あなたのための幽霊

 

「…………」
 ピピピ、ピピピ、と規則的なアラーム音が鳴っている。半端に投げ出した手の横に、昨晩放った位置に転がったままのスマホが、一人分のベットをわずかに震わせている。久方ぶりに使った星奏館のシーツには皺が寄って、なかなか眠れずに使ったアイマスクがなぜか足元まで飛んでいる。窓の外では、名前も知らないが毎朝聞く鳥の声がする。
 そのまんなかにいる茨は、いまだに寝惚けたまま、天井を見上げていた。
「おはようございます、茨」
 ピピピ、ピピピ。鳴りやまないアラームの音に、もぞりと隣のベッドで寝がえりを打つのが聴こえた。それでも、茨は天井のほうを見つめて、いつも通りの朝の中、自らを覗き込んでいる異物から目を離せなかった。
 ふわりと揺れた藍色の猫毛がすこし近づいて、茨は茫然として手を伸ばす。指先が白い頬に触る、その寸前で、ぴたりと音が止まった。空を切った腕がぽてりとベッドに落ちる。スマホの画面には、未読の通知が十四件付いていた。

 ふわふわ立つ白い湯気に顔を撫でられながら、いまだぼうっとした頭で、エプロンを着けた後ろ姿を眺める。鼻歌を歌いながら振り向いた両手には、三角形のトーストとスクランブルエッグを乗せた小さめの皿が掲げられていた。
「お待たせしました。どうぞ」
 それを茨の前へサーブすると、すとん、と正面の椅子に座った。お行儀よく両手を膝に置いて、目が合うと、にこりと笑った。机に置いたスマホがひっきりなしに通知を鳴らす。茨はそれを一度切って、それから、再度「どうぞ」と言った男を見た。
「……あの」
「はい?」
「…………いただきます」
 喉がからからになって、張り付いたようでうまく喋れなかった。差し出されたコーヒーを一口飲んで、綺麗に切られたトーストを持ち上げた。噛み付くと、さくりといい音を鳴らした。目の前にいるそいつは、弓弦は、穏やかそうに笑っていた。

 食べ終えた皿を引っ込めて、楽しげに片づけをする背中を見ながら、茨は切っていたスマホを確認する。昨日終えた案件の確認、新しい仕事の話、進捗の確認、それから、弓弦の話。
「~……♪」
 fineの新曲を口ずさんでいる。それを聞きながら、かれこれ一週間くらい届き続けている情報に目を通した。どこのニュースを開いたって取り上げられていないが、信用できる提供元からの情報。小難しげに書かれた文章は、変わりない。何も解決しているとも、悪化しているとも書かれていない。それでも、と顔を上げた先に、弓弦がいた。
「うわっ!? いつの間に……」
「ふふ。何を読んでいたのですか? 眉間にしわが寄っていましたよ」
「……あんたには関係のない話ですよ」
 ぱちんと電源を切って、ポケットに突っ込む。弓弦は特に興味もなかったのか、「そうですか」とだけ言って、台ふきでテーブルを掃除し始めた。目の前でぴかぴかになっていく机を眺めながら、ぐちゃぐちゃになる思考回路に、小さくため息をついた。
「弓弦」
「はい?」
 振り向いた弓弦は血色もよくて、疲れた様子もなくて、なんなら調子がいいくらいに見えた。
「……あんた、事故とやらはどうなったんですか?」
 伏せられがちな弓弦の目が見開かれる。それと同時に、がちゃりと扉が開く音がした。二人だけだった共有ルームは、一気に喧噪を増していく。弓弦は一瞬だけ止まった動きを、にこりと笑ってごまかして、汚れた布巾を畳んで背を向けた。

