その一言では済まされない - 4/5

 

 嵐から一転、からりとした晴れ模様を呈する空の下、アズールは汗を流していた。片手に点灯を続けるスマホを保持して、背後からスキップでもするかの様にご機嫌な鼻歌を聴かされながら、忌々しい山道を邁進していた。
 息を切らしつつ、画面に目を向ける。スピーカーからざりざりと砂を踏む音がしている。歩き慣れている相手の速度は大分早い。焦りペースを上げようとしたが、フロイドがその肩に伸し掛かる。
「おっ、重い……! 殺す気か?」
「オレ疲れたぁ。アズール、先に行っててぇ?」
「はぁ? ここまで来て何を言っているんだ……」
 返す言葉は聞きもせず、地面にぐでんと倒れた。無駄に長い両手両足を遊ばせて、あは、と笑っている。
「……仕方ないですね。もう僕だけで行きます」
「後で追いつくってぇ」
「はいはい」
 背中を泥まみれにしながら笑う顔に、通話口の先に居る相手を想起した。精一杯のだらけ具合を確認しながら背を向け、深呼吸をして、また歩き始めた。
 先の見えない道ほど疲れる物はない。変わらないようでいて、少しずつ様相を変えていく景色だって楽しむ余裕はアズールにない。喉に肉蓋が張り付いて呼吸が苦しい。雨の日よりマシかと思っていたが、案外同等かもしれないと考え直した。スマホを遠ざけてマイク部に指を当てながら咳をする。雨が渇かずに泥濘んでいた地面を気付かず踏んで、舌打ちした。スニーカーが泥に塗れる。
 スピーカー越しにも、似た音が聞こえた。息を詰めて耳を澄ませる。水を含んだ足音は、遂に止まった。辺りを見回して、足跡を探す。見覚えのある登山靴の跡を見つけると、それに並ぶ様に足跡を付けながら追いかけた。

 足跡の先が見えるにつれて、風を感じ始める。地面に注視していた視線を上向ければ、日差しと共に、美しい空色と海色が広がっていた。
 そして、その色に混ざるようにして、翡翠色の後ろ頭が揺れていた。
「……やっと見つけましたよ。全く、この僕に手間を掛けさせて満足ですか?」
 崖際に足を置き、ぱさぱさと乾いた髪を風に靡かせ、全身で振り向く。その目はひどく虚ろだ。そして、どろりと甘く熔けそうな、恋に似た、妙な気配を含んでいた。かくりと首が横に倒れる。稚拙な動作が精神状態の異常を訴えている。
 アズールは一歩、一歩と慎重に近付く。しかし、同時に僅かずつ退く足に気付いて、大股で一気に距離を詰めた。逃げ出す背中を掻き抱いて、目を掌で覆う。
 は、と緊迫した吐息を漏らす。そろそろか。不意に背筋を伝う冷たい気配に、アズールは表情筋を引き攣らせた。
 触らないで。
 それは、美しい音色だった。空のように澄んでいて、海のように凪いでいる。全身を悪寒が包み込む。心臓を掴まれる感覚がしている。リリアを相手にした時に感じた物に近いと考える。
 静かに、緩慢に首を背中側へと向けていく。背中を抱く腕の力だけは緩めない。
「…………ぁ」
 居た。声帯がひくついた。本能的な感情が肉体を硬直させる。
 緑を背景に漂う少女が、適当なスケッチで描かれた姿と重なる。ぴく、と口角が歪む。それを隠す様に舌を噛んで、腕の力を強めた。
 その人は、わたしの恋人になるの。美しい音色は、確固とした響きを持って鼓膜を叩く。小さな柔く白い、生気を持たない手のひらを上向けて、すっと差し出す。渡せと口にせずとも伝えている、可憐な仕草だ。
「……すみません。うちのジェイドが、あなたを誘惑してしまったそうで。ご迷惑をお掛けしました」
 なるべく安易な語彙で語り掛け、しかし重要な所は強めに響かせる。揺らぐ少女の姿が輪郭を持ち始めた。ゆるゆると翅を羽ばたいて、近づいて来る。
「僕の作ったこの身体に魅了されてしまう気持ちは、ええ、よーく分かりますよ。でもね、これは駄目なんです」
 肩に冷たい額が押し付けられる。目元から手を外し、その後頭部を押さえる様に撫でてやった。宙をふらついていた腕が、そっとアズールの背に絡む。
 恐ろしいほど美しい音色が、止む。
「この身体も、この心臓も、僕の物だ」
 互いの身体を引き寄せ合う。心臓が両胸で脈動を続ける。全身が心地良い振動に酔い痴れる。
 あなたも、彼に恋をしているの。
「恋だなんて……そんなもんじゃないですよ」
 彼女と同等なまで白くなった手を取る。それは細いけれど筋張って硬い。
「そんな言葉で表せる物なら――こんなに苦労していない!」
 掴んだ手を自らの肩に回させて、空いた腕を膝裏に差し込む。両腕一杯に抱えた自分より大きな体躯を全身で持ち上げて、そのまま、何気ない動作で崖を踏み外す。
 頭の後ろで悲鳴が木霊する。ずっと耳元に在った声が遠ざかるのに気付けば、ついぞ我慢が決壊し、声を立てて笑った。
 重力に沿って、海面に二人分の重みが叩きつけられ、高い水飛沫を上げた。それに紛れ、アズールは袖から滑り落とした小瓶を呷り、ジェイドに口付けた。あ、と惚けた甘く可憐な声が遠くでして、二人は完全に海中に沈んだ。

