思考が覚束ない。記憶が靄掛かって、理性がうまく働かない。
「っ、弓弦」
「……ん、」
脳を溶かすような声が流し込まれる。もう何も考えたくない。明日の予定や、寝る前にやらなければならなかった筈の事も、思考の外にはじき出されていく。
何もかもどうでもいい、そう投げ出してしまいたくなるくらい、眠たくて仕方がなかった。
そもそもの発端は、実に数か月の多忙だった。ようやく予定を合わせ、休日を茨の取ったホテルの一室で過ごしていたところで、肩が凝ってしまったのだと零した。
「普段からケアはしていたのですが、流石に固まっているようで」
「あー、分かります。キリがないんですよね」
対面で軽食をとりながら、同じく疲れた顔の茨も同意を示した。それから一瞬沈黙して、思いついたように目を開く。
「自分がマッサージしましょうか?」
「……あなたが? わたくしに?」
「そんなに疑わなくても。最近、自分同様に多忙な閣下の為に覚えたんですよ。実際に効くのかどうか、実験体になってくれません?」
「なるほど……」
返事を待たずして、茨は布巾で手を拭うと席を立った。迷いなく弓弦の背後に回っていくのを、とりあえず泳がせてみる。茨の手が肩に乗ってくる。そのまま頸部に移動しようものなら肘鉄を食らわさんと身構えていたが、茨の掌は順当に弓弦の筋肉を解し始めた。
「うわ。本当に凝ってますね、硬っ」
「あなた、資格は?」
「もちろん取得しましたよ。適当な事をして、完璧な閣下の身体を傷付けるわけにはいきませんからな」
親指が首と肩の間を流れていく。するりと背中の方に動いて、ツボを探して肩甲骨の辺りを彷徨っている。そっと様子を窺えば、真剣そうな目をしていた。まあ、それならいいか、とその手を引き剥がす事を止めたのだった。
暫し背中や肩を指圧されながら他愛もない会話をしていれば、段々と眠気が差してきた。心地よいホテルの出来すぎた空調も相まって、どこまでもリラックスしてしまっている。
「……茨、もう大丈夫なので」
「おや、なんか眠そうですね? 続きはベッドでします?」
「いえ、もういいので……」
「でも自分、もう少し試したいのがあるんですよね。自分達アイドルには、腰や足なんかの方がどちらかと言えばメインですし」
「……そうですね……じゃあ、もう少しだけですよ」
備え付けの時計を確認すると、また二十時を回ったばかりであった。珍しく完全に純粋に、他人の為を掲げた愛弟子の行動へ、あまり水を差したくもなかった。椅子から立って、ふらりとベッドの方へ歩を進めると、これまた珍しく茨が手を差し出してきた。
「やけに、親切でございますね」
「まあ、今日は健康になってもらわないといけないので」
「そうですね……ふぁ、ふ」
やわらかいクッション材に体を預けて、ふわりと欠伸が零れた。当たり前だが、横になったら余計に心地良くて眠気が強くなる。流石に早すぎると思い起き上がろうかと逡巡しているところを、茨が弓弦を転がしてうつぶせにした。
「じゃ、続けますね」
「……あの」
「眠たければ寝てしまっていいですよー、ちゃんと起こしてあげますから」
「ん……」
茨の筋張った指が背を押す。ぐいぐいと圧迫される感覚が、苦しくも気持ち良い。押されるたびに浅い呼吸が漏れる。痛んでいた肩はすっかり軽くなっていて、茨の実力の確かさをすでに証明していた。
しかしながら、とにかく眠たかった。副交感神経が強く刺激されている。目を閉じていると、がくんと全身が落ちる感覚がして、瞼を上げた。ぐらぐら、夢と現実の境目で揺れている。これはまずい。まだ明日の準備も終わっていない。重たい瞼をどうにかこうにか上げて、体を捩る。
「茨、もういいです」
「まだ途中なので、もう少し。あ、喉が渇いたら言って下さいね」
「そうじゃなくて……」
「この辺りのツボ、脚の疲労に効くらしいですよ。どうですか?」
「いい、気持ちいいです、から……」
「なるほどなるほど」
ぐっぐっと足の裏を指圧されている。痛みはもうほぼ無くて、もうこのまま全部放って寝てしまいたい。起こしてくれると言っていたし。しかし、寸でのところで理性が目を覚ます。
「もう、やめなさい……わたくし、やること、が」
「ふうん。まだ理性は残ってるんですね。これは手強い」
「……ん、ん?」
するすると足を両手が丁度いい圧力で流れてくる。セルフマッサージで同じことをするよりも、何故だか随分気持ち良い。茨にこんな才能があったなんて意外ですね、などと逃避的な思考が混じり始める。
一瞬ブラックアウトした隙に、背中に重みが乗っていた。ぼんやりしながらも振り向くと、真面目に両手を使って背中から腰にかけてを解している最中だった。別にふざけているわけでも悪意があるわけでもないから、咎める言葉が思いつかない。
そんな風に見ていると、不意に視線がかち合った。それから茨が薄く笑って、片手を顔の方に伸ばしてくる。掌が視界を覆って、暗闇を作る。
「大丈夫ですよ。おやすみ、弓弦」
