痛む首を片手で支えながら、軋む脚を前へ動かす。ぱきりと鳴る関節に、流石にやりすぎたと息をつく。
先ほど確認した時間は、朝オフィスに入った時間とほぼ同じだった。大型の案件が入って夢中になってしまったらしい、とその時にやっと気が付いて、ようやく重い頭が休憩を求め始めた。茨はいつもよりぼやける目を擦りながら、取り急ぎ糖分を求める脳味噌のために、近くの自動販売機を目指す。
目的地が視認できたところで、同時に人影を見つけた。こんな時間に一体誰だ、と考えたところで、ゆっくり回る頭が現在時刻を正しく思い出して首を振った。むしろ早めに出勤している人間なだけだ。候補がいくつか掠めて、問題ないと判断する。
藍色に近い髪色が見えて、ぼやけた像が脳内ではっきりとつむぎの形を作った。適当な挨拶を浮かべながら足早に近づいた。
「おはようございます! 早くからお疲れ様であります、つ……」
疲れた腹から声を出して敬礼すれば、目の前の彼が振り向いた。そして、冷たい紫色の瞳が茨を見て、遅れて脳内から穏やかな笑顔が崩れ去った。
「……おっと、間違えました! これは最悪です!」
「そうでしょうね」
はあ、と分かりやすく呆れを呈した。その声で重たい頭が強制的に目覚めていく。やっぱり徹夜なんてするもんじゃない、と猛省しながら、せめて崩れないように笑顔を保つ。弓弦はちらとそれを見て、視線を外し背を向けた。
「おや、いいんですか? 弓弦ともあろう者が自分に背中を見せるなんて」
「今のあなたに何ができると言うんです?」
茨を見もせずに答えて、手に持っていたクリーンワイパーを床に滑らせる。
「体調管理くらいちゃんとしなさい」
振り返った弓弦と目が合う。そう言って、目の前の自販機下を清掃すると、さっさと茨の横を通り去っていく。
偉そうに。疲弊した脳が打ちそうになった舌をどうにか抑えて、反抗する口角をどうにか持ち上げた。
「あっはっは、ご忠告痛み入ります! 暇そうなあんたには言われたくないですが!」
むかついたついでに一矢報いるくらいの気持ちで笑う。すると、真っ直ぐ伸びた背中がぴたりと止まった。予想外の反応に茨も動きを止めてしまう。一瞬の沈黙が、人気のない廊下では恐ろしいほどの静けさを生む。
「……どうしました?」
「いえ。目の前にごみがありましたので」
思わず問いかけた茨に、弓弦は間髪入れず答えた。さっと床をワイパーでさらって、何事もなかったかのようにまた歩みを進める。その迷いない姿に、ちょっとの動揺が馬鹿らしく思えて、ふんと鼻を鳴らし目をそらす。ポケットに手を突っ込んで、適当に小銭を取り出し、投入口に差し入れる。
「…………」
がたん、がたん。音を立てて落ちてきた缶コーヒーに、ぐるぐる回る鈍い頭が後悔する。横目で見た弓弦はまだ遠くない。頭をがしがし掻き回して、意を決して二つの缶を取り出した。
一本は近くのテーブルに置いて、残った一本は、思いっきり、遠ざかっていく背中に向かって振りかぶった。手を放すより前に振り返った、その顔面目掛けてぶん投げた。当然のように弓弦の手はそれをキャッチして、殺気立つ目を茨に向ける。
「何のつもりです?」
「いやあ、どうも地雷を踏んでしまったようで申し訳なくて! ほんのお詫びの気持ちであります!」
「ほう、それで缶コーヒーで頭部を狙ったと?」
表情だけにこやかに引き返してくる弓弦にほんの少し怯む思いを殺して、茨も一歩踏み出した。弓弦は意外そうな顔をして、茨の少し手前で足を止めた。
「そういえば、あんたに話したいことがありまして」
「わたくしにはございませんが」
「仕事の話以外なら、俺だってそうです」
さっきから睡眠を所望し続けている脳を酷使して口を動かす。警戒心を隠しもしない弓弦は、しかし少し考えるそぶりを見せた。今度は上がってしまいそうな口角を制御しながら、ゆっくり息を吐いた。