 星奏館を出た瞬間に、日の光に目がやられる。秋らしからぬ暖かな陽気が全身を包む。今日はいい天気だ、と普通のやつなら言うであろう晴天は、寝不足の頭には少々刺激的だった。そうやって目を細める茨に、くすりと小さい声が後ろで笑う。振り向いて睨みつけた弓弦は、入り口にかかる陰の中に立っていた。そのさまが何となく非現実的に思えて、言おうとした文句が喉に絡まる。
 白い指先が、あまり見慣れない弓弦の私服の裾を伸ばして、荷物ひとつ持たない手が茨を手招きする。ふらりと揺れた足が弓弦の方へと向かっていく。陰に踏み入れた足がひどく冷たい気がした。
 弓弦の顔が、すこしだけ近づいた。耳元にちいさく、茨を呼ぶ彼の声が聴こえる。「先程の話ですが」と、そう始めた淡い声に心臓が速く鼓動し始める気がした。答えが聞きたくて、でも聞きたくなくて、強く目を閉じる。
 そのとき、星奏館の正面扉が開いた。咄嗟に仰け反った姿勢のままでそちらを見ると、そこに居たのはつむぎだった。
「あ、七種くん。おはようございます」
 普通に会釈する彼に、とんとん、と陰から数歩下がって、姿勢を正す。
「……おはようございます、つむぎ陛下!」
「今日はお休みなんですよね? 英智くんから聞きましたよ〜。たまにはゆっくりしてきてくださいね」
「ええ、……え?」
 じゃあ、と勝手に話を切り上げて、微妙によれたシャツを揺らして去っていく。その背中を引き留めようにも、朝っぱらから混乱しきりの脳味噌ではうまい言葉が出てこない。
「茨」
 微風に乗って、声がする。流れて行った紅葉を追いかけて視線を遣ったら、弓弦が茨を見ている。茨は改めて、去って行ったつむぎの事を考える。真横にいた弓弦には、見向きもせずに、穏やかに会釈した顔。陰に佇む弓弦は、茨にはそれ以外が霞むくらいに強く見えているのに。
 ぱた、と汗が伝い落ちる。弓弦はどこからかハンカチを取り出して、陰の中から出てくる。どこか楽しそうに、まるで母親かなにかのように汗を拭くそいつの足元を、どうしても見れなかった。

 ◇

 がたん、と小さく揺れた。二人だけを乗せた朝一番の路線バスは、いつも見るのとは違う道を走っている。窓際に座る弓弦は、窓の外を眺めていた。時折揺れる振動でぶつかる肩は温かく、すこし冷えていて、なんとなく投げ出されている左手をつっついた。
「ふふ、何ですか?」
「……なんでも」
 温厚を乗せた柔らかげな頬がゆるんでいる。懐かしい笑い声が耳の奥に鳴り響いている感覚があった。舗装された山道を走るバスは、またがたがたと揺れた。
 目的地までの時間を調べていると、ぷしゅー、と音を立ててバスが止まった。表示を見れば、まだ降りるバス停からは遠い。開いたドアからは、二人組の少女が乗り込んできた。珍しいなと思いながら隣に目線を投げると、なぜか一瞬、弓弦が顔を強張らせたのが見えた。
「……ゆづ」
「しっ」
 呼びかける口に弓弦の長い指が当てられた。一つ咳ばらいをして膝の上に戻っていく手を見て、そして背後から少し感じる視線から得心する。
 混乱しきりだった茨は帽子を被るだけでたいして変装もしていないし、弓弦に至ってはそのままだ。アイドルが街を歩いていても、日常風景に近いような地域からはちょっとだけ遠い。彼女らが知っているかどうかはともかく、真面目なこの男は気を遣えと言いたいのだろう。それ以外の可能性には、考え付いていても蓋をして、そう思い込む。
 茨も黙って、背もたれに体を預けた。ちくちく感じていた視線は、気づけば窓の外へと消えていた。

 窓に映る風景が緑一色からひらけて、高い群青が一面に広がった。秋と冬の境界線に立っている空は、どちらでもない夏に似た様相をして、消え入りそうな入道雲を背負っている。それは間違いなく綺麗で稀有な光景で、後ろからもパシャリとシャッターを切る音が聞こえていた。
 弓弦の色素の薄い手のひらが、その青色に添えられる。太陽に透かされて、とけてしまいそうだ。
「……なんですか?」
「いや……」
 怪訝そうに振り向かれて初めて、窓に置いていた彼の手を掴んでしまったことに気付いた。うまく誤魔化そうにも無意識すぎて言葉が出ない。それ以上に、ああまだ触れるんだな、なんて思考が先んじている。何も言わずに手を握る茨に、弓弦も特に何も言わず、その手を茨の腿に預けた。
 再び窓の外へ目線を遣った弓弦を追って、茨も外を見る。きらきらと陽光を反射して、冷たい海面が輝いていた。目的地はもうすぐだ。