どろりと脳が溶け落ちていく。抵抗する理由が余りにも瑣末で、ああもういいか、と最後の力を手放した。
◇
ふわり、ふわりと漂っている。温かい体温に包まれながら、真っ白な羽に埋もれている。
「弓弦、こっち向いて」
頬が手のひらに包まれる。その先にいるのは茨だった。嬉しそうに、満たされたような笑みを浮かべて、弓弦を見下ろしている。瞬間、これが夢だと確信した。
迫ってくる彼に、避ける理由もなく目を閉じる。柔らかな感触が額、頬、瞼へと落とされていく。それから首筋に同じように口づけ、ぴりっと小さな痛みを寄越した。跡が付いたのかとぼんやり思ったが、所詮は夢だ。
弓弦も茨の背中に腕を回して、首筋に口付ける。ぴくりと震えた背中を撫でて、同じ場所に跡を残す。離れて見えた茨の顔は赤くなっていて、胸がすく思いだった。
「そんなことするなら、手出しますよ」
「ん……いいですよ」
「……俺の事、好きなんですか?」
「うん」
温かな春の陽気が漂っているような気持ち良さ。お風呂の中にいるみたいな浮遊感。ふわふわとした判断力で、弓弦は精査しないままに言葉を紡ぐ。
茨の瞳以外、何も見えないくらいに近付いてくる。弓弦の手は茨の髪を撫でる。苦々しげに歪んだ目が、じっと弓弦を睨んだ。
「意味、分かってないでしょう」
「そうかも、しれません」
「まあでも、良いって言ったのはあんたですから」
「ん」
鼻にひやりと冷たい金属の温度がぶつかった。穏やかな温度が唇を覆っている。その事について考察する前に、茨の顔が離れた。それから、ずる、と真上から隣へと転がった。頬を枕に付けたまま、茨がもたつきながら、そうっと口を開けるのが見える。
「…………抱いてもいいんですか?」
ふわふわと雲に乗ったような感覚の最中、茨の言葉を理解して、思考がゆっくり働いて、弓弦は黙って首を振った。ような気がした。
◇
とんとん、と軽く肩を叩かれて、弓弦は深く落ちていた眠りから目を覚ました。
「……うわ」
「何ですか、その反応」
真っ先に視界に飛び込んできたのは、隣で寝転がっている茨の顔面だった。余りに近くにあったから、寝ぼけ眼でも一拍遅れて驚いた。それから「近い」と文句を言い肩を押したところで、全身に電撃が走った。びくりと手を跳ねさせて動きを止めた弓弦に、茨は少しだけ静止して、すぐににっこりと笑顔を作った。それだけで弓弦は理解した。
「……夢では?」
「残念、現実です!」
ざあっと血の気が引いた。夢見心地に漂って、とんでもないことを仕出かした気がする。慌てて起き上がる弓弦に、茨は楽しげな笑い声を立てていた。
「いいじゃないですか、好きなんでしょ」
「うるさい」
「体も軽くなったんじゃないですか?」
「うるさい!」
ご丁寧に掛けられていた布団を跳ね上げて確認する。服はそのまま。ぱっと見える範囲には特に何もない。もしやと思いながらズボンの裾をたくし上げて腿付近を確認するが問題ない。別に、痛みもない。
「……なんか勘違いしているようなので、自分の名誉の為にも言っておきたいんですが。キスだけですよ」
「え?」
「あんたが嫌って言ったから、それ以外は何もしてません。自分は理性的な人間なので」
気まずそうに、しかし真っ直ぐに目を見てくる。そんな茨に、今しがたの言葉が事実だと知って、安堵の溜息をついた。ほっとしながら服を正し、時計を確認する。ちょうど二十二時を回ったところだった。
明日の準備には十分間に合う。寝転がったままの茨を跨いで、机に伏せたままのスマートフォンを手に取った。
「……ところで」
「はい?」
「今の反応を見るに、もしかして満更でもなかったんですかね? だとしたら非常に惜しいんですが」
「…………」
予定表に目を通す。明日は坊ちゃまの習い事とCM撮影の日だ。事前にピックアップしていた必要なものを確認し、スーツケースを手に取った。
「起きている時に訊いてくださいまし?」
ロックを外して開け、目視でチェックする。欠落は無かった。
ぎしりと軋む音がして、茨が隣に座り込む。横目で見れば、”夢”で見たのと同じように苦々しい顔をしていた。
「…………抱いていい?」
「丁重にお断りいたします」
ぷちんと堪え性のない堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。ベッドに投げ飛ばされてやりつつ、さてどこまで手加減してやろうか、と割と本気で歯向かってくる恋人を見ながら考えた。
微睡みながら、好きなんですか?にたいしてうんという弓弦が可愛すぎました…っ、こんな始まりも可愛らしくてすきてした!
しっかり者がふにゃっとしてる様が好きで……可愛いと言って頂けて嬉しいです、ありがとうございます!
すごく好きな作品でした…茨はどんな気持ちで弓弦を見ていたんだろうと妄想が止まりません、素敵な作品をありがとうございました…!!
構想は違う展開だったんですが、書いていて嫌がられたら茨はめちゃくちゃ我慢するのでは?と思い直したため、彼は頑張っていたと思います……こちらこそ感想を下さりありがとうございました!