Have sweet dreams!

 

 ジリジリ、蝉が鳴いている。灼けるような日差しが、窓を向いた顔に照っている。温い汗が額から頬を伝って、枕替わりにしていた腕に落ちた。未だ慣れない熱に包まれたまま、雲一つない青空をぼんやり見詰めていると、がらりと扉が開かれる音がした。
「居た……探しましたよ」
 踵を鳴らすような高らかな足音が近付いてくるのを聞いて、ジェイドは漸く体を動かした。やけに重たい上半身を緩慢と正して、誰もいない教室を眺める。黒板にはチョークの粉が散るばかりで何も書かれてはいなかった。視線を手元に落としたら、開きっぱなしになった魔法史の教科書が皺を作っていた。
「おはようございます、ジェイド」
「……ええ。おはようございます、アズール」
 日差しに陰が掛かると同時に、嫌味に弾んだ声が掛けられる。笑顔を作りながら顔を上げると、額から汗を垂らすアズールの笑顔が映った。制服を着たその手元には鞄だけが握られている。笑みを緩めてから、改めて彼を見上げると、前髪が珍しく跳ねている事に気が付いた。
「珍しいですね、お前が居眠りなんて」
「そうですね、いつの間にか眠ってしまっていたみたいで……貴方もですか?」
「はは、僕が居眠りをするはずがないでしょう」
「おや、そうですか? ではそちらは朝から、でしょうか?」
 とんとん、と指で自らの前髪を叩いて示す。すると目を見開き、ばっと前髪を隠すように触れた。ジェイドの言葉が真実と分かると、動きを止めて顔をこわばらせていく。額から汗がぽたりと落ちた。その慌てぶりに思わず吹き出すと、眉を吊り上げて机を叩いた。
「そんな事より! 今、何時だと思ってるんですか? ここでふざけている場合じゃありませんよ!」
「ああ、それはすみませんでした」
 怒りや羞恥で震えるアズールから視線をずらし、黒板の上に掲げられた時計を見る。そして、夕方を示す針を確認して、少し瞠目した。こんなに日差しが強いのだから、もっと早い時刻だと思っていた。そんなジェイドを見て、小馬鹿にしたように鼻で笑ったアズールが、机に置いた手で机上に散らばる文房具を筆箱に収めた。
「さっさと支度しなさい」
「かしこまりました」
 丁重に返事をしながら、もう一度手元を見た。自らの筆跡で取られたノートをじっと見つめて、ゆっくりと瞬きした。
 そこには習った覚えの無い年代の歴史が綴られていた。
 知らない王の名を指でなぞる。間違いなく自らの筆跡であり、開かれた教科書は同じ内容を示している。横目でアズールを見遣れば、どこか苛立った様子で机に腰を預けている。暫し逡巡をして、首を振る。残りの文具を片付けて、教科書とノートを閉じ、足元に投げ出してあった鞄に詰め込んだ。そのまま席を立つと、振り向きもせず、アズールは出入口へ向けて歩き出した。ジェイドも黙って、その背中に従った。

