エディブルタイム - 2/5

 
 ◇

 ピピ、と頭上から夢を裂かれて、目を開けた。充電の減ったその画面を叩いて、しばし真っ白な頭でそれを見下ろす。それから、せり上がってきた麻婆豆腐の味に昨晩のことを思い出した。
 軽く吐きそうになりながら、常備の胃薬を食道に押しやる。完全に食べ過ぎた。胃袋へ詰め込まれたきつい香辛料の匂いと同時に、自己責任です、と涼しい顔で微笑む憎らしい姿が鮮明に思い浮かんでくる。睡眠不足に過食でふらつき、肩を借りた屈辱まで思い出してしまって眉間を揉んだ。
「でもまあ、おかげで……」
 ぽつりと声が零れてから、はっと顔を上げる。ルームメイト達はとうに起きて出払っていた。安堵しつつ、疲労から緩んだ口を押さえた。手のひらを押し上げる口角に気付くと、またジュンの笑い声が聞こえた気がして手近な枕を殴りつけた。

 部屋を出ると、すぐそばに人の気配がした。そちらへ顔を向ければ、すぐにその相手と目が合った。ぼやけてもいない茨の目はそれを正しく捉え、「げっ」と声を出した。
「起きましたか」
「何やってるんですか、ここで」
「昨日はあんな様子でしたから。一応、状態を見ておこうかと」
 言葉通り、弓弦の手には水やら胃薬やらが入った買い物袋がぶら下げられていた。茨はそれを一瞥して、鼻で笑う。
「お優しいことで。まったく必要ありませんけどね、もう対処は済ませました」
「……そうですか、」
 弓弦は何か言いたげに、うっすら口を開いたまま言葉を切った。
 微妙に目が合わない。それに無性に苛立って、はあ、と聞こえるように溜息をついた。
「いくら暇だからって、誰かの代わりにされるのはごめんですよ」
 ぴく、と弓弦の空っぽな指先が動く。わずかに目が泳いで、それから、殺気を帯びないそれが茨を睨んだ。
「まさか。あなたが坊ちゃまの代わりになるとでも? 御冗談を」
「坊ちゃまだなんて一言も言ってませんが?」
「……いつまでも減らない口でございますね」
 眉根を寄せながら、弓弦は不機嫌に顔を背ける。それで、ようやく踵を返した。
 無言でそれを見送ろうとして、ふと防備もなく向けられる背へ、ほぼ無意識に手が伸びる。指先が肩甲骨に触れる寸前、予備動作もないまま弓弦は振り向きざまに茨の手首を掴んだ。その隙のかけらもない動作と自分の行動に驚き固まる茨に、弓弦は呆れた目を向けて言う。
「構ってほしいのならそう言いなさい」
「はぁ~? こっちの台詞なんですけど!?」
 掴む手を振り払って、地味に痛い手首をさする。思わず噛み付いた茨に、弓弦は不快げに顔をゆがめた。
「妄想も大概にして下さいまし」
「あーはいはい、すみませんね! じゃあ今日の約束はなかったことにしていいですよ!」
 やけくそ気味にそう言えば、弓弦は目を丸くした。また意外な反応を受けて黙った茨に、弓弦がゆっくり視線を逸らしていく。またしんとした廊下を、別の階で走る誰かの足音が響いた。
「……なんだよ」
 しびれを切らして、しかし空気に負けて小さく声を上げる。弓弦は目を逸らしたまま、同じくらい小さな声で呟いた。
「そこまでは、言ってません」

 ◇

 徹夜した分、今日に回ってきた仕事も多くはなかった。さして凝り固まらずに済んだ肩を軽く回して、人のはけたオフィスを後にする。
 日が落ち蛍光灯だけが照らす廊下に出る。何となく周囲を確認してから、エレベーターに近寄った。降下のボタンを押し、現在の階数を確認する。
「あ……」
 エレベーターの駆動音以外に音もない空間で、その一音は大きめに反響した。また口元を押さえながら息を吐く。茨の選んだエレベーターは、20階から下ってきていた。
 ずれた鞄を持ち直していると、目の前の電光掲示は18階を示す。小さく音が鳴り、ドアが開いた。
「……ああ。やはり茨でしたか」
 驚くでもなく、顔を顰めるでもなく、弓弦はただそこにいた。特段感情を含まず形式的に会釈をした弓弦に、茨は何も言わず乗り込んで、開閉ボタンを連打した。

 特に会話もないまま、星奏館へ到着する。明かりも随分と消えていて、住人のほとんどが眠りについているであろうことが一目で分かる。自然と足音を立てずに歩いていると、隣からぬるい視線を感じて睨み返した。弓弦は小さく笑って目を逸らした。
 目的地である共用ルームに着くと、そこも明かりが落とされていた。そのことにほっとしながら、パチリと照明をつける。茨の横を抜けて先に入室した弓弦は、机やらソファの裏やらを確認してから、キッチンへと向かっていった。それを見てから、茨もコーヒーテーブルのほうへ寄る。今日は特に使われた形跡もなく、綺麗だった。
 キッチンから一番近い椅子を引いて座る。弓弦は冷蔵庫を開いて、使われた残りの大根や人参を取り出していた。
「……なんか手伝いましょうか?」
「いえ。すぐに終わりますから、好きに待っていて下さいまし」
 鼻歌交じりに野菜を洗い始めた弓弦に、そうですか、とだけ返して茨は頬杖をついた。閉じたブラインドからは何も見えない。特に確認すべきメールも資料もない。なれば、と暇に任せて、弓弦の手元に目を遣った。
 とんとんとん、と長ねぎが小気味よく端から刻まれていく。いつだったか、こうして眺めていた調理風景も手馴れていると感心したものだが、今はその頃と比べ物にならない手早さだった。それが経過した年月を思わせる。なにか妙に引っかかって、もやもやする感情に眉を顰める。
「……何です? その顔は」
「別に……」
「まぁ、何でもいいですが。普通に気に障るのでやめた方がいいですよ」
「うるさい」
「ガキですか、あなた?」
 まったく、と子供を叱るような調子で言うだけ言って、弓弦はまた作業に戻っていく。そのやり取りのせいか、言葉に反して柔らかさの残る声色のせいか、いやに懐かしさが胸を満たす。
 茨は耐え切れずに席を立って、そこから逃げるようにしてソファに座り、ついでにテレビをつけた。途端に流れ出した音量の大きさに慌てて消音にする。キッチンからは、小さな溜息が漏れ聞こえていた。