 人型が二つ、深海に四肢を投げ出して浮かぶ。その様を眺めていた捕食者達は、不意に踵を返して逃げ出した。アズールの躰から泡が溢れて、彼の纏う脆い布は裂けていく。その隙間から、大きな八本の脚が這い出る。一度に大きく広がった脚は水を掻き混ぜ、残留していた泡も魚も蹴散らした。そして静かになった深海に降り立って、未だ漂う人間の体を、水面へ飛んでいかないように絡め取る。脚は時折びくりと震えながら、ジェイドの手足を努めて優しく掴んでいる。
 ごぽ、と彼の口元から泡が漏れた。酸素を求めて開いた口は水を吸い込もうとする。その前に、ジェイドの体は絡む脚にアズールへと引き寄せられた。
「ジェイド」
 反応の無い頬に手で触れる。密着した胸で、少し遅いジェイドの鼓動と、少し早いアズールの鼓動がズレたリズムを刻んでいる。地上の空気を零す口に、冷たい唇を合わせる。鰓で獲得した酸素を、意識の無い肺へ何度も送る。その内に鼓動は重なり始める。体に、血が巡った。
 途端にアズールの触れていた箇所の全てで、柔い肌を食い破り硬い鱗が露出した。人間体を覆っていた服は鱗に引っ掛かって千切れ、その下から一本の長い尾が海中を舞う。唐突な変貌で掴んでいた脚が滑り、長い体が投げ出される。それを、また絡み付いて、今度は強く引き寄せた。
 アズールは、緩めたら浮かびそうな、力の入っていない肉体を脚で固定する。そして手を伸ばして、ジェイドの髪を引っ掴んだ。
「いつまで寝惚けているつもりです? もう分かっているでしょう、お前なら」
 だらりと散らばる四肢を叱るように縛り付ける。ぐっと顔を近付けて、瞑目した瞼を見詰めた。
「起きろ、ジェイド!」
 そして、思い切り、額同士を打ちつけた。
 衝撃でごぼりと一際大きな泡が溢れて、ジェイドの尾が痙攣する。それから腕が水を掻いて、巻き付いた脚に爪を掛けた。暴れ出した尾を慌ててぎゅうと握り直しながら、その顔を覗き込む。
「痛いです」
 色違いの双眼が、アズールを映していた。いつもの調子で、少し笑みを湛える唇から、ひどく落ち着いた声が零れた。ふ、と堪え切れずにアズールはまた笑う。
「さぁ、仕上げといきましょうか?」