 ぷしゅー、と空気を抜く音を背後に聞きながら、適当に履いてきたシューズを地面につける。狭い道に置かれたバス停にも、きちんとベンチが付属していた。それを見ていると、いつの間にか弓弦は隣にいた。
「ちゃんと支払いました?」
「ええ、もちろん」
 思わず問いかけた変な疑問にも、弓弦はにこりと笑って答える。そうですかと言いながら、それ以上話を広げる気もなく、茨は狭い道の端っこを歩き始めた。
 錆びたガードレールの切れ目から、細長いコンクリート製の階段が伸びている。衛星映像のマップから調べた通りの地形に安堵しながら、後ろからついてくる弓弦を振り向く。すこし離れたところを歩いていた弓弦は、分かっていると言いたげに微笑んでいる。
「……、早くしてくれませんかね」
「そんなに焦らなくても、丸一日はあるでしょう?」
「帰りのバスが少ないんですよ」
 ゆったりと歩を進める彼が、ひどく穏やかに言葉を紡ぐ。それが妙に茨を焦らせている。急ぐ必要もない短い道を引き返して、のんびり歩く腕を掴んだ。真正面から見た弓弦の背後には、立ち上る薄い入道雲が広がっていて、まるでそれが翼みたいに見えた。ぐいと腕を引いて、雲から少しでも引き離そうとすると、呆れたような笑い声がした。

 歩き慣れない、がたつく階段を下りきって、さくりと砂を踏んだ。すこし湿った砂が白いシューズにくっつく。それを軽く蹴飛ばしながら、砂浜の中に立ち入った。
 ざあっと押し寄せる波は、ひどく冷たい風を運んでくる。入るのに適した時期ではない。その証拠に朝とはいえ、観光客も、地元民の一人もいない。
「……で、なんでこんなところに来たんですか?」
 ばきりと流木を踏んだ。粉々になった木の一部が砂に同化する。振り向いた先にいる弓弦は、階段のそばに立ったままでじっと砂を見ていた。
「弓弦」
「わたくし、実は幽霊なんです」
「……、はい?」
 せかすように呼んだ相手の返事に、また喉の奥がからからになる感覚があった。たたらを踏んで、ぐらついた体をどうにか持ち直す。ざくざく歩いて、陰の中に立っている弓弦の腕をもう一度掴んだ。
「触れるし、普通に見えますけど」
「それは茨だけですよ。わたくしにも、理由はよく分かりませんが」
「……料理も掃除もしてたじゃないですか」
「あれは所謂、ポルターガイスト、でございますね」
 体温のある手が、腕を掴む手に重なった。やんわり外された手がぶらりと宙を彷徨い落ちる。反論が続かない茨の頭の中によぎるのは、少女達の好奇の視線だとか、つむぎの後ろ姿だとか、ひっきりなしに届くメールだとか、そういった肯定の証左だった。
「……早く成仏してくれません?」
 やっと絞り出せた声は、自分でも笑ってしまいそうなほど掠れている。弓弦はそれに気づかないはずもないのに、単に「そうですね」と頷いた。
「どうもあなたのことが気がかりで、成仏できないようで」
「坊ちゃまのこと、の間違いでは?」
「ふふ。まあ、それは当然ですけれど」
 ざあ、と今度は、階段の上の木が揺れた。弓弦のいる陰も動いて、ちらちらと光が彼に差す。その小さな光の粒の中で、綺麗な紫色が茨の顔を映している。
「心配、されているようでしたから。少しでも気晴らしになればと思いまして」
 切ったはずのスマホから、まだ連絡が届いているような気がした。交通事故、出演予定だった番組のキャンセル、屋敷への帰省。繋ぎ合わせて、茨の中だけで形成された弓弦の状況が、今、目の前で答え合わせをされている。
 何日も眠れずに市販の睡眠薬を使っても、困難な案件へ没頭して疲れ果てても、目を閉じた脳内には、とっくに関係もないはずの顔ばかりが浮かんだ。心配。そう言われてはじめて、自分の不可解な情動に名前が付いた。茨は砂を蹴って、見慣れた微笑に背を向ける。海に還るなどという言葉が頭に浮かんで、でも弓弦が還るのはこんな冷たい場所じゃないだろうとも思った。それらの思考を蹴散らすように、ふんと鼻で笑う。
「嫌でも耳に入ってくるもんで、丁度そこに繁忙期が重なっていただけです。あんたを相手に心配なんかしたって、意味ないだろ」
「……そうですか。まあ、そうでしょうけれど、体調管理はしっかりしなさい」
「うるさい」
 足元の小石がつま先にぶつかって、砂を割りながら飛んでいく。水辺に着弾したそれは、波にさらわれていく。
 急に疲労感が全身を襲って、茨はそのまま座り込む。尾てい骨にざらりとした砂と小石が当たって、座り心地は最悪だ。それでも立ち上がる気力もなくて、そのまま膝に額を押し付ける。
 砂を踏む小さな足音すらもないままで、隣に座る気配がした。茨は顔を上げられないまま、手探りで腕を掴む。
「なんで死んだんですか」
「あなたも知っているのではありませんか?」
「知りませんよ。なにも」
 ぎゅう、と握った感触で、それが手首だと分かった。突き刺さる突起状の骨が痛い。それでも離す選択肢は選べなかった。
「……ふふ。茨は、わたくしの死を惜しんでくれるのですね?」
「違う」
 優しく手を叩かれて、握る感触が手首から手のひらに変わった。あたたかい、生きた人間の手だった。膝に額を押し付けて、ずれた眼鏡が砂の上へ落ちた。
「そんなんじゃない」
「それでも。こうして付き合ってくれて、嬉しかったですよ」
「うるさい、うるさい、黙れ」
 潮風が繋いだ手の甲を撫でる。べたつく髪も一緒に風になびいた。砂に塗れた眼鏡がにじんで見える。頭の中に渦巻くものを、うまく言葉に消化できない。熱い手のひらをつぶすくらい握りしめれば、同じくらい強く握り返されて、強く瞑った瞼に汗が伝った。

