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木枯らしが吹いている。薄い訓練着一枚ではとても足りなくて、ぶるりと体を震わせる。使い古した毛布を肩から被って、もぞりと身を起こした。隣には綺麗に畳まれた毛布だけが落ちていて、あったはずの体温はこの気温でとうに冷えていた。
さむ、と呟きながら、汚れた軍用テントの入り口を押し開ける。外に出した顔は、ちょうど吹いた風に晒されて体を強張らせた。
「おはようございます、寝坊助さん」
テントの前には、弓弦が涼しい顔で椅子に座っていた。茨に笑いかけてから、手元に視線を戻した。彼は手に持った箸をくるりと回して、小さな鍋をかき混ぜている。
「……おはようございます。それ、なに?」
「先に顔を洗ってきなさい。もうすぐできますからね」
「んー……アイアイ」
眠たい目を擦って、近場の川まで歩いていく。両手で掬って、ばしゃりと顔にぶつける。あまりの冷たさに悲鳴を上げつつ、寝ぼけていた目がさえてくるのを感じる。また風が吹いて、肩からは毛布が滑り落ちた。急いでテントのほうへ戻ると、ふわりと美味しそうな香りの湯気が漂っていた。
毛布をテントの中に戻し、怒られない程度に服装を正してから、また弓弦の近くに寄っていく。弓弦は和食用のお椀を持っていた。茨に気付くと、にこりと笑う。
「はい、どうぞ。今日の朝食ですよ」
「あ、ありがと……うわ、あったかい!」
手渡されたお椀は暖房器具よりも温かい。じんわりと伝わってくる熱に思わず声を上げると、弓弦も笑って頷いてくれた。
用意されていた椅子に座って、さっそくお椀に口を付ける。湯気が眼鏡にかかって、視界が真っ白になった。「うわ」と声に出して、それでも一口啜ったら、食べたことのない味が広がった。
「え、なにこれ。美味しい」
「それは良かった……茨、それ前、見えてます?」
「え? あ。全然見えない」
「そうでしょうね」
脳裏に浮かぶあきれ顔にせかされる形で眼鏡を服の裾で拭った。それを掛け直して、弓弦の様子をうかがう。弓弦は想像の中とは違って、楽しそうに笑っていた。
「……弓弦も食べたら? 冷めたらもったいないじゃん」
なんだか気恥ずかしくなって、誤魔化すつもりで言う。弓弦は少しだけ黙って、「そうですね」と言うと、そうっと、慎重に一口だけ飲む。その様子を見て、そういえばと思い出した。
「あつっ」
「へたくそ」
「……腕立て百回」
「はあ!?」
まあ冗談ですけど、と本気ともつかない言い方で呟いて、弓弦はふうふうと息を吹きかけ始める。熱い方が絶対に美味しいのにと思いながら、茨はその美味しい朝食を飲んだ。
お椀の底が見えてきたころ、やっと弓弦がもうひとくち啜った。びくっと肩が揺れるのを見て、思わず笑う。
「茨」
「笑ってないよ」
「俺はそんなこと言ってませんよ」
「しょうがないなあ」
もう慣れた鋭い視線から逃げて、お椀の底で泳ぐ人参を捕まえる。箸で摘まみ上げたそれに、ふうふう息を吹きかけた。怪訝そうに見ている弓弦へ、それを差し出す。
「はい、あーん」
「いりません。自分で食べなさい」
「だって教官殿、このままじゃ日が暮れるよー」
「暮れません」
「あーん」
「…………もう」
眉を吊り上げたままの、不機嫌そうな顔で、弓弦が小さく口を開けた。木枯らしで冷えたであろう人参を放り込むと、むくれ顔で咀嚼していた。
「ね、美味しいでしょ。また作ってよ、このスープ」
「豚汁、です」
「豚……ふーん、まあなんでもいいけど」
残った豚肉を口に放り込んで、味わってから飲み込んだ。
「明日の朝もこれがいい」
◇
ふと感じた肌寒さに、ゆっくりと目を覚ます。なんだか懐かしい夢を見たような気がする。のんびり体を起こす。隣にあったはずの体温は、ぽっかりとできた一人分の隙間のせいで、すっかりなくなっていた。
ひとつあくびをして、寝室を出る前に立ち止まる。ぼさぼさの髪をさっと直して、面倒だが部屋着に着替える。脱ぎ散らかしてあった二人分の服は、まあいいかとベッドに放ったままにして、それからリビングに顔を出した。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「ふふ。顔を洗ってきたらどうですか。寝坊助さん」
意地悪っぽく笑ったその顔が、今朝がたに見た夢のせいで懐かしさに上書きされる。勝手に動きそうな口角を抑えてしかめっ面を作っていたら、「ほら」と急かされる。
「もうすぐ朝食もできますからね」
そう言いながら弓弦が鍋を掻き回している。漂ってくる香りは、数日前にも、夢の中でも出会ったものと似ていた。
「それ、なんですか」
眼鏡を掛け直しながら近寄ろうとして、眼鏡が曇りそうだと気付いて途中で止まった。弓弦はきっとそれに気づいて、夢の中と同じように少し笑った。それは寂しさもなにもない、変わってしまった関係性も立場も取り去ったように、ひどく見慣れた憎たらしい笑顔だった。
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