異床同夢の夜明 - 3/5

 滴水成氷の夕暮

 
「おーい、弓弦―? 生きてんの?」
 ぺち、と頬っぺたを軽くたたかれる。はっと意識を取り戻せば、びゅうびゅう吹雪いてくる氷の粒にぶるりと震えた。尻餅をついた尾骶が冷たい。目線を合わせてしゃがんでいる茨も、すっかり着込んだ防寒具を突き抜ける気温に、思い切りくしゃみをした。
「うー……寒っ。ダメもとで山小屋とか探す?」
「未踏の山でもありませんから、どこかに凌げる場所はありそうですよね」
「弓弦、めちゃくちゃ声震えてるんだけど。し、死ぬの?」
「死にませんったら」
 近場の岩肌に手をついて、凍える足を叱責し立ち上がる。掴んだ雪がきゅうと鳴った。どこまでも降り注ぐ砂状の雪は、茨のゴーグルにまで降り積もっていた。
 印で示された、勾配の緩いコースを雪上ブーツで踏みしめる。深く積まれた粉雪は、踏み込むたび固まって鳴く。足元から生き物みたいな声がするのを不思議な心地に聞きながら、どこかでも白い景色を見た。本当の生き物も植物もなくて、厳しい寒さだった。
「うわっ」
 半歩前を歩く茨の足跡を踏んで、つるりとつま先が滑る。軸にした足は後ろを蹴って、体は前傾する。咄嗟に突き出した左腕を、黒いグローブの両手が掴んだ。
「あ、あぶなっ……ねえ、やっぱ疲れてんの? 休んだ方がよくない?」
「……ありがとうございます。疲れ……というか、視界が悪くて、足元が見えていませんでした」
「俺もあんまり前見えてないけどさあ……」
 咄嗟に掴んでくれた手を借りながら体勢を戻す。山頂まではまだ遠く、途方もない。吹雪はずっと続いている。少し立ち止まった茨の帽子に早くも雪が積もり始めていた。
「まあ、いいや。さっさと行こ。立ち止まってて死ぬ方が最悪だし」
 支えてくれた手をそのまま握って、茨が弓弦の手を引く。厚いグローブからは体温など伝わらない。それでも凍える指先が融解していくような感覚になる。
 茨は何度もゴーグルを掛け直しながら、一歩ずつ踏みしめて道を作っている。残してきた足跡は新しい雪に埋もれてゆく。弓弦の前には、まっさらな雪道が、ただ永遠と続いていく。
 ぴたり、と弓弦の足が止まった。一歩進んだ茨の腕は、それに引っ張られてぴんと伸びる。後ろによろめきながら、茨が振り向く。
「どうしたんですか」
 吐く息は白く、頭上にある夕景へと立ち上っていく。凍り付いた夕陽は雪を溶かしてはくれない。茨の冷え切ったアイスブルーが、雪に紛れていく。
「もう、いいですよ」
「……なにが?」
「これ以上、わたくしに付き合わなくてもいいんですよ」
 吹き荒れる雪は二人の横っ面を殴り続けている。真っ直ぐに目を見れず、真っ赤になった茨の鼻を見つめる。きゅう、と茨のブーツが雪を鳴らした。
「どうすんの」
「帰りましょう、茨。この先には、どうせ何もありませんから」
「……ここまで来て、帰るんですか?」
 青ざめた唇が震えている。顎まで覆うネックウォーマーに埋もれて、喉で唸る。
「あんたはそれでいいんですか」
「ええ」
 また吹き荒れた吹雪が、茨の姿を隠していく。手を繋いでいるはずなのに、そこにはいないみたいだった。
「わたくしはもう、幸せですから」
 ゆっくり、手を離した。もうほとんど視界がつぶれて何も見えない。真っ白だった。そのまま、すべてがホワイトアウトしていく。
「いいわけないだろ」
 白く塗りつぶされた空間の中で、離れていく足音が聴こえた。顔を上げると、吹雪のはざまから、わずかに遠ざかる背中とオーロラが見えた。