 ◇

 本音を引き摺り出した日を境界にして、ジェイドの回復は目覚ましい物となった。まずその日はアズールをベッドに引き摺り込んだかと思えば一瞬にして爆睡し、起床後には朝から大量の食事を要求し、実際に胃に収めてしまった。食べ終えれば何も無い部屋に暇を訴え、蔑ろにしたスケッチブックを手に取り飽きる事なく窓の外に揺れる草木を写生し始めた。
「お前は本当に……はぁ……」
 くっついたり甘えてきていた態度は何処へやら、窓に齧り付く背中に呆れて溜息を零す。ガリガリと鉛筆の音を部屋中に響かせて、スケッチブックを黒に染める。
 疲弊したアズールが倒れ込むように椅子に座った所で、ガチャリと遠慮なくドアが開く。来客者の正体はそちらを見るまでも無く分かった。
「すげー、マジで元気になってんじゃん」
「元気になり過ぎて困ってますよ。少しくらい、あのしおらしさを残しておくべきでした」
「全然思ってねーくせに」
 軽く笑ってアズールの肩を叩き、そのままジェイドに駆け寄っていく。首に抱き着いたフロイドに、少しだけ驚いた顔をして通常通りに微笑む。いつもの光景だ、と安心が全身に広がるのが分かる。
「うっわ、何それ! 上手すぎてキモい……」
「ふふ、本当ですね」
 しかし、二人の会話が甘い思考を現実へと引き戻した。フロイドはスケッチブックを覗き込んで、身を引いている。遠目で見えたスケッチは、他のページと同様に写真同様の、異常な腕前であった。
 まだ問題は解決していないのだと突きつけられ、体が強張った。当のジェイドは楽しげににこにこしている。フロイドは嫌そうな顔をして兄弟から離れ、アズールの顔を見て、「そういえばさぁ」と思い出したように言う。
「そろそろ魔法薬切れる時期じゃん? アズール、ちゃんと覚えてたぁ?」
 揶揄う言葉に言い返そうと思ったが、口を噤んだ。確かに忘れていた。嵐の夕刻を想起して、思わずジェイドを見つめれば、感慨の無い目線が返ってくる。
「……そうでしたね。予備は常に用意しているので、足りなければ取りに来て下さい」
「ダイジョーブ、今二人分あるから」
 にや、と上がる下瞼が小憎たらしい。しかしアズールには、そこに含まれる寂しさも読み取れた。だから何も言わずに頷いた。フロイドもにっこり笑顔を作るだけだ。
 近頃の忙しさで机に出しっ放しになっていた魔法薬を持ち、スケッチブックを眺めるジェイドの傍へ歩み寄り、その目の前に瓶を突き出す。
「聞いていたでしょう? 今すぐ飲んで下さい。僕達の前で」
「……おやおや。信用を失ってしまいましたねぇ」
「当然だろう。僕はもうあんな事はごめんです」
 画材を膝に置いて、ジェイドは瓶を受け取った。後ろからフロイドも、アズールの肩に腕を置いて覗き込んでくる。鬱陶しいと腕を払い退けると、今度は逆側の肩に置いたので諦める。
 瓶の蓋を開けて、口元まで持ち上げる。そして静止した。二人分の視線に焼かれるジェイドは微笑んだままで、瓶を傾けた。
 きっかり百八十度、床へ向けて。
「うわぁっ!? 何をしてるんだ、お前っ!」
 咄嗟に手を出して落ちていくガラス瓶を受け止めたが、中身は全て溢れてしまっていた。深い青色が床に飛び散っている。
「あーあ、床ビッショビショ。アズールかわいそー」
「すみません、ついうっかり手が滑ってしまって……僕、病み上がりなもので」
 ふふ、と笑い合う双子に、安心も微笑ましいとももう思わなかった。浮上する怒りやら焦りやらで掻き乱され、少し深呼吸をすれば、むしろ冷静になれた。
「どういうつもりですか?」
 『手が滑った』が嘘であるのは自明だ。しかし、アズールの製作物をひっくり返す行動が無意味である筈もない。突然落ち着きを取り戻したアズールが面白いのか、くすくす笑いながら、話し始める。
「僕に呪いをかけた妖精の事は、きっとアズールはもう知っているでしょう?」
「ええ、まあ。詳しい方から教えて頂きましたが」
「どうやら僕、この人間の身体を甚く気に入られてしまったようで……ずっと付き纏われているんです。早く来いと言わんばかりに、常に視界に入ってきて」
 言いながら、何も無い空間に笑いかける。指でくるりと円を描く。そこにいると示しているのだろう。アズールもフロイドにも、何も見えない。
「もう僕、頭がどうにかなりそうで。ご飯も美味しくありませんし、眠ると悪夢を見るので辛くて」
「……昨日は大量に食べて寝ていましたが」
「我慢したんですよ。アズールの為に」
 眉を下げて微笑む表情をじっと見る。顔色ひとつ変わらない口から流れる言葉は、どこまで信用できるか分からない。それでも、アズールには嘘では無いと分かった。床に出来た水溜りを踏んで、作られた困り顔に手を触れる。驚きに目が丸まった。
「それは偉いですね、褒めてやりましょう」
 子供にするように頭を撫でれば、手が伸びてきて払いのけられる。
「必要ありません」
「ああ、でもお前が健気にも我慢をしてしまったら……つい手が出てしまいそうです!」
「……言いたい事は分かりました」
 気が削げて逸れた顔に満足して手を離す。青白くなった手を指でなぞり、言い募る。
「こういうのはナシにしましょう。お前は死にたくない筈で、僕達もお前を失いたくない。利害は見事に一致している」
 いつの間にか外れていた腕に気付き振り向けば、水魔法で遊びながら溢れた魔法薬を瓶に集めるフロイドがいた。話を聞いていたのか、大口を開けたままこくこくと頷いている。
 ジェイドはまた空を突く。その目は少しぼんやりしていたが、恋に溺れる色彩は消えていた。
「彼女、人間の僕が好きらしいんです」
 話が飛んで、聞き返しそうになった。すぐに先のアズールの質問へ対する返答の続きと気付き、黙って促す。
「もうじき、僕の自由意志は奪われます。そうなれば、魔法薬を継ぎ足して人間の姿を保った僕から命を吸って、彼女の物にされてしまいます」
「何でそんなことが分かるんですか」
「予兆があるので。少しずつ、頭の中に別に思考が紛れ込んできて……ふふ。愛を囁くんです。傍にいて、私の物になって……と、ね」
 笑い混じりの平易な声調に、世間話を聞いている気分になる。反して内容はとんでもなく、予想以上に時間がない事をさらりと告げている。
「僕はそれがどうしても嫌なので、目の前で人魚になってやろうと思いまして」
 ふふ、と笑うジェイドがあまりに生き生きとしていて、そんな表情を作らせる呪いに少し嫉妬に似た対抗心を抱く。そして馬鹿だなと思い、アズールも笑った。
「いいでしょう。その案はなかなか面白そうだ。さすが、僕の選んだ右腕です」
「ふふふっ……ああ、怒らないで。僕はあなたを楽しませたいだけなんですよ、ふふふふ……」
「……ジェイドぉ、他でそれやんないでよ」
 空中に向けてほくそ笑む姿にフロイドが提言する。異様な光景であると共に、ジェイドがやると非常に怖い。言われてジェイドは更に笑った。命の危機に瀕しているというのに、全力で楽しんでいる。呆れながらも、ジェイドらしいとつい呟いた。

