異床同夢の夜明 - 2/5

 秋風索莫の真昼

 
「……る、弓弦っ! 起きろってば!」
 切羽詰まった声音から呼びかけられて、はたと気が付けばボロ船に乗っていた。薄っぺらい木材から水が染み出して、向かい来る波にがたがた揺れている。
 勢いの強い水流に揉まれながら、長い直線距離を渡っていく。手には船体と同じく古ぼけた木製のオールが握られ、弓弦の手の上から茨がそれを掴んでいる。いつの間にか、衝撃のためか気絶していたらしい。
 ピシャリと数度、冷や水に頬を殴られて意識がはっきりしてきた。前後の記憶もあやふやだが、現状のするべき事を認識して、固まっていた腕を動かして漕ぎ出す。
「う、重い……っ」
 しかし激流に挟まれたオールは死ぬほど重かった。その上、すでに水中にいるみたいに体を動かしにくい。筋肉が悲鳴を上げているのに気付いても、止めるわけにもいかない。どうにか進行方向を制御しようとするが、がんっ、と何かに激突した衝撃が脆い船体を襲う。咄嗟に見遣ったそこには小ぶりの岩があった。そいつに側面が掠ったようで、二人の視点はぐるっと九十度回った。
「うぎゃっ! ま、まずくない!? これ!」
「そうみたいですね……?」
「なんであんた冷静なわけ!? あ、諦めてんの!? 俺はまだ死にたくないんだけど!」
 重なっている手が痛いくらいに握られて、茨がオールを動かそうとしている。前方方向も満足に視認できない状態で、それでも諦めまいと踏ん張っていた。弓弦もどうにか手伝っても、二人の子供の膂力ではどうにもならない。今の座礁でぶつけた箇所は抉れて、今にも崩れそうだ。
 操縦を半ば茨に任せて、進行方向に振り向き確認する。目を凝らせば、段々と長かった川の終わりが見えてくる。先は丸っきり途切れて、薄い色の空が近付いていた。
「茨、滝が接近しています。身構えなさい」
「あーもう! アイアイ!」
 茨の背中を掴みながら、頼りない船の縁にしがみつき、姿勢を下げる。瞬間、ぶわりと内臓の全てが浮き上がった感覚がした。無音と、それから、急降下していく風音。せめて舌を噛まないようにと必死で歯を食いしばる。
 衝撃と共に投げ出された体は、水面に落下した。硬い大理石に落下したかのような痛みの後で沈んだ背中を必死に持ち上げて、近いほうの岸辺まで泳ぐ。息も絶え絶えになりながらどうにか辿り着くと、すぐに茨も打ち上げられるように勢いよく陸に上がった。
 ばたりと揃って芝生に倒れ込む。荒い呼吸のなか、見上げる視界に赤色の葉っぱが舞い落ちてくる。一枚額に落ちてきたそれは濡れている肌にくっついた。
「なんかさぁ、こういうの、絵本で読んだ事あるよ。大抵、貴族の子供を攫うときには川を下ったり流したりするんだよね」
 げほ、と飲んだ水を吐き出しながら、茨が徐に言った。横目で見た茨は弓弦と同じく空を見上げている。
「あなたも絵本なんて読むんですね?」
「前いた施設にいっぱい置いてあったし、なんにもやる事なくて暇だったからさー……」
 ひとしきり咳き込んだあと、一息ついて、弓弦は寝転がる体を横に向けた。疲弊した呼吸をしていた茨はそれに気付くと、顔だけ横に倒した。なんとも無しに伸ばしてきた茨の手が、弓弦の額から葉っぱを摘んで捨てた。
「でも確かに、俺も映画みたいだと思いました。正直に言うと、結構楽しかったですよ」
「映画なんて観るの? さすがお坊ちゃんだね」
 彼は嫌味っぽく鼻で笑って、その後でにやりと口角をあげながら「元、だったっけ?」と言った。弓弦は何も言わずに口元だけで笑う。なんだか全てが順調で、まるで現実味がない。それでも、そよそよ吹く秋の風は、寝ぼけた頭を覚ましていった。
 びしょ濡れになったまま、びゅうびゅう唸る秋風に寒い寒いと言いながら身を寄せ合う。手を繋いでもくっついても、どちらの体温も同じだった。少しだけ、じんわりと温かいような気はする。そうして、いつのまにか間近に迫った互いの顔を見て、あはは、と声を上げる。
「このまま風邪でも引いたらどうしましょうか」
「太陽も出てるし、大丈夫じゃないの? 俺はもうそんなに寒くないかも」
「本当ですか?」
「本当だってば。ほら……うわっ、冷たい!」
 伸ばしてきた手は弓弦の頬を摘んで、反射的な動作で離れた。解放された反動からか、悪戯心が湧いてきて、冷たい手で茨の頬を挟む。
「うわぁ! マジでやめろってば、なに!?」
「いいじゃないですか、少しくらい体温を分けてくれたって」
「寒い寒い寒い! ばか!」
 ここでは丁寧にする理由も、完璧である必要もない。恥も外聞もなくなって、そのまま冷えた身体で茨を抱きしめる。冗談のつもりでくっついたら案外温かくて、離れがたく思っていると、ぶつくさと文句を言いながら抱き返された。
 冷たい風から隠れるように抱きついて、白くなった息を吐いた。その煙が視界のすべてをやがて覆って、そばにあった体温も消えていった。

