山を泳いだら笑って涙

 

 透明の瓶に霧吹きで水を掛け、軽く傾けると壁面に一筋の跡を引いた。それをスポイトで吸い取ってから、水平に戻して眺める。貝殻や砂ではなく、土や苔で構成されたテラリウム。陸へ上がってから作るそれは、海で作る物とまた手間が違って面白い。白いハンカチで表面を撫でるように拭き取ってから、湧き上がる満足感に息をついた。
 壁の棚へ並べようかと思案して、一旦机上へ飾る。毎回手を掛けるだけあって、置き場所には迷ってしまう。出来ればいつも目の届く場所が良いだとか、日当たりや同室の目線を考慮するだとか。そう考えて、ふと窓際に意識が向く。海からの光を反射する陸を閉じ込めたテラリウムというアンバランスな光景は、どう考えても面白い。目の届く場所であるし、直射日光でもない。あとは、ここが隣の机との境目である事だけが難点だ。勝手に置くのは良くないだろうし壊されても困る。最後の問題を解決するべく、先に断りを入れる事にする。
「フロイド、窓際にこちらを飾ろうと思うのですが」
 そして作業が終わって、初めて兄弟側のスペースへ顔を向けた。いいですか、と肯定を催促する言葉が続かなかったのは、ベッドに寝ころんで雑誌を読んでいた片割れの上げた顔が不機嫌だったからではない。それが寮服のままである事や、白いシーツの上にスナックの欠片を零している事、いつからか分からないが床に散乱したごみや服といった視覚情報が原因だった。
「まぁたそれ? 別に机使わないからいーけどぉ」
 そう言って、またスナック菓子を齧る。さくりと良い音を鳴らして粉末に近い欠片が雑誌とシーツに散らばっていく。一瞬、脳内を駆け巡った苛烈な言動には蓋をしつつ、まずは大袈裟に溜息をひとつ。それだけで彼には、ジェイドが言い出すであろう話題について見当がついたらしく、面倒そうに口を曲げた。
「また、こんなに散らかして……そろそろ片付けないと足の踏み場が無くなってしまいますよ?」
「えー……大丈夫だって。踏んで痛いもんは落としてないし」
「そういう問題では……それに、ベッドを汚すのは困るでしょう? 寝る場所が無くて」
「そこがあるじゃん」
 面倒げだった口元をへらりと緩めて、フロイドは真っ直ぐにジェイドの背中側を指す。見なくとも言いたい事が伝わってきて、今度は本当に溜息をついた。
「僕の寝る場所がありませんよ」
「じゃあ、ジェイドがこれ片付けてよ。今日は場所交代しよ」
「……はあ、やれやれ。困りましたね」
 いつもの言葉を口にすると、最初は不機嫌だったはずのフロイドがしたり顔で笑った。別に許しの言葉でも何でもないのに、と思いはするが、今回負けたのは自分だと納得する。取り敢えずテラリウムを窓際にそっと飾った。海からの光を吸い込んで育つ苔に関して思いを馳せれば、結局いつも通りの夜が来るだろう。
 一通り観察したところで、机に置いていた端末がメロディーを奏でながら振動した。光を湛えた液晶を覗き込めば、見慣れた名前が浮かんでいる。手に取りながらカレンダーを見て、首を傾げつつ通話をオンにする。
「お疲れ様です、アズール」
「ええ。すみませんが、至急VIPルームまで来て下さい。では」
「はい? どういう――」
 質問の隙も、続く挨拶の隙すらも与えられず、休日の寮長からの珍しいコールは切れた。まず浮かぶのは緊急事態だが、落ち着いた声音からそれはないと判断できる。行き先がVIPルームである事を考えればラウンジの仕事絡みであろう事は予想できたが、休日の昼間からまさか、とも思う。
「何だった?」
「さあ……」
 片割れと顔を見合わせて首を傾げる。仕方ないと少し重い腰を上げ、仰向けに寝転がった兄弟の憐憫を帯びた眼差し見送られ、居心地の良い日曜日の部屋を出た。