 興味もない深夜番組の映像を見つめているうちに、ふわりと出汁の香りが漂ってくる。肩越しにそっと振り向いたら、鍋をかき混ぜる弓弦が見えた。テレビを消して、もう一度キッチンのそばに寄る。近くに来た茨に気付いた弓弦は顔を上げ、楽しそうなままで言う。
「もう少しですからね」
「……一応言っときますけど、我慢できずに見に来たわけじゃないですから」
 柔らかく微笑む弓弦がなんとなく直視できず、鍋の中身を覗く。昔、好きだった豚汁がくるくると渦を巻いていた。湧き上がる感情やら言葉を、今は何も出したくなくて頬の裏を噛む。
 徐にお玉で掬い上げられた大根たちは、小さな皿に移され、茨の顔の前に差し出された。
「だから……つまみ食いしに来たわけじゃないんですけど……」
「味見してもらいたいだけですよ。どうぞ」
「はー、ほんっとに話が通じませんね」
 しぶしぶ受け取って、皿の端っこに口をつけ軽く傾ける。舌に乗っかった大根はやわらかくて、茨が好きな具合だった。苦虫を嚙み潰したような顔をする茨に、弓弦は首を傾けた。
「味の好み、変わりました?」
「全っ然」
 空にした小皿を突き返す。弓弦は片眉を上げて、しかし何も言わずに頷いた。

 汁椀によそった豚汁をテーブルに置くと同時に、茨の前に箸置きと箸が設置される。その犯人を睨んでも、にこりと笑顔が返るばかりだ。不機嫌なまま席に着く。弓弦もその正面に座って、それから手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
 癖みたいにつられて手を合わせ、箸を掴む。それを形の綺麗な大根に突き刺して、口の中に放り込む。とけるようなそれが好きだったことを、嫌でも思い出す。
「茨。お箸は刺すものじゃありませんよ」
「はいはい、どうもありがとうございます! 自分のことは気にせず食べてもらって結構ですよー」
「……誤魔化すのだけは上手なんですから」
 弓弦はしぶしぶ、と言った様子で箸を手に取った。椀を持ち上げ、ひとかけの豚肉を口に入れる。それでも熱かったらしく、唇を丸めた弓弦の顔は、昔と全然変わらない。つい息を抜いて笑うと、すかさず睨まれた。
「知ってます? 猫舌って治るらしいですよ」
「はい?」
「普通は舌の先を隠して食べるんです。こうやって……」
 揶揄いついでに、誤魔化しも込めていつだかネットで仕入れた知識を披露する。口を開け舌先を下側にいれてみせると、不愉快げに茨を見ていた弓弦も興味を持ったようで、真似してちいさく口を開ける。
「んー……もうちょっと開けてくれます? 見えないんで」
「……こうですか?」
 いつもなら即座に拒否されそうなところを、弓弦は真面目な顔で従う。そこまで気にしているとは知らなかった。意外に思いつつ、まあ真面目なこいつらしいかと納得もして、茨もちょっとだけ真面目に見てやることにする。
「あー、まだ下に……ていうか舌先浮いてません? それじゃ意味ないですよ」
「……本当ですか?」
「鏡でも見せましょうか?」
 言うと、弓弦は黙って口元を隠した。疑念の残るような目で茨を見つつ、何やら頑張っている様子だった。指の隙間から見えないかと目を細めて、ふと我に返る。俯瞰して見たら、何をやっているのだろうかとしか言えない状況だった。気恥ずかしさを紛らわそうと、椀を手に取って一口啜る。なかなか冷めないそれは相変わらず美味しかった。
 そうして茨がゆっくり味わっていると、弓弦もおもむろに椀を持った。恐る恐ると言った様子で、そうっと口をつける。
「熱っ」
「……下手すぎません?」
 自分の横にだけ用意していた冷水で舌を冷やして、それから弓弦は疲れたように溜息をついた。
「また今度、正しい方法を調べて練習します」
「まだ疑ってたんですか」
「日頃の行いを省みたらどうです?」
 舌を火傷したくせに涼しげな顔をする。むかついて、これ見よがしに豚汁を掻きこむ。弓弦からは「行儀が悪いですよ」と呆れた声が飛んでくるばかりだった。

「……そういえば、話って結局何なんです?」
 すっかり冷めた豚汁を悠長に飲みながら、ふと弓弦が問う。上手いこと話をずらして、あともう少しで誤魔化せるはずだったのに。茨は歯噛みして使い終えた食器を洗いながら、数瞬聞こえなかったふりをしようか迷ってから、弓弦のほうを見た。
「忘れました!」

 

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