話がどん詰まりまでやってきて、一時休戦しテレビを付ける。世間一般に言う団らんの様相を呈してきた。あまりに異様な状況だ。しかし、それを指摘するには、鍋の中身が余り過ぎていた。
からん、とコップに入れた氷が傾く。温めた室温で溶けてきたらしい。中身は煮沸しただけの水でも、見た目だけは立派なものだ。卵で乾燥した喉を潤していると、弓弦もコップの中身を呷った。舌をほんの少し出して水を飲む姿はまるで犬か猫のようだ。
「……火傷しました?」
「していません」
「じゃあ目合わせてくださいよ」
さっきの仕返しとばかりに言ってやれば、黙ったまま両手で持ち上げていたコップを置いた。茨をかるく睨んだその目は少しだけ潤んでいる。
「絶対火傷しましたよね」
「していません」
「氷とか食べたらどうですか?」
「……なるほど」
水のなくなったコップを傾けると、つるりと氷が滑って弓弦の口の中へ落ちて行った。
弓弦はそうして氷を舌で転がしながら、暇に任せて残りの野菜を二人の皿に取り分ける。山の頂点へとぺらぺらの白菜が乗せられるのを最後に、弓弦が箸を置く。鍋を覗き込めば、そこには飴色の湯だけが揺蕩っていた。
しんとした部屋に、テレビの音だけが響いている。窓から差し込む陽がわずかに傾いていた。茨はだんだんとなくなっていく質量を箸でつつきながら、ひたすらに理由を探していた。
不意に弓弦が席を立った。先に食べ終えてしまったようで、彼は空になった皿をシンクまで運んでいく。茨はその背中を目で追い、弱気な気持ちが擡げる。
引き返してきた弓弦が今度は土鍋を持っていく。それからガスコンロ。鍋敷き。コップ。机の上は、ついに茨の皿とコップだけになる。
黙って食器を洗う背中を横目に、だらだらと食事を長引かせる。もうとっくに冷めてしまった豚肉をかみちぎって、残り数ミリだけの水で流し込む。
すべて洗い終えた弓弦がまた机の方へとやってきた。空になった茨のコップを持って、最後の一口だけ残された皿に視線を落とす。茨が黙って薄い白菜をつついていると、沈黙を破り「茨」と彼が名前を呼んだ。
「なんですか」
「早く食べてしまいなさい。片付けられませんよ」
「……わかってますよ」
最後の一口を摘まみ上げて、溜息をつきながら、やっと口に放り込む。弓弦は「よくできました」と言うなり、すぐにその皿を取り上げてしまった。
シンクへ運ばれていく食器を名残惜しく目で追いかける。そんな茨に、弓弦は小さく笑って、言った。
「デザートはプリンとパンナコッタ、どちらがいいですか?」
思わず動きを止めて、間抜けに口を開けてしまう。それからばっと顔を背けて頬杖をつけば、くすりと笑う声が聴こえた。
午後三時が近づいて、番組表も落ち着いてくる。静かな語り口のナレーションを流し聞きながらスマホの画面を眺めていた茨の前に、ことりとココット皿が置かれる。顔を上げたら、対面に座ってスプーンを差し出す弓弦と目が合う。
「どうぞ」
「……どうも」
なんとなくの気まずさから、視線から逃げてデザートの中身を覗き込む。黄金色の柔らかい表面が詰まっている。スプーンの先でそっと掬い上げると、ふるふると揺れる。落っことさないように口まで運ぶ。舌の上で広がったそれは、昔食べたものよりも美味しかった。
「ん、悪くありませんね」
弓弦がそう呟く。ちらと目線だけで見た弓弦は、もうひと口を掬っているところだった。弓弦の口が小さく開いて、柔らかい身を満足そうに食んでいる。
「……コーヒー、淹れてきます。いります?」
「あ……はい。では、お願いします」
食べかけのまま席を立ってから、通販で購入したはずのコーヒーメーカーの在処について、必死に思い出そうと脳味噌が回りだした。
どうにか見つけ出したそれで二杯分のコーヒーを用意する。こぽこぽという音と一緒に立つ湯気はいい香りがしている。かろうじて残っていたマグカップに注いで、机に戻る。弓弦はなぜかじいっとテレビを見つめていたが、コーヒーの香りに気付いて顔を上げる。
「どうぞ。熱いので気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
