空転

 

 回る視界と浮遊感。椅子に拘束された体。風を切る感覚。その全てが未知で、あまりに非現実的で、一瞬のうちに奪われた思考回路が落下していく。瞠ったままの目に、残像すら残さない景色が通過していく。地上には色彩に溢れる遊具や人間達の姿があるはずだが、今は何もかも幻想だったかのようだ。
 がたん、と数度目の振動で、地面がすぐそこであるのだと否が応でも知ってしまう。幼い時分ですら発したことのない悲鳴が喉奥で小さく鳴った。白くなった頭の隅で発せられた信号に、僕は咄嗟に、自由な腕を縋るように隣の座席へ伸ばした。

 ◇

 ベンチに腰掛けてペットボトルの水に口を付けながら、よく晴れた空を見上げる。ごうごうと唸りながら空を回遊する列車が視界に入って、未だ頭が回り続ける錯覚をしてしまう。昼下がりのからりとした太陽が、吐き気を助長している気がした。
「…………ド、ジェイド!」
 いつの間にか顰めていた眉間を揉んだところで、真横からの声にようやく気が付いた。反射的に返事してそちらを見れば、これまた顰めっ面の男がいた。
「すみません、やはり気分が悪いようで」
「それは見れば分かります。……本当に大丈夫なんでしょうね?」
 心配するかのようなスタンスで覗き込んでくる彼の目には、まだ僅かながら嘲笑の残滓が残っている。それを無視して頷いたら、安堵の溜息とともに口元が笑った。まずいと咄嗟に替える話題を考えたが、アズールの方が早かった。
「なら良かった。あのジェイドが、突然僕に縋ってきたものですからさすがに驚いてしまいましたよ……一体どんな緊急事態なのかと!」
「その節は大変ご迷惑をおかけしました。あまりの恐怖で動転していて、貴方の青い顔にも気が付けず……補佐役失格ですね」
「違う。僕は少し酔っただけですよ」
「そうですか。では水をどうぞ」
「……どうも」
 しぶしぶ飲みかけのペットボトルを受け取ったアズールに、胸中で勝ちを宣言した。躊躇ってから口を付けるのを横目に見つつ、改めて息をついた。

 遊園地という場所を知ったのは陸に上がってすぐのこと。参考になる、とアズールが僕とフロイドを連れて来たのはラウンジを始めたての頃だったと記憶している。
 今日も視察が主だった目的であるが、フロイドの思い付きでアトラクションに連れ回されているから半ば遊びに来ているようなものだった。件の彼は、先ほどの列車から降りたあと、興が乗ったようですぐに次の列車に乗ってしまった。
 もともと僕は遊園地もアトラクションも、中々に刺激的で面白く気に入っていたのだが、その認識も覆りそうだ。あれだけはいけない。ジェットコースター、と呼称されたアトラクションを遠目に見てそう思う。高所がとかそういう問題ではなく、本能的な恐怖を植え付ける挙動をしていた。思わず腕を掴んだ時のアズールもあまり見ない真っ青な顔で、しかしフロイドはどこか、そういう感覚が抜けている節がある。
 休日の昼らしく満員の園内を見渡す。ふとレストラン前の列が目に入って、本来の目的を思い出した。
「アズール、もう十分に休憩が出来ました。そろそろ目的のドリンクを購入しに行きましょう」
 大分揺れていた頭も落ち着いてきた。ふらつかずに立てそうな事を確認し告げるが、返事が戻らない。怪訝に思いアズールを見ると、先ほどの僕のようにぼんやりとしていた。
「アズール、大丈夫ですか?」
「……あ、ああ。大丈夫です。まだ、酔っているようで」
「では、もう少し休んでいきましょう。それとも僕がドリンクを買って来ましょうか?」
「いや、いい。そこにいて下さい」
 提案をすげなく退けられたその言葉に、不快感より驚きが先んじた。目を丸くして横顔を見る。はっとした様子でこちらを見たアズールは、目が合うとすぐに眉を顰めて、二人の間を仕切るようにペットボトルを置いた。
 背けた耳の赤さに、なんだかピンと来て笑う。汗をかくペットボトルを乗り越えて、緊張に冷えた手を触る。驚いて振り向いた青色を覗き込んで、言う。
「もしやアズール、僕を心配してくれたんですか?」
 途端に小さくなった瞳孔に思わず笑みを浮かべると、怒った表情が僕を睨んだ。
「お前が泣いたら驚くに決まってるだろ!?」
 噛み付かんばかりの勢いで、彼は言った。思考が止まって、そのまま肩で息をする赤い顔を眺める。青くなったり赤くなったり、今日は随分と忙しそうだ。
「……ええと、見間違いでは? たしかに恐怖はありましたが、泣くなんて有り得ませんよ」
「僕だってそう思いますよ。はあ、全く心臓に悪いアトラクションだった……二度と乗るか」
「はあ……それはそうですが」
 つま先で石畳を蹴りながら、疲弊したため息をこぼす。それが揶揄っているようにも思えず、段々と消化され理解出来てきた始めた状況に、折角作っていた笑顔が剥がれるのを感じる。再び顰めっ面になった僕を見つけて、アズールはふっと気が抜けるように笑った。
「まぁ、縋ったのが僕で良かったですよ」
「……どういう意味でしょう?」
 聞き返すと、アズールもまた眉間に皺が寄った。ふいと顔を背け、僅かにずれた眼鏡を直しながら、横目で僕を見る。
「他の客に同じことをしたら捩じ切れていたに違いない、という意味ですよ」
「ふふふ、面白い冗談ですね」
「ははは、それほどでも!」
 普段通りの遣り取りに混じる、ほんの少しの柔らかさに、どこか残っていた恐怖心が掻き消えていく。情と呼ぶべき感情のぬるさに、何となくむず痒い。ペットボトル一個分の距離が丁度良いと思えるくらいの暑さだった。
 彷徨わせていた視線がふとレストランのそばに向く。そこによく目立つ背格好の頭が見えた。何を言うでもなく僕達は腰を上げて、ちらりと一度目を合わせたら、ぬるい空気を誤魔化すように急いで目的地へと足を進めた。

 

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