 夕刻らしくもなく、眩い程の日差しが廊下を照らしている。不釣り合いなほど静かな校舎を歩きながら、アズールの背中を見詰めてみる。揺らぎの無い歩みはいつも通りで、いつまでも考え事を繰り返す頭もおそらく通常通りだ。いつもと違うのは、その手に握られた鞄だけだ。
「アズール」
「……何ですか?」
 返事が数秒遅れた。もう一つ、いつもと違う事を見つけた。振り返らない事を知りながらも、念を入れて笑顔を作っておく。
「どうして今日は、教室からそのまま、僕を探しに来て下さったのですか?」
 一瞬、足が止まった。しかし誤魔化す様に速度が上がる。鞄を握る手に力が入ったのが見えた。こつこつと二人分の足音が、閑散とした廊下に響く中、ジェイドは黙って揺れる銀髪を眺める。す、と細く息を吸う音がした。
「僕も教室を出るのが遅れたからですよ」
「ああ、居眠りをして?」
「……そうですよ!」
 段々肩が上がるのを面白く思いながら追いかける。後頭部しか見えなくとも、その顔がどんな表情を形作っているのか想像できるのも、また楽しい。くすくす笑い声を零すと、じろりと睨む視線が向いた。
「そもそもお前だって、居眠りしてたじゃないですか。僕が行かなければ、朝までああしていたかもしれませんね。少しは僕に感謝したらどうなんです?」
「ええ、感謝はしていますよ。この後、酷使されるかと思うと気が重いだけで」
「あの程度で音を上げられては困りますね」
 強い日差しが頬を焼く。夏とはかくも辛い季節だったか。太陽を避けるように頬に手を当てる。想像以上に熱くなっている。こんな気温の中にいては、いつか死んでしまいそうだ。干からびた魚を夢想して、少しだけ背筋が冷える。
 アズールが不意に振り向いた。空と同じ色の目に見つめられ、思わず足を止めてしまった。
「お前……大丈夫ですか?」
「え?」
「顔、真っ赤だぞ」
 怪訝に目を眇めたアズールの手が頬に伸びる。驚いて、身を退いた。何故だか触れられてはまずい気がして、そのまま一歩後退る。当然、アズールの怪訝は増して、宙に浮いた彼の手が握りこぶしに変わった。
「なんだよ」
「いえ。平気、……ええ、平気ですので。貴方の手を煩わす事ではありませんよ」
 嘘だった。どこまでも強い日差しが、次第に肌を溶かすような物に感じ始めた。アズールの目は不機嫌に歪んでいく。そしてジェイドが後退った分、距離を詰めた。ジェイドはまた距離を取る。苛立った様子でアズールが手を伸ばした。その指先が腕に触れた。その途端、触れた僅かな隙間から、ばちりと魔力が弾ける気配がした。
「いっ……!?」
 静電気どころではない、瞬間的な閃光に二人してよろめいた。強烈な眩暈にふらついて壁に肩をつく。それがやけに冷たく感じて、そのまま全身を預ける様に崩れ落ちた。ぼやける視界の中で、アズールも膝をついたのが見えた。
 間違いなく、何らかの魔法に掛けられている。尋常では有り得ない体たらくに、そう結論付けた。未だ残る魔力の痺れに腕を擦る。
「何ですか、今のは」
「魔法でしょうね」
「そんな事は分かっている!」
 ふらつきながらも、どうにか立ち上がったアズールに目を向ける。壁に腕を付きながら、確かな足取りでジェイドの方へ近付いてくる。ジェイドはそれを見ながら、少しだけ距離を開けた。
「何で逃げるんですか」
「また今の現象が起きたら嫌じゃないですか」
 そう言うと、アズールも眉を顰めて指先を擦った。それから目線を合わせる様に屈んだ。
「触りませんから、もう下がらない方がいいですよ」
 彼の目線がジェイドの背後に向かう。つられて後ろを見れば、日差しが背中に迫っていた。咄嗟に避けるように前へ進む。目線を前へ戻したら、日差しの中からジェイドを見つめるアズールが近くにあった。
 暫し、身動きを取らずに見つめ合う。そして双方共に動かない事を確認したら、どちらからともなく息を吐いた。
「呪いの類ですね」
 それとほぼ同時に、アズールの口からそんな呟きが転び出る。ジェイドは特に肯定はせず、顎に手を当てて首を傾げた。
「ところでアズール。放課後に至るまでの記憶はございますか?」
「……なぜ、そんな質問を?」
「気が付いたら、教室で目を覚ました……といった記憶ではありませんか?」
「だから……」
「僕は本日の授業内容に覚えがありませんでした。ノートは取られているのに、不思議な話です」
 ぴたりとアズールの動作が固まる。その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。かち、かち、と近くの教室で時計の針が時間を進める音がする。見開いたアズールの小さくなった瞳孔を見返していると、また額から汗が落ちる。
「僕もだ……」
 茫然と呟きながら、アズールの手が鞄を開ける。零れる様に出てきた教科書や散らばった文具は、それこそ尋常では有り得ない片付け方だ。白い指先が捲ったノートは、彼らしい丁寧な文字で薬学の知識が刻まれている。その最後の項目は、ジェイドも見た事の無い調合であった。
 じ、とその調合方法を眺める。見た事も、聞いた事もない薬品名だった。その調合は一見して面白味もない普通の物に見えた。しかし、似た調合を思い出した時、ふと違和感を覚える。クルーウェルの指導を脳裏に浮かべると、はたと気が付いた。こんな調合は有り得ない。
「この調合方法は妙ですね。初歩的なミスが含まれています」
「ジェイドも気付きましたか。そうなんです、こんなレシピは有り得ない……」
 改めて、自らのノートに書かれていた王の名前を思い返す。一度たりとも見聞きした事もなく、王国の名前も、成り立ちも、何一つとして描写されていなかった。恐らく、あの名前も存在しない。
 思案を終えた時、同時に顔を上げたアズールと目が合った。
「この世界自体が、誰かの術中であると考えた方が良さそうですね」
「ええ、僕もそう思います。どなたかのユニーク魔法で間違いないかと」
 同意を示せば、アズールは溜息を吐いて銀色の乱れた前髪をかき上げる。散る汗が陽光に照らされてきらきらと光の粒に変わる。彼のどれもが現実的で、夢中めいたこの世界から乖離して見えた。
 再びチャイムが鳴り響く。もう夢と隠す気はないようだ。窓の方を仰ぎ見たアズールは、よろよろと立ち上がり、その様子を目で追うジェイドを見下ろした。
「いいですか。お前はそこで待ってなさい。僕が様子を見てきます」
「おやおや。何とも慈悲深い事で」
「こんな所でくたばられたら困るんだよ」
 頼もしくも吐き捨てたアズールは、そのまま廊下の奥へと消えていく。その背中を途中まで見送って、ぐらつく脳に目を閉じた。体をまた壁に預ける。それから、深呼吸をして記憶を整理していく。