 ◇

 少女は激しく波打つ海面を見下ろしていた。恋した筈の人間が、魚に変わる様を、哀しそうに見つめていた。海の獣になって、長い八本の手足に包まれる横顔が余りにも熱心で、嘆息する。
 長い長い尾と手足を絡ませ合って、体を寄せ合う、水面下の姿。紫色の長い腕が彼の中心を撫でて、開いた唇の隙からぽこぽこと泡を零す。赤く染まった恋慕した人魚を失望の眼差しで見つめる。空洞に良く似た、浅い好奇心に満ちる黒の瞳一杯に、恋ではない、愛と呼ぶのも烏滸がましい、どろりとした激情の交差が映っていた。
 だから、何も気づかない。足音にも、蠢く魔力の気配にも、笑い声にすら。

「ばぁ♡」
 周囲を包んだ魔力に漸く羽ばたいた時には遅い。陽に透き通る透明で美麗の翅を風が千切る。真白の柔い肌を火が焼く。迫る死の気配に、とてもとても美しく可憐な声が、ごめんなさい、と必死になって音を鳴らす。
「ごめんなさい?」
 く、と喉の奥で咬み殺した笑いで、平坦を装っていた顔が嗜虐に歪んだ。
「あははは! んな言葉で済まされる訳ねぇだろうが!」
 美しく歪んだ音色が、山間に幾重にも響き渡って、太陽を隠していった。

 崖に立ってゆらゆらと笑うシルエットが、そこから広がる海を見下ろしている。少しして、高い水柱が競り上がった。
「ぷっ……あっはっはっは!」
 くぐもった水中の音が跳ね上がり、三人分の笑声が木霊する。それを邪魔しようとする愚か者は、何処にもいない。

 

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