 ◇

 ずいぶんと深くなった木陰に包まれたベンチに座る。茨はうつむいたまま、冷えてきた手を膝の上で握りながら、熱くないアスファルトを見下ろす。
「今日はいい気候でしたね。よく晴れていましたし、風も気持ちがいいです」
「……そうですかね」
「もうすぐ、本格的に冬に入りますから。今年で言えば、海へ訪れる最後の日だったでしょうね」
「見に来ればいいじゃないですか。冬でも」
 車も何も通らない閑静な道には、たぶん二人分の声だけがある。中途半端に上げた顔が、消えかけのちぎれた雲を見る。ちらりと目を向けた隣では、首をかしげて茨を見つめる紫の目があった。
「なんですか」
「いえ、茨にしては殊勝な発言をするものだなぁと」
 ふふ、と続けて笑ったその目には、すねた子供みたいな茨の姿が映っていた。ぎりっと奥歯を噛んで、零れかけた何かを殺す。それでも、すり抜けてきた感情が、口を衝く。
「あんたのせいだ」
「え?」
 不思議そうに丸くなるその瞳が、透けそうな白い肌が、絡まり切った脳味噌を焼く。湧き上がるそれに任せて、清潔な白いシャツの襟首をひっつかんだ。弓弦はとっさに茨の腕をひねろうとして、しかし、途中で止まった。疑問を浮かべる前に、茨は自分の頬に伝った感触で納得してしまって、舌打ちをした。
「どうして、泣いて……」
「うるさい、うるさい! 全部あんたのせいだ!」
 突き放したくて、伸ばそうとしたはずの腕は折れ曲がって、その首元へ縋りつくように頭をぶつける。当惑した声が降ってくるのも、制御できない激情にも苛々する。周囲に誰もいないのをいいことに、思うままに声を荒げて、大きく呼吸する。
「……どうしたんです。わたくしのことなどさっさと忘れて、やりたい放題できてせいせいする、みたいな事を言うと思っていたのに」
「そんなの、あんたがいないなら、何の意味もない」
「え?」
 言葉がうまくまとまらない。何を言えばいいのかもわからない。確かなのは、頭上から柔らかく落ちてくる声が、もう自分にしか聞こえないのだという事だけだ。
 何も要らなかった俺の世界に、置き去りにされたその光は、今更手を伸ばしたって掴んだって届かない。優しく背中に触れる体温が、憎たらしくて、いとおしくて、泣きたくなって堪らないのに。
「い、茨……茨?」
 握り締めた襟首がへしゃげる。その手を弓弦の手がとんとん叩く。いまだに戸惑った様子でしか名前を呼ばないその声がむかついて仕方がなかったが、とりあえず体を少し離す。
「……なんですか」
 改めて見た弓弦は、困惑やらなんやら、そういった感情が隠れていない顔をしていた。ふらふら彷徨う視線が、茨に疑念を抱かせる。弓弦の眉が垂れ下がって、それこそ泣きそうな様子に見えた。
「弓弦……?」
「……いえ、あの。まさか、そこまで……」
「は?」
 離しかけていた手に力がこもる。首が締まりそうな勢いで掴んだが、弓弦は目線を迷わせるばかりで反撃がやってこない。腹の中に溜まった感情が、ぼんやりと、別のものに置き換わっていくのを感じた。
「弓弦、おい」
「……怒らないで聞いてくださいまし」
「内容によりますかね」
 遠慮がちに茨の手を外させた弓弦が、ちいさく、本当にちいさく、それを言った。バスが枯れた木々の向こうからやってくるのが見えていたが、構わずに茨はその背中に腕を回した。
「……痛っ!? ちょっと待っ、バスが……茨!」
 そのまま背中ごと折り曲げてやろうと力を込めた茨の視界は、見事なまでにひっくり返った。道路すれすれに背中を打ち付けた目に映る、ぼやけた世界の一面に広がる青空はあまりにも遠くて、死ぬほど綺麗だった。