 ◇

 空を切ったはずの手のひらが、ぎゅうっと熱い温度に握られる。どきりと心臓が冷える感覚がして、すぐさま目を開いた。目覚めたばかりでぼやけた視界の中に、明るい髪色だけが見えた。
「弓弦! 目が覚めたの!?」
 甘く、柔い声が聴こえた。強く握っている様子なのに、痛みを伴わない柔らかな手のひらだった。涙に濡れる声色が、冷え切って震える手を淡く温めている。
「い、ばら」
 目覚めない頭には、その眩しさが強すぎて、うまく見えない。熱っぽくて潤んだ目には、いつだったか、拙くも看病をしてくれた幼馴染の姿が見える気がした。しかし、眼前の彼は目をまん丸にして、首を傾げた。
「えっ? なに、弓弦?」
「……桃李?」
「う……うん、そうだよ。か、勝手に倒れて、死にそうになるなんて、絶対に許さないからな!」
 見上げた天井は美しい装飾が広がっている。二人の子供を照らしているのは、豪奢な照明器具だった。甘ったるい匂いに見上げれば、頭上に美しい桃色の花が飾られていた。そしてようやく、今いる場所がどこなのかを思い出した。
「ずっと、うんうん唸ってたから、死んじゃうのかと思った」
 今度こそ、涙を浮かべた愛らしい主人の顔が見える。彼の体温で僅かに温まった手で、ポケットに入っていたハンカチを取り出し、優しく拭う。桃李はそれを受け入れながらむくれ顔で弓弦を見ていた。
「……申し訳ありません、坊ちゃま。ご心配をおかけしてしまいました」
「ふん! 別に心配なんかしてない! うるさかったから黙らせに来ただけだもん」
 丁寧に用意されたソファに座って、不遜に言い放つ。黙り込んだ弓弦をちらっと見て、咳ばらいをしてから、「ねえ」とまた言う。
「おまえ、なんで唸ってたの?」
「……いえ。ただ悪夢を、見ていただけにございますよ」
 あれはとんでもない悪夢だった、桃李と目が合った瞬間にそう思った。この屋敷から背を向け、剰え自由だと笑い合うなんて。唸っていたというのなら、間違いなく自分の願いなどではないはずだ。
「ふーん?」
 当の桃李は興味なさげな返事をしたのち、ぴょこんと立ち上がった。「治ったか確認してやるぞ」と偉ぶって言うと、冷えピタ越しに弓弦の額に手を当てた。よく分からなかったのか首を傾げて、すぐ取り繕うように可愛らしい笑顔を浮かべた。
「はやく元気になって、お菓子とか作ってもらうからね!」
 だから、と続ける愛おしい横顔を見つめながら、沈んでいく意識に流されるまま、瞼を下していった。
きっと両親からは叱られてしまうのだろうな、と想像をすると憂鬱になって、そして、今見た夢を無意識にも反芻する。悪夢と称したその夢が、未だ望みであることは、許されないことであるのに。

 

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