一陽来復の夜半
ぱち、と一度瞬きをした。足元にぱしゃりと小さく水が掛かって、身じろぐ。抱えている膝を、もっと抱きしめるように体を縮めた。
気が付いたら、弓弦はひとりで狭い砂浜に座っていた。左右を見渡して、すぐに端っこが見えるくらいの小さな孤島。自分を乗せてきた船も、蒸気を上げながら、もう随分と遠くに行ってしまった。
目前に広がるエメラルドグリーンの海。それを照らす、柔らかな月明かり。どこからか花の香りがして、近くで羽根を休める鳥が鳴いている。つま先をつけた海は冷たくなかった。
ぎゅう、と自分を抱きしめるみたいに頭を沈める。ここには幸福が詰められている。泣き虫な自分を慰めるために誂えたように、どこまでも優しい。それなのに、ひどく虚しい。
これは夢なのだと、やっと気が付いた。弓弦の目は現実のように潤んで、世界も一緒に歪んでくる。それでも、宙に浮いたような、地面を失した感触はリアルじゃない。頬をつねっても痛くはない。
でも、どうせ夢なら、だなんて考えついて自嘲する。ここまで幸せな世界を想像しておいて、これ以上など烏滸がましい。目を覚ませば、愛おしいあの人がいて、愛すべき天使達がいる。友人と呼んでくれる存在もいて、だから、それで。
「…………ばか」
ぽたぽた落ちていく涙が砂浜に吸い込まれていく。春の優しい風が濡れた頬をさらっていく。
不意に、ぽこりと海面からイルカが顔を出した。驚く暇もなく、イルカは小さな頭を、海にいれていた足にくっつける。くすぐったくて少し笑うと、どこからか、飛沫が高く上がった。
イルカは一目散に逃げ出して、弓弦はまたひとり取り残される。しかし、海の向こうから、何かが泳いでくる。ばしゃん、ばしゃんと波を掻き混ぜて、下手くそに泳ぐなにかがいた。思わず立ち上がって、一歩下がる。同時にその手が砂浜をつかんだ。
ざばりと海から現れたそれは、全身がずぶ濡れになって、顔に海藻もくっついて、息も絶え絶えで、ぼろぼろの姿だった。満身創痍の様相でも、その涼しいスカイブルーの瞳は、満足げに輝いていた。
わけもなく溢れそうになる涙を飲み込んだら、突風が吹いた。そうして、背後から色鮮やかな桜の花びらが舞い散っていった。春の嵐とでも呼ぶべき光景に息が詰まる。淡い桃色の花びらをまとった彼は、茨は、確かにそこにいた。
「見つけた」
そうして、自らの虚しさと寂しさの意味を、ようやく正しく理解できた。
茨は呆れ顔で笑って、口を開いた。春の嵐の中でも、今度は、その声がちゃんと聞こえる。伸ばされた腕に応えるように手を伸ばして、しがみついた体温は、どこまでも熱かった。
◇
ぱちり、と目が開いた。一瞬ぼやけた視界は、もう一度瞬きをしたあとクリアになった。天蓋じみた白いカーテンに囲まれている。目に映る天井は真っ白で清潔だった。
いつか遠い記憶と重なって、懐かしさを覚えながら起き上がる。そこで、カーテンが少し開いているのを見つけた。その隙間からは、ふわりと動く茜色が見えた。
「……茨?」
寝起きの掠れた声で、名前を呼んだ。聞こえないくらい小さく発声したつもりだったのに、静かすぎる部屋には十分だったらしい。忙しなく動いていた背中はぴたりと動きを止めた。
真新しい革靴がフローリングを静かに滑る。左足が一歩、弓弦の方へ下がって、ゆっくりと振り向いた。
弓弦はその背中へ、思わず手を伸ばしていた。
「弓弦、目が覚め……て、な、何ですか……」
精一杯伸ばした指先でぎりぎり掴んだ服の裾を引っ張って、幼い子供のような拙いやり方で彼を呼ぶ。茨は呆れた様子で一度息をついて、「はいはい」と言いながらそばに寄る。
「どうしたんですか。まだ寝惚けてます?」
不思議そうな目で見られて、はたと正気に戻った。夢の中と同じようにしたかったのだと気が付き心臓が冷える。もうふざけてでも触れ合えるような関係じゃない。そもそも、いくら人恋しくても、この男にだけは縋りたくない。
