◇
は、と思い出したかのように目を覚ました。手足を投げ出してベッドの上に横たわる自分の、ここへ到達するまでの記憶を手繰り寄せる。最後に見た光景が泡だらけのシンクだったことしか思い出せない。
しかし、起き上がろうとした瞬間に鳩尾に感じた痛みで唐突にすべて思い出し、理解した。蹲って腹を押さえる。痣にでもなっていそうで捲るのが躊躇われるくらいには痛かった。
「くっそ、本気でやりやがって……」
「何がですか?」
意識の外から飛んできた声に、腹を摩って丸めていた身体をすぐさま伸ばす。扉のそばで振り向いて、首をかしげているのは、今度こそつむぎだった。
「あっ、すみません。思わず返事しちゃいました。ひとり言でしたよね」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ありません! 自分の事はお気になさらず!」
「はい、じゃあそうさせてもらいますね……あ、そういえば」
扉を開けたまま、つむぎは半身だけ振り向いて、荷物を抱えるのと別の腕で茨のほうを指さした。咄嗟にその先を追えば、枕元に小さな紙切れが落ちているのに気が付いた。
「それ、伏見くんが読んでって言っていましたよ」
「……弓弦がですか?」
「すごい時間でしたけど、物音でつい目が覚めちゃって。昨日の伏見くん、なんだかサンタクロースみたいでしたよ」
「それはそれは……」
ふふっと笑うつむぎの言葉に、思わず脳裏へその光景を想像してしまった。それじゃあ、と言い残して、つむぎは荷物を引きずりながら廊下へ引っ込んでいった。
暫し閉じたドアを睨んで、はあ、と息をつく。それから、枕元の紙切れをひっつかむ。どう見ても、ちぎったノートの切れ端だった。
顔を洗い、着替えながら確認した腹は特に痣もなく、化かされた気分になりながら部屋を出る。軽く警戒しながら顔を出した廊下には、しかし誰もいなかった。ポケットに突っ込んだ紙切れを取り出して、溜息をつき、朝の匂いがする星奏館を出た。
どうせなら雨でも降らないだろうかと思いながら出た外は、皮肉なことに雲一つない快晴だった。希望交じりに手に取った傘はしぶしぶ傘立てへと返却する。じり、と肌を焼く気さえする太陽に目を細めつつ、バッグを持ち直した。
持ってきた帽子を目深に被り、通りに踏み出す。街は活気にあふれていて、本日が世間的な休日であることを思い出した。楽しげに笑って通り過ぎる人々を後目に、茨は足取り重くスーパーに向かった。
◇
がちゃり、と鈍い音が鳴った。久々に回した鍵は少しだけ重かった。ESから少し離れた場所に位置するアパートの一室。その扉を押し開けて、冷たい空気を吸い込んだ。
両腕に抱えた買い物袋をどさりと玄関に置き、明かりを点灯する。ゆっくりと光度を増していく明かりが照らし出した廊下は、やや埃っぽかった。
「…………はあー」
玄関扉を閉じて、肩を落とす。掃除機はどこにやったっけ、とぼやきながら、殺風景な部屋へと足を踏み入れた。
扉と同じく重くなった窓を全開にして、納戸から探し当てた掃除機を掛けていると、空気を吸い上げる駆動音に交じってインターホンが鳴らされるのが聴こえた。つい動作を止めたが少し考え、一度聞かなかったことにして掃除を再開する。すると今度は、ポケットに入れたスマートフォンが振動し始めた。無視を決め込もうとしたが鳴りやまない着信に負け、掃除機を止める。
「……はいはい、七種茨でありますがどちら様ですかー?」
『開けてくださいまし』
「どちら様で――」
『茨?』
「……今開けますから、ドア壊さないで下さいねー? 敷金かかるんで」
言い終わる前に通話終了の音がして舌打ちする。やけになって掃除機を放り出したまま、ちらと横目で見えた買い物袋の山も見なかったことにし、玄関へ直行する。