 今朝は普段通りの時間に起床し、目を覚ましても尚ベッドの上で転がるフロイドを起こした。時間通りに訪れたアズールと合流し、教室の前で別れた。最初の授業は魔法史だった。利害の一致からリドルと共に席に着いて、そして、その後の記憶がぷつりと切れている。気が付けば、一時限目を終えた状態のまま、夕方を迎えていた。
 つまり、魔法の影響を受け始めたのが授業開始直前だという事を示している。恐らくアズールのクラスは一時限目が魔法薬学だったのだろう。あの教室で居眠りをするアズールをうっかり思い浮かべてしまい、笑いを湛える口元に手を当てた。

 かたり。

 真横の扉の向こうから物音がした。咄嗟に口を置いていた手で押さえつけ、呼吸を止めた。自分達に対して恨みを持つ者の魔法だとしたら、何が起こるかは多少なりとも予測が出来る。壁に肩を預けたまま、音を立てないように、ずるずると立ち上がる。物音は小さく、しかし断続的に鳴っている。この場に留まるのは得策ではないのは確かだった。
 足音を立てないよう慎重に踏み出す。一瞬、日差しに躊躇したが、息を止めたままで一気に抜けようとする。
「っ……」
 じり、と焼かれる痛みが増していた。喉から乱した呼吸が一瞬、漏れる。途端に止んだ物音に本能が警鐘を鳴らした。もう一度物音がしたのを聞いたら、ぐらつく頭を押さえて駆け出した。
 ばん、と扉が開く音が背後で聞こえても、振り返る余裕などなかった。

 ◆

 延々と続く長い廊下を、段々と大きくなる足音のままで進む。見慣れた教室を何度も横切る。普段ならとうに曲がり角が見えているはずの廊下だ。いつまでも同じ場所を進み続ける現状は、アズールが夢の中に閉じ込められている事の証左だった。未だにふらつく体が壁にぶつかって止まる。
 深呼吸をしながら体勢を立て直す。ジェイドに触れた指先が段々と熱を持ち始めている。ぽたぽたと汗が落ちて床に広がった。窓から差し込む異常な陽気が、少しずつアズールの体力を削る。
 一度、ジェイドの所へ戻るべきかと判断し、振り返る。進んできた分だけ、長い廊下が続いている。いつだったか部活動中に聞いた、ゲームではループさせるマップなどが存在するらしいという話を思い出す。大抵は進むことに意味はなく、途中で何らかの条件を満たす必要があるという。