 休日の閑散とした廊下、ラウンジを私服姿で歩き、数分で到着しVIPルームの扉をノックした。すぐさま「どうぞ」と常時より低い声が返ってきたので、また首を傾げながら入室した。
「失礼します。それで用件は……」
 後ろ手に扉を閉めて、そこで動きを止めた。前傾しながら机に向かって何度も瞬きを繰り返すアズールの顔が素早く向いたせいだ。道すがら覚悟していた嫌な予感が正しい事を悟り、こっそり脱力する。
「アズール……本日は休日ではありませんでしたか?」
「急な大口契約が入りまして。休んでいる場合ではなくなったんですよ。なのでジェイド、こちらの日程調整と資料作成、それから顧客リストの更新を」
 受け答えも簡素に手招きされる。近付くなり空いた両手に次々と書類の山を乗せられて「うっ」と呻く。私服姿で来たのも、爪の間に入り込んだ土を除ききらずに来たのも、至急であると命じられたからの他に抗議の意味もあったのだが、目も合わせない相手には効果が無い。随分と質素になった机の上を払って再び数枚の資料に向かい始めた頭に、戸惑いも含みつつこっそり睨んだ。
「お言葉ですが、アズール、この量を一人の従業員へ任せるのは些か短慮が過ぎるかと」
「無理があるならフロイドにも手伝ってもらえばいいだろう。お前達に出来ない仕事じゃない」
「ですが、貴方の手元にある物と比較していかがなもの、か……と……」
 再び勢いよく上げられた顔に言葉が切れ切れとなった。その目が剣呑であるからではない、それはいつもの事だ。手元に見える資料が存外に複雑であるからでもない、それも通常。ただ、初めて見えた目元がくっきりと、見事な程に隈を創り出していて、綺麗好きな手がインクに黒ずんでいるのが稀有だった。
「……なんです」
「いえ、なんでもありません。そうですね、フロイドも暇を持て余していましたから誘ってみる事にします」
 反論すべく開いていた口を、戸惑ったジェイドを見て閉じる程度には頭が働いてはいるようだ。それでも、無理難題に近い量のこれらを処理させて倒れられるのも困る。気付かれない程度、小さく溜息を吐き出してから、適当にVIPルームを後にした。

「え、やだ」
 ジェイドの机に置かれた書類の山を認めた瞬間、寛いでいたはずの兄弟は雑誌を持って後退った。
「まだ何も言っていないんですけどねぇ」
「言わなくても分かるって」
 関わりたくないのだと全身で伝えてくる。兄弟の正直なところは好ましく思っているし、嫌そうに顰めた顔は面白い。
「なんで休みの日までめんどくせー事すんの~? 明日でいーじゃん」
「全てを今日終わらせるわけではありませんよ。期日の近い物から順に……」
「あー説明しなくていいって! オレ、外で遊んでくる!」
 聴きたくないポーズをしたフロイドはお気に入りの雑誌をポイと床に投げ捨てて、だらしのない恰好のままで走って部屋を出て行った。誰に聞かせるでもなく「おやおや」と呟いて、嵐のように消えていった兄弟の残した空間に目を向ける。心なしか、VIPルームへ行く前より酷くなっている気がした。
「……ふう」
 放り出された雑誌を拾い上げて、フロイドの机の上に仮に置く。自分で投げておきながら、汚れてしまったらきっと気にする。そしてこちらも随分と散乱している事に気が付いてしまって、また溜息が出た。片付けるのはいつもの事で、今回に至っては口で負けた自分が悪い。まずはベッドの上を掃除する事にして、汚れたシーツをスナックが零れないように剥いで、屑籠に中身をざらざら流し入れる。さて洗浄魔法を掛けようかとポケットを探り、マジカルペンを手に取って、はたと止まった。
「……ああ、もう」
 指で拭っても取れない黒い汚れに、倦怠感が訪れるのを感じる。一度目を閉じて、ベッドに腰掛ける。このまま横になっては入眠してしまいそうだ。ちらと窓の方を見遣ったら、積み重なった未処理の書類が視界に映った。改めて見ても冗談みたいな量だが、こちらは交渉に負けた自分の落ち度だ。
 何から手を付けるべきだろう。考えるだけで、どろりとした重みが頭上に乗った。そして、ああ、疲れたな、と自然にそう思った。

