昔からそうだった、なんて

 

 太陽がすっかり沈み切って、月明かりが足元を暗く照らしている。一分一秒も管理しつつ日々を送る弓弦には珍しく、仕事に熱中して、帰寮が日を跨いでしまった。これでは坊ちゃまに示しがつかない。そう考えていたせいか、星奏館に近づいてから、自然と足音を忍ばせる。
 玄関口に立って、音を殺して扉を押し開ける。灯りは消え、すっかり静まり返っている。閉める時も同じく慎重にし、鍵をかけてから息をついた。あの桃李のことだから、余程の物音を立てない限りは起きないだろうけれど、他の者達には注意を払わなければならない。
 何だか悪いことをしている気分になりながら、閑静な廊下を忍んで歩く。途中で唾液を飲み込んで、喉の渇きを思い出す。鞄に詰めた水筒も空っぽだ。洗うついでに水でも飲もうと、行き先をくるりと変える。

 キッチンを備えているのは共有ルームだ。微かに扉越しから灯りが漏れている。誰かが夜更かしをしているようだ。自分のことはいったん棚に上げて、内心ため息をついた。
 玄関同様にゆっくりと押し開けて、中を覗く。すると、途端に誰かと目が合った。
 入口からまっすぐ正面のソファに、偉そうに足を組んで座っている。見慣れたような鋭い青が、じっと弓弦を見ていた。
「……やあやあ、これは奇遇ですね。ずいぶんと遅い帰宅で」
「茨……あなたこそ、まだ起きていたのですか。早く休まないと、明日に響きますよ」
「今のあんたには言われたくないですよ」
 眉を寄せつつも何となく気が抜けて、ぱたりと扉を閉めた。適当に鞄を置き、水筒を取り出す。それを見ながら、茨は手持無沙汰に足を組みなおしている。
「……暇なら部屋に戻ったらどうですか?」
「用が済んだら帰りますよ。言われなくても」
 蓋を外し、細く絞って水道を流す。冷水で重くなり始めた頭が覚めていく。スポンジを手に取ったら、泡が残っていた。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたんですか?」
「はい? あなたには関係ないでしょう。いいから早く……おっと?」
 泡まみれの水筒から顔を上げると、いつの間にか茨は目の前に立っていた。油断していた自らに動揺し、茨の手がカウンター越しに伸びてくるのを見過ごした。
「いっ……」
「言えないような事をしていたんですか? 弓弦ともあろう者が?」
「はあ?」
「姫宮氏も心配していましたよ、弓弦が帰ってこないって。彼にはどう説明するつもりなんです?」
「だから……あなたには、関係、ないでしょう?」
 坊ちゃまの名前を出されて、少々頭に血が上る。別に何があったわけでもなく、弁明するような事情もないのに、むきになった。掴まれた手首に力が入るのを、軽く振り払う。
「坊ちゃまは分かって下さいますので、お気になさらず」
「……へえ、そうですか」
「ええ。では、おやすみなさい」
 ぱっと水気を払って、乾燥機の中に水筒を入れる。シンクに置いてあったほかの食器も一緒に入れて蓋を閉じた。ボタンを押そうとした手を、また茨につかまれる。大きく溜息をついて、茨を睨みつける。
「何が、そんなに気に入らないのですか?」
「あいにく自分は、物分かりが良いお坊ちゃまじゃないんですよね」
「……いい加減にしてくださいまし。このまま朝を迎えたいのですか?」
「いいですよ、自分は」
 また幼稚な事を、と悪態をついて、どうにか手を払い乾燥機を起動する。少しばかり音を立て始めたそれに、明日にすればよかったかとやや後悔をする。それから茨に向き直ると、拗ねたような顔で弓弦を見ていた。
「……何なのですか? 今日は一段と面倒でございますが」
「面倒が嫌なら、さっさと答えて下さいね」
「はあ……」
 隙をついて躱そうにも面倒な位置に立たれている。退路を探している内に、わざとらしく手を繋がれる。というよりも、手を掴まれた。こうなったらしつこい男だと重々承知している。弓弦は諦めて、引っ張られるままソファに座った。
「……何を答えたら?」
「今日の予定は午前がドラマの撮影、ユニット練習、午後は空いていましたよね? 急な予定でも入ったんですか?」
「…………いえ」
「じゃあ、どこで、誰と? ああ、何を、は言わなくてもいいですよ」
「…………はあ」
 胡散臭さを装いながら語気を強めていく姿に、何となく、思い当たるところがあった。隠すつもりも無さそうな感情の発露だった。物理的に押されながら、ソファのひじ掛けに背中を完全に預けた。
「そんなにわたくしの事が好きなのですか?」
 茨は一瞬、面食らって言葉を失した。しかし、すぐに鼻で笑って、ずれた眼鏡を押し上げた。
「そうですよ。まさか知らなかったんですか?」

 

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