 ふと思い立って、近くの教室の扉を開けてみる。当然ながら誰もおらず、静かな普通の教室だ。残念に思いながらも足を踏み入れて、一瞬、呼吸が止まった。
「だっ……誰だ、これ?」
 教室の真ん中で、腫れた顔を上向けて倒れる生徒の姿があった。戸惑いながらも近付いてみる。無関係の人物であるはずはない。マジカルペンを携え、横たわる制服姿の男に近付く。見覚えは無い、と思った。しかし、ふと、その頬に残る火傷痕を視認した時、ぼんやりとした記憶が蘇った。
 数日前、無作法にラウンジへ乗り込んできた男がいた。彼はイソギンチャクにされていた時分の事を恨んでいたらしく、真っ直ぐアズールに攻撃を仕掛けてきた。当然ながら、それはフロイドに阻まれたのだが、その押し合いへし合いの最中、フロイドが勢い余って放った火魔法が頬を掠めていた。この件に関しては、お互いに口外すべきではないとして終わったと思っていたのだが、ここまで思い出したらこの夢の元凶だと確信した。ジェイドに掛けられた呪いの意味も、恐らく意趣返しのようなものだろう。それにしては相手を間違えている気もする。
 ペンを振って、軽く拘束魔法をかける。なぜ、今現在、彼がボロ雑巾のように転がっているのかは未解決だが、好都合なのは確かだ。とりあえず尋問をすべく意識を戻させようと、もう一度ペンを振り上げた時、廊下の方からばたばたと慌ただしい足音が聴こえてきた。
「……あの馬鹿!」
 聞き覚えのあり過ぎる音に教室を飛び出した。音の発生源の方向を見れば、考えていた通りの姿があった。彼はアズールの姿を認めると、壁に手を触れながらも、通常とさして変わらない速度で駆け寄ってくる。
「何してるんだ! 待っていろと言っただろうが!」
「いえ、アズール、少々厄介な事が……」
 焦ってアズールもそちらへ駆け寄り、日差しから逃がそうとしてふらついた腕を思いっきり掴んでしまった。再びばちばちと魔力が弾ける。掴んだ手全体に灼ける様な痛みが広がって、思わず手離す。
「ああもう! 何なんですか、これは」
「アズールの魔力と、僕に掛かった呪いの相性が悪いのではないかと……いえ、それより」
 未だよろめきながら、ジェイドはアズールに触れない距離に身を置き、目線を背後に走らせる。それだけで事態を察する。深海で良く見た、合図だった。

 それ以上の会話は不要と、ジェイドは先に走り出す。アズールもその後を追う。
 暫くして、背後に何者かの気配を感じた。振り向けば、背の高い痩躯のシルエットが見えた。ゆらゆらと不気味に揺れながら、二人の後を追っている。まずい、と思った。既に疲れを訴え始めた肺が痛む。目線を前へ戻すと、日差しを避けて走る背中が傾いた。
 周囲に視線を巡らせる。永遠と同じ廊下が続くだけだ。そして視界に、先程覗いた教室が入った。咄嗟にジェイドの首根っこを掴んだ。うっ、と詰まった呼吸が聞こえたが無視して教室へと引き摺り込んだ。
 二人が教室に入り込むと扉を閉じ、内鍵を掛ける。しかし、乱れた呼吸を直す暇もない。過ぎ去らない足音が止まって、轟音と共に扉が大きく揺れた。
「くそっ」
 簡単な風魔法で教卓を浮かせ、扉の前まで運ぶ。疲労の影響か、魔法を解くタイミングが早く、ドン、と音を立てて扉にぶつかった。
 二人分の荒い呼吸音だけがしばし教室内に響く。その間に気付いて、一見し相手が理性の無い怪物か何かと勘違いしていた事を思い直す。相手は僅かにでも物音に怯むような、自分達と変わらない心を持つ何かだ。
 再び、扉が蹴られる。ガン、ガン、と衝撃を受ける度に教卓がずれる。扉の傍で崩れたままのジェイドに気付き、その腕を引っ張って引き寄せる。
「痛っ!」
「何してるんです。先程の様に魔法で運んで下さればよかったのに」
「うるさいな! こっちだって疲れてるんだよ!」
 一気に広がる痺れを堪えて、自らの背後までジェイドを引っ張り込んだ。勢い余って尻餅を付いたのが見えたが、今はそれどころではない。マジカルペンを構え、風で背後のカーテンを閉じ切ってから、再度扉に向き直る。体内に巡る魔力を測る。十分に戦える。鋭く息を吐いて、腕を真っ直ぐに突き出した。
 扉が少しでも開いたら、魔法を放つ。その心算を持って、安定した呼吸を取り戻す。
「おや」
 後ろから白々しい声色が聴こえると同時に、一際強く扉が蹴られた。ぐらついた教卓が遂に倒れる。そして、ぎりぎりと軋んで、扉が蹴破られた。
 大きく開いたその隙間から、ゆらりと大きなシルエットが覗き込んで、笑い声に似た超音波を発した。躊躇いは捨て去り、そのまま溜め込んだ魔力を一気に吐き出した。
「――貰った!」
 押し寄せた水流が一直線に相手の顔面を目掛けて向かった。避ける暇など与えない速度に、勝ちを確信する。続けて発する為の魔力を込めた所で、ばちん、と何かが弾ける音がした。
「……は?」
 勢いよく水流はアズールの顔の真横を通り過ぎた。微かに頬が切れたのが熱で分かる。何が起きたのかすぐには理解できなかった。その魔法は、たった一人の専売特許であるはずだ。
 咄嗟に後ろを振り向けば、今の一撃が壁に風穴を開けていた。しかし、それよりも、ジェイドの姿はそこに無い事に肝を冷やした。急いで視線を動かすと、教室の中心で転がる男の胸倉をつかんでいるのが見えた。物騒な現場に疑問を抱くと同時に安堵する。
「――……――!」
 きん、と耳を劈くような音がした。咄嗟に耳を押さえながら音のした方を向けば、大男のシルエットがゆらゆらと教室へ入ってくるのが見えた。その顔はジェイドの方を向いている。落としかけていたマジカルペンを持ち直し、魔力を溜める。ふらつくようなその足取りで、確かにジェイドの方へ向かって行く。
 焦燥感の最中でも細く息を吐いて、安定的に魔力を込めていく。その手がジェイドに伸ばされる。
「止まりなさい」
 詠唱と同時に、男の足元から大きな火柱が立つ。直撃しかけた事に驚いたのか、大きく仰け反って後退る。
 直撃するだとか、殺してはいけないだとかは正直考えていなかった。鷹揚と男の前まで歩みを進め、ジェイドとの間に立ってやる。ゆらめいた男は額を押さえながら、アズールを睨みつけた。
「話が通じる相手なら、見逃してやろうと思っていたんですが」
 ふう、と大袈裟に溜息を零し、両手を広げる。それから、男を冷えた眼差しで睨み返す。怯んだ様子を見せた相手にくすりと笑い、ペンをゆっくりと突き付ける。
「僕の物に手を出そうとするのなら、どちらにせよ見逃す気はありませんよ」
 空気が冷えていくのが自分でも分かった。ペンを飾る魔法石が鈍く光を溜める。それを一心に突き付けられている筈の額が、横にずれる。この期に及んでも、まだジェイドの方を見ようとしている。血が上りそうな脳で冷静な思考をどうにか回し、理性で怒りを少しだけ殺した。それから飛び切りの営業スマイルを形成して、その肩に手を置いた。
「残念、あれは非売品です。また来世に出直して来い」
 退こうとする肩をがっちり掴んで、矛先を押し付ける。また超音波で喚くそれに、思いきり魔力を解放し――