 ◇

 ピピピ。
 頭上から鳴るアラームの音から逃げるように布団の中に丸まる。ぎゅうと目を閉じても鼓膜を破らんばかりに響いてくる。耳を塞ぐより早く、苛立ちに任せて起き上がり、枕元に設置されたスマホへ平手打ちした。ぱっと付いた液晶に表示されるボタンをスライドすれば、漸く音が止む。
「あ゛ー……」
 眠い。別に寝なくても大丈夫だが寝ていたい。忌々しいスマホを見下ろして、ここが片割れのベッドである事を思い出した。結局フロイド自身のベッドも驚く程綺麗になっていたが、書類の山も消えていたので交代して寝る事を続行したのだった。多少は気分が変わって面白いだろうかと思っていたが、早朝から起こされるベッドなら二度と寝ないと心に決めた。
「ジェイドぉ、朝ぁ」
 怠い身体を起こし、眠い目を擦りながら適当に声を掛ける。「ん」とこれまた眠たげな返事がかえってきたので、良しとして自分のクローゼットからはみ出した制服を引っ張り出した。
 一度ボタンを掛け違えたりもしたが、普段通りに着替え終える。同時にジェイドもフロイドのベッドから起き上がるのが見えた。珍しいと過ってそちらへ顔を向けた。
「おはよ」
「おはようございます。今日はきちんと起きられたんですね、良かった」
「何それ。馬鹿にしてんの?」
「ふふふ」
 笑い声が肯定にしか聞こえない。聞こえる様に舌打ちして、ジェイドが起きたばかりのベッドに腰掛けた。床に散乱していたはずの教科書類が詰められた鞄を足で拾い上げつつ、きっちりと着替える兄弟を睨む。すぐに視線が返ってきて、くすくすと微笑む見慣れた表情に顔を顰めそうになって、目が合った。途端に寝惚けていた思考が少し醒めた。
「どうしました? ふふふ」
 不自然にも逸らされない目が、ずっと開いている。閉じろと言っているわけではなく、その瞳孔が開き切っている事が問題点だった。瞠目されたままで微笑む表情はいつも通りとはかけ離れて不気味であった。思わず頭を掻いて髪を引っ張る。何だこれは。
「……なに?」
「え?」
「いや、え?じゃなくて……ヤバい薬でも飲んだ?」
「ん、ふふふ。本当ですか? では今日は山へ行って取って来ましょうか」
「は?」
 話が噛み合わない。というか、ずっとジェイドは笑っていた。平時の張り付けた様なそれではなくて、心から楽しくて笑うような表情だった。
「大丈夫、シイタケ以外にしますから。香りの弱い物や食感の面白い物など、色々と食べやすい個体もありますし」
「えっ、え? オレにきのこ食わそうとしてんの?」
「ふふふ、そうでしょう? 楽しみにしていてください。僕も楽しみです」
 心底嬉しそうに笑って、分からない会話を続ける片割れに気味が悪くなる。どう考えても、可能性ではなく、確定で先程口にした事が原因であろう。間違いなく”ぶっ飛んで”いる。
「ジェイドぉ! 正気に戻ってぇ! オレきのこ食べないから!」
「うわっ、急に大きな声を出して。ふふ、ふふ」
「うっ……うぐぅ……」
 けらけら笑い続ける片割れが恐ろしくて涙が出てきた。すると、優しくジェイドの手が伸ばされて、そっと目元の雫を拭って行った。一瞬、ほんの一瞬だけ、揶揄っていただけだと言われることを夢想した。しかし無慈悲にも告げられた「泣く程嬉しいなんて、僕も嬉しいです」と言う頓珍漢な返事にもう頭を抱えた。
「あ、あ、アズール! アズールー!」
「おや、そうですね。仲間外れは良くありませんね」
 腕を振り払って部屋を飛び出す。背中側から聴こえてくる言葉はもう聞こえない振りをした。