「今夜あたりどうですか? 食事でも」
「……早めに寝たほうがよろしいのでは?」
「寝ぼけてねぇよ」
◇
木製の長椅子に腰かけて、水を運んできた店員に会釈する。わいわいと騒がしい店内を、中華の香りが充満している。
茨は黙ってスマートフォンの画面を睨む。迫ってきた約束の時間に、内心で弱気な思いが首をもたげる。そこで、大声を出す客に交じって、聞き慣れたやわらかい発声が耳に入った。顔を上げると、茨に気づいた弓弦が小さく手を上げた。
彼は早足で近づいてくると、茨の正面へ丁寧な所作で座った。
「すみません。事務処理に少々手間取ってしまいまして」
「全然気にしてませんよ、来ないだろうと思いながら待ってましたから」
「約束したのに、来ないわけないでしょう?」
まったく、とぼやき幼い頃に見飽きた顔で茨を見遣る。茨は頬の裏側を噛みながら、ついっと視線を外して、それからメニュー表を手に取った。
「それで、話というのは?」
「その前に注文しません? 何も頼まずにくっちゃべってたら追い出されかねませんし」
「……適当に頼んでくださいまし」
弓弦は気乗りしない様子で、背もたれに体を預けた。それを一瞥してから、茨も適当にメニューに目を通す。いくつか候補を立て、弓弦へ水を運んできた店員を呼び止める。
「八宝菜と、麻婆豆腐、小籠包……」
メニューに映る写真を指さす。弓弦からにらまれているような気がしたが無視をする。どうせ栄養価が、だとか思っているのだろう。そう決めつけて、以上で、と言おうとしたところで正面から手が伸びてくる。
「こちらも追加でお願いいたします。以上で」
茨の手を押しのけたその指先は棒棒鶏を指していた。
店員が去って行ったあと、テーブルから体を離した弓弦が小さく息をついた。
「随分お腹が空いているようですね」
「育ち盛りなもので」
そうですか、と返しながら弓弦がスマートフォンを取り出した。その誤魔化すような動作に、自然と表情筋が笑みを形作った。
「あんた、相変わらず猫舌なんですね~」
「それが何か?」
「いえ別に?」
軽率に殺気を放つ弓弦にも、揶揄いたい気持ちが先行して笑顔が引っ込まない。弓弦は顔をしかめて、スマートフォンを収める。
「本題に入りませんか? お互い、あまり時間もないでしょう」
「……んー、そうですね」
無意識にポケットをコツコツ叩く。なかなか切り出さない茨を、弓弦は怪訝に見る。茨は一定して騒がしい店内をに目を向け、それから弓弦を見た。敵意を混ぜ込んだその視線を切るように水を飲む。
「茨……」
「そんなに焦らなくても、どうせ時間ならいくらでもあるでしょうに」
「ありがたいことに、仕事なら有り余るほどございますので」
「そりゃあ良かったですね……っと」
そこでポケットの中が震える。取り出したスマートフォンの画面に表示される名前を確認して、それから腰を上げる。
「ちょっと失礼します」
「どうぞ遠慮なく、出て行ってくださいまし」
「はいはい、すぐ戻りますからね~!」
弓弦が顔を背けたのを見てから席を離れる。すれ違った店員からは、やたらに旨そうな匂いが漂っていた。
人をかき分けつつ店の前へ出る。それから、健気にも震え続ける端末の画面をタップした。
『……あー、もしもし? 茨?』
「はい、七種茨であります!」
『うわっ、声でかっ! 今日は妙にテンション高いっすねぇ……』
電話口から一瞬遠ざかった声が、はは、と軽く笑った。その表情が目に浮かぶようで、咳払いでそれを遮る。
「で、用件は?」
『いや用件っつっても、特に何も……頼まれた通り、ナギ先輩もおひいさんと一緒に俺の部屋にいるし』
背後から延々と聞こえる喧噪とは別に、スピーカー越しにも楽しげな声がする。微かにでもちゃんと二人分の話し声が聞こえて安堵する。それで、と少しだけ疲れたような、遊び疲れた残滓を纏う声色でジュンが言う。