「アズール! それ、フロイドです!」
「ぐえっ!?」
 背後から突然腰に巻き付いてきた腕に押され、そこから全身に広がった痺れでばたばたと目の前の男ごと倒れ込む。背中から掛かる体重が軽くなったタイミングで、ばっと体を起こした。
 床で目を回して倒れていたのは、確かにフロイドそのものであった。

 ◆

 はたと目を覚ましたら、そこは見慣れた教室だった。何故か床にぶっ倒れていたフロイドは辺りを見回し、同じく床に突っ伏している男を見つけた。そして、先程までの出来事を思い出す。
 自分でも制御し難い怒りという感情は厄介だった。感情に任せてその男の胸ぐらを掴む。しかし、その顔を見て、やめる。既にそいつの顔はたんこぶだらけで腫れていた。一体誰の仕業だったろうか、と改めて思い返す。

 この男のユニーク魔法に巻き込まれ、妙な夢の世界に閉じ込められたのが発端だった。併発した呪いはどうにか自らのユニーク魔法で弾いたが、それがどこに飛んでいったかは分からない。最初は面白い事が起きたものだと考えていたが、何時まで経っても進まない廊下に苛ついて、そこらじゅうの教室を開けて回った。かくして、件の男を見つけたのだった。
 そこまで思い出せば、この現状の顛末も想像がつく。もう既に復讐は終わっていた。ぱっと手を離して立ち上がり、空気の悪い教室を出た。

 廊下は未だに明るい。まだ夢の中かと一瞬思ったが、遠くを歩く別の生徒達の姿が見えて、現実だと分かった。ぐるりと首を回し、さらに記憶を整理する。
 男をぼこぼこにした後は、夢から出る方法が見つかるかもと別の教室も探して歩いた。そしてひとつの教室を探索していた時、外から微かに笑い声が聞こえた。あれは聞き間違えるはずもなく、兄弟の物だった。驚いて暫し固まった後、息を呑むような音が聞こえて、痛みを堪えているのだと思い慌てて教室の扉を蹴破る様にして出た。走り去るジェイドの背中が視界に入ると、すぐに様子の可笑しさに気が付いたために追いかけた。恐らく最初に弾いた呪いが飛んでいったのはジェイドのところだったのだろう、と今になって思う。
 その後、少し見失っていた隙にアズールも増えていて、自分の方を見た上で教室に立てこもられた時には何のいじめかと思った。