 ◇◇

「アズール、アズール~!」
 嬉しそうに部屋から飛び出していった片割れに笑顔が止まらない。普段は毛嫌いしているキノコを、好奇心であっても「食べてみたい」と言ってくれたのだ。朝もアラームをセットして先に起きてくれた。なんて都合の良い事だろう。
 鞄を拾って、上機嫌で部屋を出た。かちりと鍵を掛けたら、廊下の奥からばたばたと慌ただしいスキップの音が聴こえてきた。楽しそうだと思い顔を上げてそちらを見れば、フロイドがアズールと手を繋いで二人でスキップをしていた。
「二人共、ご機嫌ですね。ふふ」
 楽しそうでなにより。思わずにこにこしながら二人に手を振ると、またフロイドが感涙しながらその手を握ってきた。
「おやおや。今日は甘えたですか?」
「うん! ねー、アズールも一緒に食べたいって! いいよね?」
「ええ、もちろんですよ。でも、ふふっ。たくさん採って来なくてはいけませんね」
 魔法薬学室や植物園に置いてあるキノコのストックを考えてみる。三人で食べるだけなら充分だろう。しかし、どうせならとっておきのものを食べてほしい。となれば、やはり山へ行くのが最適だ。放課後の時間調整を考えていると、もう一方の腕をアズールにも握られた。
「ああ、そういえば挨拶をまだしていませんでしたか。おはようございます、アズール」
「おはようございます、ジェイド。昨日は本当に助かりました。睡眠も八時間以上摂りましたよ」
「本当ですか? それは良かったです。貴方が不摂生で倒れたらつまらないですからね」
「一言余計なんですよ。でも、そうですね。明日からはきちんと睡眠時間も食事も確保するよう心がけます」
 腕を軽く引く様にしながら、アズールも穏やかな笑みを浮かべて頷いている。それを聞いて心底安堵する。休日に、いくらそれが趣味であろうとも、健康を害すような事はしないでほしいと思っていた。何とも都合の良い心境の変化だろう。
「ねーねージェイドー! 今日の授業一緒に出よー!」
「おや、しかし今日の僕達の授業は被らない物ばかりですよ?」
「えー! じゃあオレがジェイドの教室で授業受けるー! 金魚ちゃんもいるし楽しそー!」
「困りましたねえ」
 がくりがくりと肩を揺さぶられながら、時折襲う吐き気を飲み下して、微笑ましく思いながら頭を撫でてやる。その度に嬉しそうに笑って頭が手の平に激突してくる。
「僕とは錬金術で被りますよね?」
「そうでしたね。一緒にペアでも組みますか?」
「当然です! 僕がお前以外の奴と組むわけがないでしょう!」
 偉そうにふんぞり返って言う言葉が子供っぽく、アンバランスで面白い。笑いが零れるのが我慢できなかったが、今日は機嫌が良いのかアズールも笑う。
 それから、笑顔のままでアズールの手がぺたりと頬に触れた。
「ところで、今日のお前が可愛いですね。好きです」
「えっ? ふふ、一体何のご冗談ですか? アズールも可愛いですよ」
「……全く。少しは動じてくれたら可愛げがあるんですがね」
 ぺた、ぺた。今度は額に触れる。首も撫でる。愛玩動物になった気分がくすぐったくて、手首を掴んだ。するとすぐに返されて、離すなりちゃんと手を繋がれた。