『今日の用事って、聞いて良いやつなんすかねぇ? 思わず何も聞かずにお二人の面倒見たり、電話かけたりしちまいましたけど』
「ああ、気になってはいたんですね?」
『そりゃまあ。珍しく楽しそうにしてるもんだから、個人的な用事だと思ってますけど』
「誰が」
思わず大声を出しそうになったが無理やり飲み込む。それから声量を抑えながら「気のせいじゃないですか」と続けると、息だけで笑う音が聴こえてきた。
「ジュン~?」
『あ、すんません。誰といるか察しがついちまったっつうか……んじゃそろそろ切りますよぉ、こっちもおひいさんに呼ばれてるんで!』
「は? あなた何か勘違いしてません――」
ぶつん。正しくぶった切られた電話はツー、ツーと終わったことだけを伝えていた。行き場を失った言い訳が夜の空気に溶けていくのを虚しく感じながら、舌打ち交じりに端末の電源を切った。
やや重い足取りで席に戻ると、広々としていたテーブルの上が大皿に埋め尽くされていた。真面目に小さな画面を眺めていた弓弦が、戻ってきた茨に気付き顔を上げる。
「帰ったのかと思いました」
「一瞬そう思ったんですけど、やっぱりお腹が空いてまして」
「それは良かった。流石に食べきれそうもない量が並べられて、どうしようかと」
茨も席につく。目の前には小皿と箸、お手拭きが丁寧に置かれていた。
楽しそうにしてるもんだから。頭の中でもう一度、そうやって笑う声が響いてきた。むかむかするのを水で流し込んで、それからぱちんと手を合わせた。つられるように、弓弦も同じ動作をする。
「いただきます」
綺麗に重なった声は、横のブースから聞こえる笑い声にかき消された。それでも、気まずく思って口を曲げる。目の前の弓弦は、何を言うでもなく懐かしそうに目を細めていた。
最初に手を付けた麻婆豆腐はあまりの辛さに後回しにして、八宝菜を放り込む。弓弦はさりげなく小籠包と棒棒鶏の位置を入れ替えて、棒棒鶏以外の皿で茨の周りを取り囲んだ。
「……食べにくいんですけど?」
「近くにあったほうが取りやすいでしょう?」
「こんなに密集してたら逆効果なんですが」
じとりと睨まれても弓弦は意に介さず、冷めた中華スープを飲んでいる。絶対に熱い方が美味しいだろうにと思いつつ、口には出さず、とろけた餡を飲み込んだ。
こつん、と静かにカップを置いて、弓弦が口を開く。
「それで? そろそろ、何を企んでいるのか話しなさい」
その冷え切った声色に、茨も顔を顰めながら、空にした小皿の上に箸を置く。
「企むだなんて人聞きの悪い……こっちも話す気が失せます」
「ふむ……では言い方を変えましょうか? 今すぐ話さないと追い出しますよ、この世から」
「普通に怖いんでやめてくれませんかね、それ?」
延々と垂れ流されている野球中継を横目で見ながら、冷えたお手拭きで口元をぬぐう。食べる前から変わらず綺麗なままの弓弦の唇からは、ふうと溜息が零れた。
「とりあえず食べ終わってからで。自分、昨日は一日ずっと食べてなかったんですよ」
「自業自得でございますが。……まぁ、いいでしょう」
頷いて、弓弦は中身の減ったスープカップを持ち上げた。すっかり冷製になっているであろう液体を飲み込み動く喉を眺めて、茨も箸を持ち直した。
「さすが教官殿は懐が広い! というわけで、お礼に小籠包を」
「要りません」
「もうとっくに冷めてますよ」
「結構です」
押し合う皿が立てる雑音も、周囲の喧噪に紛れるのに気づいて、改めて自分の選択を称賛した。箸で掴んだ小籠包を口元までもっていくと、観念したように弓弦の口が開く。茨はまるで幻覚のような心地でそれを見て、それから、空気に酔っぱらった心臓が馬鹿みたいに音を立てるのを遠く聞いていた。
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