そんな事を思考しながら黙り込んでいると、茨は一度ため息をついた。
「あんたって、昔っからこうですよね」
「……どういう意味ですか? それは」
「風邪を引いたら、こう人の手とか裾とか引っ掴んで……初めてやられた時は何事かと慌てたもんですよ」
ふっと馬鹿にするように鼻で笑いつつも、その声音は温かい。むず痒さに耐えられず手を離すと、茨が笑った。
「覚えてます? あんたが夏風邪を引いて倒れた時、初めて人の看病なんかをしたんですが」
「ええ、覚えていますよ。たいへん奇妙に思いましたから」
「自分もですよ。……あの時もこうやって裾を引っ張って、で、なんて言ったんでしたっけ?」
口角を上げて意地悪く笑おうとしているのが伝わってくるが、弓弦の目には柔らかい表情に写る。嫌な予感がして首を振った。
「行かないで、って言ったんですよ、俺に。傑作ですよね」
「……また、下らない嘘を」
「まあ自分の記憶力も確実じゃありませんけど。手を握るなり泣いたのは覚えてますよ、怖かったので」
泣いた、その記憶は確かにあった。ぼやけた視界の向こうで、茨が名前を呼んでくれたことを、覚えている。
不意に突風が吹いた。カーテンが揺れて、半端に開いていた隙間が閉じる。換気のために窓が開いていたのだろう。白いシーツの上に、淡い桜の花びらが乗った。
茨は顔にかかった髪を鬱陶しげに払っている。「窓閉めていいですかね」とほとんど独り言で言いながら背を向けた。踵を返して翻った服の裾を、軽く摘んだ。するりと指先から布が落ちる。
「何ですか。開けっぱなしじゃあんたも寒いでしょう」
茨が振り向きざまにそう言った。空気を摘んだはずの指は彼を引き留めたようだった。思わず溢れた笑みを、茨は怪訝に見遣っている。それが余計におかしかった。
「ええ、かなり冷えました」
「そうでしょうね」
「あなたのせいですよ」
「開けたのは自分じゃないんですが?」
窓の外では鳥の歌声がする。風は花の香りを運んできて、窓から温かな陽光が差し込んでいる。上階からは足音や話し声のざわめきが聞こえる。
「弓弦? え、うわっ!?」
手を伸ばせば、茨がいる。不意を突いて腕を回して、強めに固定する。驚いた様子で固まった茨は、小さく「痛いんですけど」と呟いた。
「わたくし、まだ寝惚けているみたいです。長い夢を見たもので」
「……そーですか。自分も最近夢見が良くないんで分かります」
茨の体温は、夢と同じように、それ以上に熱かった。こわごわと背中に回った腕が巻きついてくる。
「夢占いって知ってます? つい最近出演した番組内で話題が出たんですが、割と当たっている気がしたんですよね。暇つぶしがてら調べてみませんか?」
「……本当に長くなりますが、聞きたいのですか?」
「ええ、是非。あんたみたいな人間がどんな夢を見るのか気になりますし!」
そう言って笑う茨の髪に、桜の花びらが絡まっている。弓弦も笑うように息を零して、花びらに手を伸ばす。取り去った花びらは舞いながら白い床に落ちていく。
「あなたも話すと言うなら、話しますよ。坊ちゃまが来られるまで暇ですので」
「自分も構いませんよ。番組中でも一度占ってもらいましたからね」
少しずつ春の温度で微睡んでくる。目を瞑れば、今が夢なのか現実なのか、また境目が曖昧になる。ふわふわと浮いた感覚の中で、抱きしめた体温だけが現実だった。重たい瞼を押し上げ見上げれば、茨も春の陽気に当てられたのか、珍しく緩んだ顔で目を閉じていた。
「まあ、夢なんてもんにどこまで意味があるのか知りませんけど」
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