 ◇◇

「これは何の冗談ですか……」
 朝っぱらから泣きべそをかいているフロイドに焦って、ボタンも掛け違えたまま飛び出してきたら、明らかに様子の可笑しい彼の片割れが部屋の前に直立していた。異様なまでに笑顔を浮かべ続けて、それも楽しそうに二人を見つめる物だから心底気味が悪い。
「困りましたねえ」
「こっちの台詞だよ」
「そうでしたね。一緒にペアでも組みますか?」
「はい? ……いや、何の話だ!? おい、どうなっているんですかこいつは!」
 急に走り出さないようにと掴んでいた手を咄嗟に離して仰け反ると、何が面白いのかくすくす、けらけらと可笑しそうに笑い始めた。さすがにぞっとしながら助けを求めるべくフロイドの方を向けば、彼もまた泣きながら首を振っている。こいつはこいつで情緒不安定すぎる気がする。
 廊下を通る寮生達もそそくさと横を通り抜けていく。誰かに頼る発想はもとより無いが、本当に自分がどうにかするしかないらしい。一度溜息を吐いてから、仕方なく笑い続けている頬を掴む。
「笑い茸でも食べたんですか。気味が悪いですよ」
「えっ? ふふ、一体何のご冗談ですか? アズーるもかわいいれすよ」
「もう完全に駄目ですね。脳に症状が来てしまった」
 唐突に呂律が回らなくなったジェイドに改めて頭を抱えた。念のために血の集まる額と首にも手を当てて確認すると、くすぐったかったのか手首を掴んで引き剥がされた。それが普段通りの動きに見えて顔が歪むのを自覚する。この状態でまだ理性が残っているとしたら最悪だろうな、と考えたからだ。
 ともかく、熱を伴う症状ではないようだった。異常な様子を見せる幼馴染を、鳥肌の立つ自分の心を無視してどうにか観察しながら、蓄えた最低限の医療知識の中から分析する。噛み合わない会話と焦点の合いにくい目を見るに、恐らくは幻覚作用が真っ先に来る物だ。
「妙な物を拾い食いするからですよ。全く……ほら、行きますよ」
「んえ?」
 もう一度、だらりと腿の横に投げ出された手を握る。振動するみたいに震えている手に思わず舌打ちをした。好奇心で毒を飲んで死ぬ光景を想像して吐き気がした。このまま首輪でも何でも付けておきたい。
「どーすんの?」
「僕の部屋で寝かせます。丁度、契約用に作成していた睡眠薬が残っているので、それで」
「授業は?」
「後でどうにかしますよ。……お前は行きなさい。出席日数くらい計算できますね?」
 げえ、と呻いたままの表情を浮かべるフロイドに、やはりサボる心算であったのだなと再確認して溜息を吐く。別に単位の範囲で好きにするのは構わないが、後々面倒になるくらい好き勝手されるのは困る。それを止められる唯一の人物は、二人の顔をきょろきょろと交互に見て、幸せそうにふわふわ笑っている。異常すぎる状態に背筋に冷たい汗が伝う。
「そうだ。今日はジェイドのシフトが入っているので代わりをお願いします」
「やだ」
「好きな物を用意します」
「じゃあ~、いいよぉ!」
 長期戦を覚悟したところで、待ってましたと言わんばかりの食いつきで手を打たれ、しまったと思ったが遅い。強かににやりと笑ったかと思えば、隠すような満面の笑みでスキップを始めた。止める間もなく、フロイドは談話室へと消えていく。
「はぁ……どうしてこんな事に。……さっさと行きますよ」
「あぇ」
 普段の癖で目を合わせて告げたせいで、舌の回らないジェイドが何かしら呻いたのかと思うところが、唇の動きと表情で言葉を発した事に気が付いた。なぜ、と表情の全てが告げている。
「……お前がおかしいからですよ!」
 廊下の真っ只中である事も寮生が通っている事も知っていたのに、弱味になりそうな事で声を荒げる失態を犯したのはひとえにストレスだった。それを向けられたはずの相手は一瞬きょとんとして、それから、何故だか顔を赤くして俯いてしまった。何故だ。

 ◇◇

 強く手を握られたまま、アズールの部屋までたどり着いた。焦りながら鍵を開ける指先にすら熱が上がりそうだった。こんな朝から、強く求められるなんてらしくない。らしくないが、どこまでも都合が良い事だった。なんせ丁度ジェイドは構われたい気分だった。
 やや強引に部屋へ連れ込まれ、ばたん!と音を立てて扉が閉じられる。心臓が高鳴るのを感じる。いつも金稼ぎ以外に淡泊で、素直に求められた事はただの一度も無かった。正直言って、少し感動していた。
「ジェイド」
「あ、アズール?」
 ゆっくり、優しくベッドまで肩を押される。脚がベッドに躓いたら、見計らったように押し倒された。ふわふわのマットレスとクッションが衝撃を吸収したが、二人分の体重でスプリングは軋んだ。いつも下方に見えるアズールの顔が、今は真上にあった。
 何故だか突然に腹の奥がむずがゆくなって、肩を押し返しながら顔を逸らした。すると、素直に彼は上から退いて、金庫の方に手を伸ばした。
「どうしました?」
 疑問を投げても、微笑むばかりで答えは返らない。不思議に思いながら、寝転んだままでその横顔を眺めていたら、ふと目が合う。優しく細められた空色に見惚れている内に、再び上から見下ろされていた。今度は、その手に一つの瓶を持っている。
「それは何ですか?」
「睡眠薬です。これから、徹夜した分だけ眠ろうと思いまして」
「なるほど。それは良い考えですね」
「当然、お前も一緒に寝てくれるでしょう?」
「ええ、もちろんです」
 肯定するなりアズールはその瓶の中身を口にした。どんどん口に含んでいくが、一向に嚥下しない。しかし黙って見守っていると、空になった瓶がシーツの上に転がった。そちらに気を取られていたら投げ出していた手を握られる。反射的に上げた顔に、アズールの顔が近付いた。
「んう」
 ぺたりといとも簡単に唇は触れて、舌先が柔らかく唇を舐める。意図を察して、混乱するのを隠しながら薄く口を開く。途端に液体が流れ込んできて、驚いて逃げそうになった顔を手で固定される。
「んっ、ん」
 気付けば口腔いっぱいに生温い液体が流入していた。これではアズールの飲む分がない。そう伝えようと呻くと、代わりとばかりに舌が口蓋を優しく舐めた。ぞくぞくとした感触に浮く体をそっと押し戻されたかと思うと、中の液体をかき混ぜるように舌が口腔をそっと荒らした。気持ち良さに頭がぼんやりして、引っ込めていた舌を緩めると、アズールの舌が絡みついた。そのまま吸うように引っ張られて、緩んだ喉に触れた液体を嚥下した。すると蓋が外れたように次々と喉は液体を飲み込んで、温い感触は食堂から胃へと移動していく。ああ全て飲んでしまったと頭の片隅で思いながらも、絡まる気持ち良さを享受してアズールの背中に腕を回した。すると、その背中がびくりと跳ねて、絡まっていた舌ごと口が離れた。
「あ」
 口惜しさに声が漏れる。離れて見えたアズールの顔は赤くなっていた。同じように気持ち良く思っていたなら嬉しい。
「はぁ……気持ち良かったです、ね」
 ああ、やはり都合が良い。
「ジェイド、抱き締めて眠ってもいいですね?」
「ええ、もちろん」
 まるで夢のようだ。
「おやすみなさい。良い夢を」
 まあ、夢なんですが。