躊躇いがちに鍵を回す。すぐ入ってくるかと思い身構えて一歩下がるが、しんと静寂が通り過ぎた。その妙な礼儀正しさにむかついて、思い切りドアを押し開けた。
「相変わらず、お行儀の悪い子ですね」
開け放ったドアの向こうには、涼しい顔をしてすれすれの位置に立つ弓弦の姿があった。そのまま彼は相変わらずの小言を挟む。
「あっはっは、あんたには敵いませんけどね! どうぞご勝手にお入りください!」
「……では、失礼いたします」
丁寧にドアを閉じて、弓弦は玄関に足を踏み入れた。上品な革靴が狭いコンクリートの玄関に並ぶ。その異様さに口を歪める茨を一瞥して、弓弦はにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。本日は気温も低めでしたので、外で待つのは少々厳しく……」
笑顔の裏に隠れた毒を吐く口が途中で閉じる。茨は鼻を鳴らして、ざまあみろと内心で笑う。
「すみませんね、久しぶりに来たもので。掃除中でして」
「……なるほど。それに関しては……わたくしのせいでもありますね」
口には出さずに同調していると、弓弦は先にリビングまで歩みを進める。早足でそれについていくと、弓弦は少し部屋を見回したあと、息をついた。それから、先ほど放り出した掃除機を手に取った。
「わたくしが掃除をいたしますから、茨はあちらを片付けてくださいまし」
「あれもあんたが買えって言ったものですよ?」
「お手伝いしない子はご飯抜きでございます」
「……はいはい」
気のない返事でも言質は取ったと言わんばかりに微笑んで、弓弦は掃除を開始した。手際よく、丁寧に部屋に溜まった埃をしまい込んでいく。同じ掃除機だろうかと疑ってしまいそうだ。そんなことを考えながら、いつまでも現実逃避を続けるわけにもいかず、茨も重い腰を上げて雑に放った買い物袋に手を掛けた。
気づけば午前中だったはずの時計は午後を示して、解放されたままの窓の外から正午を告げるチャイムが聴こえてくる。空っぽにした買い物袋を三角形にたたみながら振り向くと、白っぽくなっていたはずのフローリングはぴかぴかになっていた。
「もう十分じゃないですか?」
掃除機を仕舞ったあとも乾拭きを続けている弓弦に、軽く引きながらそう投げかける。いつからか歌っていたご機嫌な鼻歌はそこで止まった。
「……すみません、つい夢中になってしまいました。そろそろご飯にいたしましょうか」
「いや別に綺麗になるぶんにはいいですけど……」
弓弦はかがめていた足を伸ばすと、汚れの少ない布巾をゴミ箱に放った。「もったいない」と思わずつぶやくと彼が眉を顰めた。また小言を言われると分かって、誤魔化すように窓を閉めた。
適当に暖房を入れた後、冷蔵庫を開いて確認し始めた弓弦のほうへ寄っていく。弓弦はまた大根やねぎを取り出して、今度は茨に次々と手渡していく。咄嗟に受け取ってはシンク横の台へと置いた。
「えーと、これをどうしろと?」
「食べやすい大きさに切ってくださいまし。わたくしはお肉を切りますので」
「……あー、はいはい、なるほど。わかりましたよ」
当然として指示を下す横顔に、掃除を始めたときに言われた台詞が浮かんだ。同い年のくせに、どこまでも子供のように扱われてむかつくし、むず痒い。そんな思いは溜息でいったん逃してから、ほぼ新品のまな板を引っ張り出した。
とんとん、と包丁がまな板を叩く音がする。野菜を刻む動作にもさすがに慣れてきた。包丁で指を切ることも、最近はめっきり無くなった。無心でねぎを切り刻んでいると、弓弦が茨の方を向いた。何かを言おうとしたらしい口元は、何も言わずに閉じる。
「……なんですか」
「……いえ、上手になりましたね?」
