紙面と睨めっこして早一時間。一向に進まない作業に苛立ちを感じ始めた時分、三度の軽いノックが為された。間髪入れずに「どうぞ」と答えたのは、それが誰で何用か分かっていて、その上で今すぐにでも欲しかったからだ。
丁寧に開けられた扉の向こうで慇懃に礼をする副寮長の姿が見えた。目線を其方へ合わせると、普段通りに隙のない笑みを浮かべて見返される。
「お疲れ様です、アズール。学園長より書類を預かっております」
「ああ、はい。受け取ります」
ペンをおざなりに置いて、掌を差し向ける。アズールの方を向いて手渡された文字に目を通して、やっと遅延に遅延を重ねた作業を終わらせる目処が立った。机上に投げ置かれていた紙面と並べて配置し、見比べながら必要箇所を埋めた。それが終わったら、ひらりと処理済みの書類に重ね、広くなった机に肘を付いた。
「はぁ、終わった。良いタイミングでしたよ」
「ありがとうございます。では、紅茶を淹れてきましょうか」
「そうですね、頼みます――ちょっと待て」
胸に手を当てる仕草を目で追っていて気付く。ジェイドは小首を傾げて「何でしょう?」と微笑んでいる。その人差し指に、浅い裂傷が在る。じとりとそちらを見て、アズールは再び手を差し出した。
「ジェイド。手を」
「……ふふ、アズール? 僕は犬ではなくてウツボです」
「下らない事を言ってないで、さっさと見せなさい」
催促する様に手を揺らすと、頷いて、目標と逆の手が乗せられた。黙って睨み付けたら、楽しげに笑われる。
「ジェイド」
「はい。すみません、こちらでしたか」
白々しく謝罪を述べながら、ようやく件の手を乗せた。逃げる可能性を考え、怪我を避けて少し強めに握る。ぱっくり割れた浅い傷口は、乾いた血の痕だけがこびり付いている。大方、気が付かないまま放置されていたのだろう。掴むのとは逆の手で傷口をなぞると、一瞬、僅かに手が逃げる方向に引いた。
「痛いんですね?」
「いえ、擦り傷でしょう? 気になるのでしたら、後程自分で治療しておきますよ」
「どうせしないんでしょう」
机に置いていたマジカルペンを手に取り、適当に振る。光が傷口に入り込んだかと思ったら、すぐに赤色の亀裂は滑らかな肌に溶けていた。目線を上に向けると、眉を下げて困った顔を作るジェイドが見える。
「ありがとうございます。貴方は本当に慈悲深い」
「言ってなさい。これはお前の不注意ですから」
傷を閉じた指を握ってやると笑顔が固くなる。嫌そうな顔、と理解して愉快な心持ちになった。そのまま揶揄う様に指を握ったり触っていると、ふと思う。
「お前の指、綺麗ですね」
「…………はあ。そうでしょうか」
大きく間を取って、気のない言葉が返ってくる。興味がないと全身で伝えてくるが、見ない振りをして指を触る。細く長い指は、繊細な作業に向いていそうだ。怪我の痕跡も、先程の箇所を除けば一つもない。手はその人を表す、と誰かが言っていたが、本当なのかもしれないと思う。
この指が、アズールの為に紅茶を淹れる光景を想う。本当に最初の頃は火傷をした痕が出来ていた事もあったが、いつからか完璧に綺麗な状態を保たれるようになっていた。努力を知らない顔をするこの手が、何だか妙に美しく思えた。
それと比べて、自分の手はどうだ。ペンだこだらけで爪先には墨が詰まって、美しさの欠片も無い。別に仕事中なのだし、正直気にした事など無かった。それでも、この手を収め続けるのはなんとなく気後れしてしまって、手を離した。
「……僕は、貴方の手の方が綺麗だと思いますよ」
「はあ?」
自らの凸凹の指を見下ろす。その手が傷一つない完璧そうな手に包まれる。細長く柔い指が、アズールのたこを優しく撫でる。何とも嫌味な事だ。文句の一つでも言ってやろうと顔を上げたら、言葉が喉に痞えた。
「とても、素敵ですよ」
穏やかに細められた目が、心底羨ましそうに汚れた指先を見つめている物だから、何も言えずにただ見惚れるしか無かった。
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