 ◇◇

 流れで隣に寝そべったまま目を閉じたジェイドを眺めていたら、暫くして寝息が聞こえた。そして、やっと脱力する。ずっと回らない舌で何か言おうとするジェイドの目が、普段と違って素直に期待を表していて居心地が悪すぎた。きっと言った言葉の半分も理解していないだろう相手と会話もどきをするのも神経がすり減った。言葉を武器にする者として、ジェイドも逆の立場になればこの疲労が分かるだろう。
 まさか金庫の中に解毒薬が混ざっているとは、都合の良い話もあるものだ。空になった瓶を振りながらほっと息を吐く。同時に舌先に残った感触で、再び全身の熱が顔に上ってくるのを感じた。誰もいないのに顔を両手で覆い隠す。しなくていい事をした気もする。いや素直に渡して飲むような状態ではなかったし、むしろ現実的な方法だったに違いない。
「はあ、疲れた……」
 昨晩のほぼ徹夜した疲労がきている。そのままジェイドの隣で横になり、机に乗った山を眺める。昨日は確かジェイドが夜中にこれを持って来て、「少しくらいは寝た方がよろしいかと」などの労りを嫌味たらしく言い残して去っていった。いつ、妙な物を拾い食いするタイミングがあったのか。今更になって疑問を抱く。
 ちらり、と覗く様に隣で眠る幼馴染を盗み見る。行儀よく寝息を立てる姿は普段と変わりない。仕事を渡した時も、一度文句を言ったのみで普段通りに出て行ったはずだ。しかし。
「お前、まさか……わざとか?」
 ぽつりと零した疑問符は寝息の中に溶けていく。沸々と湧き上がってきたどうしようもない感情を誤魔化すべく、転がっていた瓶を手に取ってくるくる回す。そして、ラベルの背面が目前を向いた所でぴたりと止まる。
「……?」
 お堅い文章表現で記された効能と副作用が徹夜に寝惚けた脳味噌を突き刺してくる。それでもどうにか理解した時、途端にざあっと血の気が引いた。