 ◇

 どしん! と背中から衝撃が走って目を覚ました。痛む背中をさすりながら起き上がる。窓の外はまだ白くなったばかりで、時計を見るまでもなく明朝であることは明らかだった。
「……ゆ、弓弦? 大丈夫? いまベッドから落ちなかった?」
 はっとして隣に視線を送ると、布団から顔だけ出している桃李が、目をもっと丸くしながら瞬きを繰り返していた。
「失礼いたしました、坊ちゃま。起こしてしまいましたか」
「いや、うん。それは別にいいんだけどさ……大丈夫?」
「坊ちゃま……坊ちゃまのお心遣いがたいへんうれしゅうございます。大丈夫でございますよ」
「……顔色良くないよ。病院か医務室に行った方がいいと思う」
 無垢な目が弓弦を真っ直ぐに見つめて言う。たまに、こうして機微に鋭いところがあるのだ。気を遣わせてしまう罪悪感と嬉しさで黙り込んだ弓弦を、桃李がじとりと見つめる。
 では行ってまいります、と言いながら立ち上がる。確かに血が足りないような感覚とともに、ふらりとよろめく。
「うわっ、だ、大丈夫じゃないじゃん! ちょっと待って、誰か呼んでくるから」
「いえ、医務室までの距離なら……坊ちゃま!」
 朝っぱらからばたばたと桃李は部屋を出る。慌ててそれを追いかける。廊下には明朝だけに誰もおらず、桃李は何度も振り向きながら進んでいった。
「もう……」
 小さくも頼もしい背を追いかけながら、息をついて壁に寄りかかる。この感覚を弓弦は知っていた。昔、訓練施設にいたころに引いた夏風邪とよく似ている。熱っぽい額に手を当てれば、指先の冷たさが際立った。
 寒気が走って、先ほど見た夢の内容を思い出す。あんな夢を見たのは久しぶりだった。もう逃げたいことなど、どこにもないというのに。
 過去を俯瞰できる今なら理解できる。あの夢は自らの逃避願望を投影していた。ただ単純にそれだけだ。幼い自分のばかげた理想。それにあの子を付き合わせていた。手を離し登っていく背中に、安堵と、どうしようもない寂寥感があった。それはきっと、心のどこかに生きている幼い子供心が、未だにあの尻尾に手を伸ばし続けているからなのだろう。
 無意味なことをぐるぐる考えていると、ふと最近聞いた夢占いという存在を思い出す。一昨日あたりに見た番組で、山の夢がどうとか言っていたような。
「あ」
 そのとき、不意に前方から足音がしていることに遅れて気が付く。素早く視線を上げれば、何やら戸惑った様子で足を止めた茨がいた。彼は素早く思索を巡らせてか、失していた表情を張り付ける。
「……やあやあ、これは奇遇ですね! 朝っぱらからご苦労様です!」
「ええ。では」
 わざとらしい敬礼と挨拶をする隣をさっさと通り抜ける。お互いにこれ以上会話をするメリットもないだろう。そう思ってすれ違った弓弦の腕が、予想外に引き留められた。ぐいっと無遠慮に掴まれて、半ば睨むように振り向く。
「なんです?」
「いや、えー……と? あんた、もしかして熱とかあります?」
「はい?」
「毎回、自分の目の前で倒れるのはやめてほしいんですが」
 真正面から合わせた目は、夢の中で何度も見た色だった。咄嗟に腕を振りほどいたら、ぐらりと脳が揺れる。いつかを再演するかのように、体は前へと傾いた。すぐにまた掴まれた腕は支えきれずに、ゆっくり地面が近づいてくる。
「弓弦っ!」
 ぱたぱた、廊下の向こうから走ってくる小さな靴が見える。ぐらぐら歪む世界の中、弓弦は不安定に自分を支えている、慣れた腕に縋りつく。目前が暗くなって、力なく落ちていく指先が強く掴まれるのを感じた。

 

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