 ◇

 コツコツと机をたたく指のそばに、そうっとカップが置かれた。視線がそちらへ動いて、絆創膏だらけになった手が見える。包帯だらけの自分の肩越しに、控えめに微笑む弓弦がいた。
「少々冷えてきましたので、ココアを淹れました。疲れているでしょうし、甘めにしてありますよ」
「…………」
「……茨」
「あんたは幽霊なので自分には見えませんね、ああ残念!」
「もう……」
 結論から言えば、弓弦は交通事故になど遭っていなかった。番組のキャンセルも別の予定に押されてのことで、屋敷への帰省も時期によるものらしい。掴まされた情報は天祥院財閥の力によって操作され、茨の元へやってくる噂だけが『そう』なるようになっていたのだという。流石は一大勢力と脱帽せざるを得ない一方で、今まで自分が散々やってきたものに踊らされた事実が堪らなく悔しい。連日の徹夜による疲労も原因だが、そんな言い訳が通用しないくらいには、茨の中では敗因が分かり切っている。
 目を合わせないようにしながら口を付けたココアは丁度いい温さで、美味しいと思える境界ちょうどの甘さだった。
「いい加減に機嫌を直してくださいまし」
「いやあすみませんね、昨日の今日で許せるほど大人じゃないもんで」
「それはそうでしょうけれど」
 スマホの小さな画面に並ぶ案件を取捨選択しながらも、まったく集中できずに諦める。ぱちんと電源を落として投げ出して、機械的な作業の方に移行する。かちかちとマウスのクリック音が人のいないオフィスに響いている。
「……何か、手伝いましょうか?」
「必要ありません、何なら英智猊下に突き返したいくらいであります!」
「そうですか」
 ふう、と息をついて、弓弦はそばから去っていく。その腕を咄嗟に掴んでしまったのは、完全に昨日バグった脳の名残だ。しかし、珍しくびっくりした顔を見れば、溜飲も下がる。ふらっと動いた弓弦の目が、部屋の端にあるロッカーを見た。
「掃除でもしようかと思っただけでございますよ」
「勝手にしてくださって結構ですよー、デスクの上を触らなければ」
「しませんよ、そんなこと」
 ぱっと腕を離す。昨日、久しぶりの取っ組み合いをしてから、弓弦はそれこそ殊勝にも反撃をほぼしてこない。それは別に嫌なことでもなく、むしろ良いことなのに、黙って腕をさすっている姿にむっとする。
 世間的に見れば休日の今日、見える空は曇っている。入道雲はどこにもない。弓弦は、さっさと掃除道具を手に床を掃き始めている。
「……なんであんた、普通に誘えないんですかね」
 楽しそうに鼻歌が交じり始めた遠い横顔にぼやく。すると鼻歌はぴたりと止んで、横目で茨を見た。
「英智猊下やつむぎ陛下まで巻き込んで、こんな大掛かりな嘘をつかきゃいけない事なんですかねー? ああ、めんどくさい!」
「巻き込まれたのはわたくしも一緒です。まあ、あの方に相談をすること自体が間違いなのですが」
「どうでもいいですけど、楽しそうにやってた時点で同罪ですよ」
 じろりと睨むと、罪悪感があるらしい弓弦はついと目を逸らして箒を動かした。
 取っ組み合いの最中、アスファルトを殴りながら弓弦が言ったのは、幼い頃から変わらない無意味な優しさと余計な気遣いだった。仕事を休まないのは自己判断で、別に崩れている気はなかったのに、弓弦にはそう見えなかったらしい。
 その結果がぼろぼろになった手足と、同じバスに乗っていた少女達に撮られていた写真によって軽く燃えたSNSである。早々に対処したお陰で大事にはならなかったが、水面下では非常に不本意な噂が囁かれるという最悪の後遺症が残されてしまった。