 ◇

 ぱちり。すっきりと目が覚めた。どこか惚けていた頭が覚醒しているのが明確に分かる。何度も瞬きをして、ここがアズールの部屋である事を思い出す。眠る前に交わした言葉を思い出し、自然と頭を傾けて隣を見る。
 しかし、アズールが眠っていたはずの場所にあるのは空間だけだった。向こう側に見える処理済みの書類が崩れそうになっているのが良く見えた。そちらへ手を伸ばしたら当然ながらシーツに落ちる。探すように何度か同じ事を繰り返して、冷めているシーツの温度に気が付いた。
「あ」
 握ったら皺が寄った。それを呆然と見つめてしまう。それはそうだ、思い出した。ここにアズールがいるのは夢の中の話だった。どこまでも自分にとって都合の良い、フロイドとアズールの言動。心地良い温度、時間。夢から覚めれば泡沫として消えていくのは余りにも当たり前だった。
「あう、ぅ」
 それでもこの場所はアズールの部屋である。どこかに部屋の主が呆れて座っているかもしれないと思って、呼びかけようと口を開いて声帯を揺らした。しかし、うまく舌が回らない。麻痺しているようだった。恐らく、あれの副作用だろうと冷静に考える傍ら、眼窩の奥が熱を持つ。疑問を抱くより早く、ぼろり、と雫が目の端から落ちた。
 涙である事は理解できたが、その理由が解せなかった。痛みも無ければ渇きも無い。何が辛い訳でも無い。首を傾げていても、涙は止まってくれない。視界の端で濡れたシーツが目に入り、咄嗟に起き上がって袖で涙を拭った。泣いたなんて知られたら死ぬほど馬鹿にされるに決まっていた。
「ぁう、あ」
 しかし、意志に反して声帯はまた声を零した。とりあえず泣き止むまでは一人でいたいと思っているのにも関わらず、どうしても呼び掛ける声が止まらない。涙と同じだ。
「あう、ぅ……」
 みっともなく稚拙な発声が信じられない気持ちで、どこか遠く自らの声を聞く。ちょっとした意趣返しの気持ちだったのに、どうして自分がこんな事になっているのか分からない。どうやら解毒はされているようで、それなら今の情動は一体なんだろうか。
 ぼろぼろ落ちていく涙をとうとう膝で受け止める。制服が駄目になってしまいそうだ。しゃくり上げている内に酸素が薄くなってきて、また頭がぼうっとし始める。
「あう」
 アズール。
「う、う」
 寂しい。
 膝に目頭を押し付けて擦る。長い脚を押し畳むように腕を絡ませる。漏れ出した嗚咽に、知らない胸の風穴が冷えた。

「ジェイドッ! 起きていますか!?」
 ばんっ! と蹴破ったのではないかと思うような破壊音を立てて、嗚咽以外は静謐だった部屋に音が流入する。驚いて顔を上げたら、焦ったようなアズールが実験着姿で立っていた。ジェイドを見るなり、ただでさえ青い顔をさらに青くして駆け寄ってきて、背中に腕を回し擦った。なんて都合の良い展開だろうか。予定調和にも程がありすぎて笑えて来る。
「遅くなってすみません。目当ての物を譲っていただくのに時間が掛かりました。なんせクルーウェル先生だったもので、補習の補助をさせられて」
 ぺらぺらと長文を話し始めたアズールを、冴えてきた目でじっと観察する。もし未だ脳内麻薬が大量分泌されていたとしても、集中すればこれくらいは出来る。その唇の動きを見て、耳で聞こえる言葉と整合性を取る。そして分かった。どうやら、これは都合の良い夢ではないらしい。
「こちらは精神安定剤です。お前に飲ませた解毒薬の副作用が、その、確認不足でしたが……精神に強く作用するようで」
 錠剤の入った瓶をジェイドの爪先近くに置いて、空いた手で零れ続けている涙を拭ってきた。その手が余りにも、稚魚に対する行いのように思えて、柄にもなく頭に来た。だから、すぐにでも手を引き剥がそうと腕を動かしたが、震えてうまく行かない。
「……ぅ」
 情けなくて泣きそうになって、頬に添えられたまま涙を掬う手にすり寄った。精神に異常を来たしているのなら、しかもアズールのせいであれば、もうどうでもいい。投げやりな思考になる事すらも恐らくは薬の作用で、とにかく今は、残る理性を丸め込む事こそが重要な気がした。