「それはまあ。あんたも知っての通り、割と料理をする機会もあるもので」
根本を切り落として、シンクの中に放り込む。弓弦は黙ったまま視線を手元に戻して、バラ肉に包丁を入れた。
野菜を切り終えて手を洗っていると、同じく処理を終えた弓弦が棚の中から土鍋を取り出した。そんなの持ってたっけな、と思いつつ眺めていると、土鍋を手に弓弦がそばへ寄ってきた。
「水を入れていただけますか?」
「ああ、はい」
ぱっと手を濡らした水を切って、鍋の方へ蛇口を動かす。半分辺りまで入れたところで弓弦は鍋をさっさとよけて火にかける。ぽいぽいと鍋の中へ食材を投げ入れ、手際よく調味料を混ぜ込むと、これまたどこかから携帯用のコンロを取り出した。
「……懐かし」
「はい?」
「いえ、なんでも」
ガスボンベを取り付ける姿が、野営したときに見た弓弦に重なって見える。何を作っているのかは、もう聞かずともわかってしまった。
一応と敷いた鍋敷きの上にコンロをセットし終えたところで、両手にミトンを付けた弓弦が土鍋を運んできた。皿と箸は今度は茨が用意した。弓弦はシンクを軽く片してから席に着く。閉じていた蓋を開けると、ふわりと立ち上る湯気とともに、懐かしい香りが部屋を満たした。
弓弦がぱちんと両手を合わせる。
「いただきます」
「い、……ただきます」
膝立ちのまま手を合わせそうになって、慌てて居住まいを正した。弓弦はにこりと目元だけで笑ったので、茨も同じように笑って返す。
鍋をつつく用に用意しておいた箸を持ち上げた弓弦は、茨の皿を手に取った。「ちょっと」と反射的に文句を言うが、弓弦はひょいひょいと野菜と肉をバランスよく取り分けて入れる。
丁度良く一度分の量が乗ったかと思うと、ことりと目の前に置かれる。野菜の山の頂点には、出汁に色づいた卵が鎮座していた。
「…………」
「おや。卵、好きではありませんでしたか?」
「好きですけど。むかつきまして」
「はあ」
理解を示した様子のない声に、茨はさっと手を伸ばして弓弦の手から箸を奪い取る。咎める視線を避けて、もう片手で弓弦の皿を奪う。何か言われる前にと、その皿にもぽいぽい野菜を乗せていく。付け足すように肉と卵を乗っけて、得意げに弓弦の前に差し出した。
「どうぞ、お返しです」
「ありがとうございます。バランスは悪くありませんね」
「それは何よりです! じゃあ、さっさと食べましょうか」
割り箸をぱきりと割って、ポン酢を入れた小皿に白菜を通す。そのまま口に放り込んだら、予想通りの味がした。口の中から脳に染み出していく懐かしさで、また顔を顰めていた茨に、弓弦が首を傾げる。
「昔と同じ味付けのはずですが……?」
「はー……だ、か、ら、ですよ」
「はあ」
弓弦も遅れて割り箸を割り開く。一番上に乗せていた細切れの肉をぱくりと食べる。そのまま数回咀嚼して、頷く。
「良く分かりませんが、まあ、美味しいですね?」
「ええ、まったくその通りですね! いくらでも食べられそうですよ!」
「何を不機嫌になっているのですか」
土台を崩すと落っこちそうで邪魔な卵を突き刺す。弓弦は眉を上げ、しかし何も言わずに自分の皿に視線を落とす。かぶりついた卵の味は懐かしくて、溜息が出る。
「分からないのはこっちですよ。自分の話はもう忘れたので一生出てきません。それなのに一緒に食事をしようなんて、どういうつもりなんですかね」
「あなただって、同じでしょう。ありもしない話という理由で呼び出して……」
「忘れただけです」
「あなた、嘘をつくとき目を合わせませんよね」
突然冷えた声にビビって、思わず顔を上げる。ばっちり目が合ったところで、弓弦が目を細めて笑った。
「嘘ですよ」
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