、隣の空き部屋で眠っていたため、この日もそれに倣うつもりでいた。
笑顔で外れた鎖を遊ばせるジェイドの隣で一日中読書やら勉強をして過ごし、夜を迎え、ではおやすみなさいと口にして部屋を出ようとした。その袖をジェイドが無言で掴んだ。驚嘆して言葉を失っていれば、またくいと引かれる。
「……何なんですか、お前は」
仕方なく隣に戻る。態とらしく眉を下げて自らの隣を視線で示す姿に首を傾げてしまう。生気を吸われる呪いではなかったか、と素直な我儘に疑問を抱く。
「いつもなら、僕には言わない癖に」
当人は体を横たえたまま、きょとんとアズールを見上げている。死を覚悟した嵐の日も、二度と輝いた目を見られないと知った日も、何も言わずにただアズールを見つめていた。その心根が、どうしようもなく、知りたい。全部どうでも良い癖に、それだけは隠したがる深い所を。
「ジェイド、僕の目を……」
そこまで言って、やめた。この慎重を体現したような男に、タネの全てを解した魔法が機能する筈もない。正気である今は確実に弾かれる。
「……おやすみなさい、ジェイド」
一度頭を撫でれば、ふっと体が逆を向く。普段を思わせる動作にほっとしつつ隣へ寝転んだ。
油断を誘わなければ。次に考えなければならないのは、最高難易度の課題だった。少し驚かせる程度の動揺であれば、幾らでも作れる。しかし、心のガードが思わず緩む程の狼狽を見せるジェイドを、アズールはその場で想像出来なかった。
翌日もまた、一日を自室で過ごす。自堕落めいた生活をイデアのようだと自ら揶揄しつつ、昨日と違う本を開く。自由になったジェイドは、何故だかアズールにくっついて過ごしていた。時折膝に頭を預けて眠ったり、擦り寄ってきたり、まるで稚魚のようだ。死へ向かう呪いではなく、退行の魔法でも使われたのではと本気で思った程だ。
だからこそ、体温が離れていく時、絡む視線がアズールから外れた時、活字に意識が向いていてもすぐに分かった。そういう時は決まって、彼は虚空を見ている。アズールに向ける視線を、何も無い空間へ向けるのだ。横顔はまるで恋をしている少女の如く、何かに見惚れた様子をしている。
「ジェイド」
それが何故だか無性にむかついて、数度目で遂に強い語調で名前を呼んだ。するとジェイドの視線はアズールへと帰ってきた。蕩ける程に甘い色が一瞬、アズールを見る。瞬く間に完璧な笑顔に消えてしまったが、それが自棄に脳裏に焼き付いた。
あの目が向けられる奴が心底憎らしい。そんな奴が相手なら、魔法など使わなくても、勝手に心根まで明け渡してしまうのだろう。怨嗟の思考にふと、それこそが名案だと思いついた。
どうせこの図太い精神の持ち主は、殴ろうが嬲ろうが、痛いと言って嘘泣きをするだけ。物の試しで、また寝転んで天井を見ていたジェイドの顔の真横を殴ってみる。体はびくりと少し反応を見せるが、顔は笑顔のままだ。それどころか、『一体何をしてくれるのですか?』とでも言い出しそうな好奇心に満ちた目をしている。今や意地で喋らないだけの健康体だ。
そのまま腕をずらして、投げ出された肩に触れる。ちらりとジェイドの目がそちらへ動く。図らずも外れた鎖を脚で蹴って、重い金属音が鳴る。腕に荷重を掛ければシーツに皺が寄り、ぎしりと音を立てた。何の表情も作らないまま、ただジェイドを見下ろす。ジェイドは意図に勘付いた様子でアズールの動向を窺っている。
「こっちを向け」
静かに声を落とす。目は合った。その奥には強い、強い警戒心。両腕を彼を囲むように付けば、侵入を拒む防衛の気色が強くなった。構わず続ける。
「お前は死にたいんでしょう」
答えはない。ジェイドの目は、何も語りはしない。分かっていた筈だったのに、アズールは拳を固くした。シーツが引き伸ばされていく。
「それなら……僕にくらい、見せたっていいだろうが」
動揺しろ。僕の言葉で、狼狽えろ。そう、願いながら、声帯を引き絞った。
「僕を見ろ。その目で、僕を見て下さい。下等の妖精如きに、お前の想いはやりません」
声が震える。ああ、言うつもりなんて無かったのに。いつものように小馬鹿にした物言いで否定してくれと縮こまる反面、心の端っこで、祈る自分がいた。
ジェイドは暫く黙ったまま目を伏せていた。その時、はっとして顔を引っ掴んだ。目を合わせない意図は一つだ。無理矢理上げさせた顔は想像通りの無表情を形作っている。その瞳孔が絞られた瞬間に、動揺も歓喜もしている暇はなく魔力を一気に左目へと集中させ、顔を近付けた。
「僕の左目を見なさい」
揺れる双眼がアズールの左目に吸い込まれる。あ、と小さな音がその喉から漏れ聞こえた。明白なまでの狼狽だった。
アズールは脳を回す。訊きたい事項は大量にある、だが質問は一つだけだ。熟考した末に、漸く決断し、ゆっくりと口を開いた。
「お前の生きる理由は、何ですか」
はっきりと、聞き逃したなどと言い訳がきかないように、尋ねる。ジェイドの目が大きく見開かれた。目が逸らせないよう、顔を掴む手に力が篭る。逃げ場は無い筈だ。
ふっ、とジェイドの強張っていた全身から力が抜けた。思わず手を離すと、彼は力無く笑う。声がした。
「……アズール」
久方ぶりに、その声を聴いた。鼓膜を優しく叩く、明瞭な低音。随分と長いこと傍に在ったそれは、こうも惜しく思える物か、と取り戻して自らの愛着を知った。
「はい」
「アズール」
「ええ……何ですか?」
もう一度、もう一度と名前を呼ばれる。アズールもその先が聞きたくて何度も返事をする。絡む視線が余りにも切実で、知らず声色が柔くなる。
アズール。ひどく優しい声音が名前を呼んだ。ジェイドの少し細くなった腕が伸ばされる。知らぬ間に骨張っていた指が、アズールの目尻に触れる。そうして、ぎゅっと眉を下げて微笑んだ。これまでの人生の中、長い時間を共にした幼馴染の、見た事のない表情だった。
泣いてしまいそうだなんて、初めて思った。
「僕はあなたの為に生きていたい。アズール、あなたが求めてくれるのなら」
喉が渇いている。声が出ないままで黙していれば、ジェイドの頬を水滴が伝った。やはり泣いてしまったなと考えてそれを拭い、気付く。ジェイドの指は、はらはらと涙の伝い続けるアズールの頬を拭った。
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