 ◇

 精神安定剤には、往々にして入眠効果も付与されている。つまり、クルーウェルから譲り受けたまともな薬剤にもその効果があったようで、泣きながら薬を飲んだジェイドはことりと眠りに落ちた。その時もずっと縋りつく様に握られていた手が未だに熱い気がしている。有能な補佐役が片付けた書類を確認しながら、油断したら緩みそうな唇を引き結ぶ。
 不意に布擦れの音がして、手にしようとしていた資料を一度山へと戻す。それから、表情を固めて振り向いた。
「おはようございます」
「……ええ、おはようございます」
 目が合うなり、にこやかに告げられた挨拶に不意を突かれた。折角作っていた笑顔が崩れて、しかも間を開けてから返事を返す羽目になった。
「昨日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。うっかり採集したキノコに幻覚作用のある種類が混ざってしまって……」
「それが真実であれば二度と採集はさせませんよ」
「おや、ひどいですね」
 嘘泣きをしようとしたのか、目元に手を遣って、動きを止めた。真顔になって、自分の掌をじっと見つめたかと思うと、視線がゆっくりとシーツの方へと落ちていった。怪訝に思い観察していると、その口が僅かにへの字に曲がっている事に気が付いた。そして思い至る。
「ああ、恥ずかしがらなくても結構ですよ。貴重なものが見られて僕は満足しています」
「……アズールに辱められました。しくしく……」
「人聞きの悪い言い方をするな」
 溜息交じりに席を立つ。今の舌戦は下心が透けた時点でこちらの負けだ。未だ制服姿で縮こまるジェイドの隣に腰掛け直すと、赤く腫れた目がアズールを向く。恨みがましく見るでもなく、恥ずかしそうに逸らすでもなく、ただ観察の目を向けてきていた。
「ジェイド……」
「はい」
「……不満があるなら直接言いなさい。次、こんな事を仕出かしたら首輪をつけますよ」
 呆れた響きになったのは仕方がない。今の視線で確信して、心底呆れたのだから。言えない不満を毒を飲んで示すなんて、どう考えても馬鹿だ。口が回る男なだけに、本当は言えば早いと分かっているのに、面白そうだからとわざとやったに違いない。そう思いながら口にすれば、ジェイドは虚を突かれたようにぱちくりと目を瞬いた。
「だって、この方が早いじゃないですか」
「は?」
「貴方は従業員の希望は都合で無視しますが、おかしくなったら無視できないでしょう?」
 あっけらかんと、それも真面目な顔をして言ってのける幼馴染に、正に開いた口が塞がらない。そして、腹の底から湧いた怒りに任せてマットレスへ拳骨を喰らわせて、スプリングがみしりと嫌な音を鳴らした。
「お前だから治してやったに決まってるでしょう!?」
「はい?」
「他の従業員がぶっ飛んでようが自己責任ですよ! 本っ当に馬鹿ですね!」
「はあ」
「それに、お前が疲れたと言えばフロイドに直接仕事を回しましたよ! 僕を何だと思ってるんだ!」
「いえ、だって貴方、そういう人でしょう」
 頭に血が上っているのは自覚出来ている。しかし、特段止める必要性を感じなかった。多分、言わないとこいつには分からない。
「お前は別だって何度言えば分かるんだ!?」
「はあ……は?」
「僕はジェイドなら泣いて縋られても良いというのに、お前ときたら……この馬鹿!」
 駄目だ、血が上っている時に言う罵倒は程度が低い。他の語彙が出ない。そもそもジェイドを相手に本気で怒る事自体が無いからか。
「……それは何故ですか?」
 ふと、返されたトーンが低く、平常より少しだけ声量が無い事に気が付いて、怒りに茹だっていた脳がじわりと冷める。視覚がまともに戻ってきて、ジェイドがまた真顔になっている事を知ってひやりとした。仕事を押し付けた事に対して不満を呈した相手に一方的に怒鳴りつけて、更に怒らせた可能性が浮かんだ。しかし、結局のところ毒を飲むジェイドが悪い。その事実は揺るがない。いっそ傲慢になってしまって、顎を上げてそんなジェイドを見下ろす。
「お前が死んだら困るからですよ」
「ああ、そうですか――」
「違う。死んだら嫌だからです。だから毒キノコを今後一切口にしないと約束しないなら首輪をつけますよ」
 最初は脅し込みの冗談で言ったが、今回は割と本気だった。恐らくジェイドにも分かるだろう。ジェイドは呆けたように口を開けて、それから目を見開いたまま、ゆっくりと瞬いた。
「なんて都合の良い……」
「すみませんね、都合の良い男で」
 反射的に返した言葉の何が面白かったのか分からないが、ジェイドは吹き出すように笑って、それから「では」と首を差し出してきた。

 

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