異床同夢の夜明
目を覚ました茨はひとり、広大な砂漠にぽつんと転がっていた。砂まみれになった両手を空に翳せば日照りの熱を感じる。そして、またこの夢か、と独り言ちた。
夢見が悪いのは実際、今に始まった事じゃない。
一番最初は、弓弦が施設にいた頃のいつかの夏、油断した折に風邪を引いてぶっ倒れた日だった。暗い森から、足取りの重い弓弦を連れ出して逃げ切る夢。
次は弓弦がいなくなった後、資産を受け継ぎ施設から抜け出した年の秋。慣れない経営に無理を通して、今度は過労でぶっ倒れた。その時は眩暈が酷かったからか、勢いのついた川を転げ落ちていく夢。
それから、高校生になって弓弦と再会した年の冬。普通に眠ったはずなのに、ひどく眠りが浅い夜だった。吹雪の山で、一緒に登ってきた弓弦と別れる夢。
そうして今、一人ぼっちで砂漠に転がる夢を見ている。今日のことは覚えていないから、例のごとくどこかでぶっ倒れているのだろう。
夢に意味を見出すほど子供にはなれず、脳内の願望やら恐怖心やら記憶の整理の一環だと思っている。が、この一連の夢だけは起きた後もはっきりと覚えている。そうして自分の深層心理に眠るなにかに責付かれ、これは悪夢だと断定する。そんな事を繰り返している。
ざり、と砂を掴んで投げる。草一つ生えない不毛の地。今は遠い、かの幼馴染が隣にいない夢がどうしてこうも味気ないのか。その答えは、とうの昔から知っていた。
何もない空をはぐれた渡り鳥が飛んでいく。だるい体をやっとの思いで起こして、ふらつきながら立ち上がる。思えばずっと、逃げ続けるばかりの悪夢だった。俺は施設から逃げて、あいつは姫宮の屋敷から逃げて、現状の関係からも、果ては自分自身からも逃げていた。
こんな下らない悪夢も今日で終わりにしてやる。
そう考えるなり、茨はその場を駆け出した。地図も方位磁針も星図もない、身一つの子供だった。行き先も前後左右もわからずに、それでもとにかく走った。
これが夢なら、自分の頭の中の世界なら、この先に道があるはずだと願う。すると、砂漠は次第に高度を下げて、ざらりとした風が吹いた。
目の前には、広大な青い海が広がっていた。砂漠の砂を飲み込んで、砂は海を吸って、砂浜のようになっている。ぜえぜえと息を切らせる。いっそのことと海に踏み出そうとして、あまりの深さに一歩下がる。
それから砂浜と化した砂漠の端を見回す。いくつかの脆そうな板切れや腐食した縄が落ちている。茨はそれに飛びつくようにして拾って、必死に板と板を繋ぎ合わせた。ずっと陸地で訓練を繰り返していた茨には、自力で海を渡った経験はない。それでも本で読んだ知識を総動員して、ボロボロのいかだを作った。
陸に繋いでいても、既にいかだは波に翻弄されている。しかし躊躇わずに茨はそこへ乗り上げた。足で打ちつけただけの杭を蹴って引っこ抜くと、いかだは勢いよく海へと流された。
天候は快晴、そして強風。春の嵐を思わせるそれに、いかだごとどこまでも流されていく。息が詰まるほどの風に伏せていた顔を無理やりあげれば、どこからか桜の花びらが飛んでくる。鼻先を通り過ぎたそれを捕まえて、周囲を確認する。どこを見ても青い海が広がっている。しかし不意に、水平線から一隻の船がやってくるのを視認した。
茨はその船が来た方向こそが目的地なのだと理解した。ふわりと舞う花びらは、船と共に流れていく。波に抗うように腕一本で海をかき、どうにかそちらへ近づこうとする。途端に海は猛々しく波打って、茨はなす術もなく、高波に飲み込まれた。
ざぶりと頭から沈められた体を、いつしか教わったように息を溜めてどうにか持ち上げる。荒れた水面まで浮上して、脆くも壊れ去ったいかだの破片を捕まえた。自らを拒むような海の全てが、狂おしいくらいに憎らしく、変わらず愛しかった。
それからは板にしがみついて、必死に泳いだ。この先に何があるのか、知らなくても分かっていた。ここで無様にもがいてでも辿り着かなければならない場所だった。約束なんかしたこともない。それでも急いで、息を繋いで、広すぎる海を身一つで渡っていく。
波が揺れたと思えば、ぱしゃっと水を打って、イルカが飛んだ。真横を通り過ぎていくそいつは、どこまでも美しく泳いでいる。闘争心に火がついて、絶対に負けてたまるかと一層に息巻いた。
全身から温度が消えても手足は動く。だんだんと花の香りが近付いていく。甘ったるく、しかし心地良いような、優しい匂い。もう感覚もほとんどない腕に力を入れて、沈みそうな体を持ち上げる。
潮風に乗って、震える呼吸が聞こえたと思った。顔を上げると、いつの間にか陸地が近かった。目を凝らせば、そこに膝を抱えて小さくなった子供の姿が見えた。
気付けば辺りは真っ暗だった。邪魔になった板は放り捨てた。いつだったか教わった泳ぎ方で、島を照らす月明かりだけを頼りに、残り十数メートルの距離を渡る。彼に寄り付いていたイルカは逃げていった。水が跳ね上がって、砂浜にうずくまる彼が視線を上げた。
砂浜に指先がかかった。一度崩れたそれを再度掴みなおして、それからざばりと上体を起こす。荒く呼吸を繰り返しながら、どうにか立ち上がった。
「い、ばら」
らしくもない、か細い発声がした。夢の中らしく現れた眼鏡を掛け直して、正面からそいつを見る。同時に、例の嵐が吹き荒れて、ぶわりと鮮やかな花びらが飛び散った。
風に乗って流れていくそれの中心で、弓弦は呆然と茨を見つめていた。
「どうして……」
「言うと思いましたよ。あーあ、自分はこんなに苦労して来たのに。労りの言葉もないんですね」
弓弦は黙って、静かな目で茨を見る。
「何回も言いましたよね、自分」
「……なにを?」
「あんたが聞いてくんないもんだから、こんな所まで来ちゃいましたけど」
春の柔らかい風が吹く。春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。夜にも残る麗らかな陽気が、冷えていた全身を包んだ。
一歩進めば、弓弦は自然と下がっていく。その背は大きな桜の木にぶつかって、茨の手が届いた。
「弓弦、あんたは俺にどうしたいかって訊きましたけど」
握る手は温かくて、そっと目を合わせる紫色は柔らかくて、なんて悪夢だろうかと思う。それならそれで、と茨も諦めて、弓弦を抱きしめた。
「……俺はあんたの行きたい場所なら、どこだって」
しがみつくような不器用な手つきで抱き返される。桜の樹冠越しに見えた空は白み始め、薄っすらと半月を描く虹が浮かんでいた。
虹の夢は吉兆だ、と占い師は言っていた。別に占いなんか信じていない。夢に意味などあるはずもない。でも今日は、目が覚めたら弓弦に会いに行こうと、そう思った。
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