改めて席について、コーヒーを一口啜った。ふうふうと息を吹きかける弓弦を見て、その手元のプリンが少しも減っていないことに気が付いた。つい開きそうになった口を閉じて頬を噛む。
弓弦はコーヒーをほんの少しだけ飲んで、すぐに口を離した。
「やっぱり治ってないんですね、猫舌」
「……舌先は、出していないつもりなのですが」
「鏡とか見ました?」
「ええ、まあ……」
適当に濁しながら、はあ、と吐いた彼の息は、一瞬だけ白かった。
そうこうしているうちに、かつんとスプーンが音を鳴らした。遂に底が見えてしまった。先に食べ終えて、未だ息を吹きかけて飲み続けている姿を一瞥し、茨もスプーンを持ち上げた。
「……ご馳走さまでした」
律儀に手を合わせて言うと、口元を押さえたままで弓弦が頷いた。茨もコーヒーを啜って、空になったコップを置いた。
しばらく無くなったプリンの残骸を見つめて、それからやっと席を立つ。皿を持ち上げたところで、弓弦の手が伸ばされた。
「え」
「……あ」
その指先が、茨の袖を摘まんだ。驚いて固まると、弓弦はしまったと言いたげに目を泳がせて、手を離す。
弓弦はそのまま黙ってコーヒーを飲み始めた。なかったことにしようとしているのだろうと思ったが、茨は皿を机に戻して、元の場所に腰を下ろした。弓弦の指がぴくりと動く。
じいっと対抗するように黙って見つめていると、弓弦は気まずげに首をすくめて座り直した。それから、はあ、とまた息を吐く。今度は白くならなかった。
「……食べ終えるのが、惜しいと言いますか」
「は……?」
火傷したときのように唇を丸めて、もごもごと彼はそう言った。言いながら、冷め始めたコーヒーの水面を見つめている。
「わたくしには、あなたと話したいこともありませんし」
「俺もですけど……」
「……あの」
こつん、とマグカップの角が机に触れる。丁寧に置かれたコーヒーはゆるやかに揺れて、水面に映る弓弦の表情が見えなくなった。
「もう一杯だけ、いただけますか」
あ、と無意識に声が零れた。それから思い切り頬の裏側を噛んだ。歯形が残ってしまいそうなくらいに噛んでもどうにもならずに俯いた。
動きがない茨の様子を伺って少しだけ顎を上げた弓弦に、衝動的に手が伸びていた。
「え、」
両手で挟んだ頬はコーヒーのせいか、随分と熱かった。瞠った目は、距離を詰める途中で固く閉じた。だから遠慮なく、噛み付いた。
唇からは甘いシロップとコーヒーの香りがする。咄嗟に瞑った弓弦のまぶたの先で睫毛が揺れている。一度離れて、は、と短い呼吸を交わして、また濡れた唇を食む。薄く開いた弓弦の目は、変わらず鮮やかな色彩で、茨を見つめる。
腰を引き寄せて、後頭部に手を添える。くしゃりと握った藍の髪は柔らかい。弓弦の目が僅かに泳いだ。
「……っ待ち、なさい!」
「ぐっ」
舌先を差し出したところで、がっと太腿に痛みが走る。容赦なく膝の骨で蹴られたらしい。よろけた拍子に机にぶつかって、空のコップが倒れる。氷がひとつだけ机に上に転がった。
「どうして、こんなことをするのか、言いなさい」
「どうしてって、そんなの……」
「ちゃんと、言って下さい」
痛む脚を摩りながらも目を遣れば、弓弦は潤んだ瞳で茨を睨んでいた。もう頬を噛む間もなく、細い呼吸が喉から漏れる。
「茨」
すっかり冷めたコーヒーの水面はぶつけた衝撃でいまだ波打っている。今度は先に牛乳を入れてやろうか、なんてことが頭に浮かんだ。
――楽しそうにしてるもんだから。そんなのは当たり前だ。むかつくことに、その言葉は茨の自己認識よりも正しく、この心を理解していた。
「……自分も、惜しかったんですよ。この時間が」
弓弦の紫色の瞳が大きくなって、揺れる。押し黙って、視線をずらす彼に触れたくて伸ばした手は、容易くその頬に触れ得た。
呼吸が交わる。小さく名前を呼ぶと、恥じらうように伏せていた眼が茨を見る。交わした視線は、もう逸らされなかった。
「明日も一緒に食べませんか。昼とか」
「……朝は」
「じゃあ、夜も」
テレビはいつの間にか切れていて、机の上で溶けた氷が傾いた。かつん、と鳴ったその音だけが、部屋の中で小さく響いていた。
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