 鞄を持ち直し、隣に位置するジェイドの教室に向かいながら、考える。あのユニーク魔法が掛けられたのは、恐らく三人だったはずだ。一時限目の最中に起きた事を思えば、朝に掛けられて、眠ったタイミングで夢に取り込む、といった内容の魔法だろう。フロイドはともかく、あの二人が居眠りをするのは稀なため、眠気を誘う効果もある筈だ。
 フロイドにはあまり見覚えがない男だったが、二人に聞けば、恐らくイソギンチャクの一人だったりするのだろうとは予想が出来ていた。毎度ながら下らない仕返しばかりだ。
「ジェイドー……」
 教室の扉を開け、声を掛けながら覗き込む。そこには机に突っ伏して眠るジェイドと、その隣で頬杖を付いて舟を漕ぐアズールがいた。
 特に遠慮はせずに教室へ入り、扉を閉める。二人以外には誰もいない。時計を見れば、夢で見た時間より早かった。まだまだラウンジの開店まで余裕がある。それを確認してから二人の方へと歩く。
 ぱち、とぼんやりした眼のアズールと目が合う。途端にぞくりと恐怖が蘇り、思わず笑いを零した。認識阻害の魔法が掛かっていたのであろうアズールは、ジェイドに駆け寄ろうとするフロイドに、本気の殺意を向けていた。確かに乱暴に扉を開けた自分にも非はあるかもしれないが、とフロイドは文句を浮かべつつ、傍に寄る。
 今にも閉じてしまいそうな瞼から、微睡んだ空色が見え隠れする。鋭いナイフに似た眼差しと比較して、何だか面白く思う。ちら、と隣の片割れにも目を向ける。あの時、ジェイドがユニーク魔法の使い手を恐喝しフロイドの正体を聞き出していなければ、夢の中でフロイドはアズールに殺されていただろう。そうなれば、きっとあの男もぼこぼこにされる程度では済まされなかった。

 珍しくも寝息を立てて眠り続ける片割れの隣に腰掛ける。窓際のその席は暖かく、二人が微睡む意味がよく分かった。普段から教室で眠り慣れているフロイドは、すぐジェイドと同じように机に突っ伏した。
 最終的にはどうやって夢から覚めたのか、そこがフロイドには分からない。結局は気絶させられてしまっていたせいだが、大体の想像はつく。ジェイドがあの男からユニーク魔法で聞き出して、二人でそれを実行したまでだ。顔を横に向けると、フロイドの方を向き眠るジェイドの寝顔と、その向こうで二人を微睡みながら見つめるアズールが見える。それが妙に嬉しく感じて笑ってしまう。
 自分を殺そうとしたアズールの言葉を想起する。慈しむようなまなざしからは考えられない、酷い執着を含んだ台詞だった。いつもなら片割れと手を繋ぐなり肩を組むなりして眠るところだが、やめておいた。堪え切れずに笑うフロイドを、少しだけ目覚めた様子のアズールが怪訝そうに見る。その目を見詰め返して、「あは」と笑った。
「早くアズールの物にしなよぉ」
 静かで、柔らかな空間に響いた自らの声は、甘い音色を持って響いた。それすらも可笑しくてにやついていれば、一気に顔を赤くしたアズールが目を見開いて起き上がった。それからフロイドとジェイドを交互に見て、悔し気に唇を噛みしめた。
「応援したげるからさあ」
「うるさい……!」
 頭を抱えて机に突っ伏したのを見守って、フロイドも瞼を下した。

 三人らしからぬ穏やかな空気に包まれている。夢の中とは違う、暖かいだけの日差しに微睡む。ふと身動ぎの音がして、うっすら目を開けると、二人が手を繋いで眠っているのが見えた。ああ、やはりらしくない、と思いながら、フロイドも手を伸ばし、空いた片割れの手を握った。
 かちかちと時を進める針を見上げる。偶には三人揃って遅刻しても、寮生がどうにかするだろう。楽観的な、しかし確信のある考えに頷きながら、再び目を閉じた。今度こそ、良い夢が見られそうだ。

 

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