「ほんっとに、余計な事を……」
 それでも、普通に遠出に誘われたり普通に休めと言われたとして、休んだかと言われれば、まあ有効な方法だったと認めざるを得ない。それにしても設定が最悪すぎて、むしろあの天祥院英智はここまで想定していたのかもしれないが、一日だけ弓弦を借りて休日を有効活用しているというのが現状であった。
 その際に彼が言ったお祝いの句で、初めて今日という日が何であったのかを思い出したのだから、サプライズとしては大成功である。ずっと溜息と歯軋りが止まらないくらいだ。
 しかし巻き込まれたにしても何にしても、消え入りそうなあの姿が焼き付いて離れないのは、間違いなく弓弦の責任だ。そう思って、もう許した、などと思われないようにしている。
「~……♪」
 いつもより控えめな鼻歌が聴こえる。fineのヒットソングだ。それをBGMにして作業を進めながら、頭の中では昨日の回想が勝手に流れていた。
 ふと、思い出して、茨は弓弦の方を振り返った。弓弦はたまたま顔を上げていて、ばっちり目が合った。
「……なんなりとお申し付けくださいまし」
「気持ち悪いんで、それやめてくれませんか……じゃなくて」
 かたんと使い古したデスクチェアが音を立てる。弓弦は茨の言葉を待って立ち止まる。昨日茨が残した、真新しい頬の傷が目立っていた。
「一応、言っときますけど。俺はあんたの死を惜しんだり、悼んだりしませんから」
「……はい、まあ。知っていますけれど」
「そんなもんじゃないんですよ。昨日も言いましたけど」
「はあ」
 どうせ一生分からないであろう、その怪訝そうな目から視線を外した。すでにぴかぴかになり始めている床を歩くと、こつこつ高い音がした。
 窓のそばに立っている弓弦の背中には、霧散しかけた雲がある。そのまま雨が降って、全部消えてしまえば、こんな非生産的な思いも消えてくれるだろうか。そんな無意味な想定を浮かべながら、絆創膏に覆われる弓弦の手を持ち上げた。少しだけ血が滲み始めている。弓弦は反射的に動きそうになった手を制御して、おとなしく茨の動きを観察している。
「もしあんたが化けて出たら、一生成仏させませんから。呪術でも降霊術でも、何でも使ってやる」
「……そんなに、ですか?」
「そんなに、ですよ。まあ俺より先に死ぬとも思えませんし、無駄な想定なんですけど」
 振り払われない指先を握る。別に痛くもないらしい弓弦は、ぼんやりと首を傾けてそれを見る。それから茨の顔を見て、ふっと笑った。
「急に何……」
「なるほど。そういうことでしたか、ふふ」
「……何がですか」
「いえ、今しがた英智さまの意図を解したと言いますか……それで、こんなふうに思うのも変ですが」
 ぎゅうと握り返された。茨の擦りむいた甲に指先が触って痛い。それが顔に出たのか、弓弦はその力を緩めて、握り直した。
「安心しました」
「……はあ?」
「幽霊になった俺の事も、ずっと大切にしてくださいね」
 じくりと傷が痛むより、嬉しそうに笑った顔とその言葉にむかついた感情の方が先んじた。ばっと手を振り払って、掴みかからんとした手は、しかし気づけば力なくその肩に触れていた。
「……誕生日、おめでとうございます。茨」
 言いにくそうに、それでもちゃんと言った優しい声に、このまま頽れてしまいたかった。掴んでよれたシャツの皺にも、それを作る茨の指にも、新しいままの血が滲んで、やっと、そこで息を吐き出せた。
「今すぐ死んでください」
「ふふ。嫌です」

 

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