明日はきっと

 

 浅瀬に裸足のつま先を沈める。人間の体温とは想像以上の熱を放つもので、北から流れ着いた流氷の欠片がぶつかった端から溶け出した。足首にまとわりついた冷水は、触れた場所からぬるくなる。それと同時に、分け与えた分だけの体温を失っていく。
 波間を掻き分けるように、人間のつま先が海を蹴る。冷たくて帰れない海に八つ当たりをしているみたいだった。蹴飛ばした海の小石は、抵抗を受けて静かに、ゆったりと漂う。
「……まだ怒ってるんですか?」
 呼吸の分だけ、白く染まっていく視界の外から声が掛かる。ジェイドはそれを聞こえなかったふりをして、一歩、海の中へ歩みを進める。息を吐きだす気配と、砂を踏む音が続いた。全く笑えない口角を無理に引き上げるような真似もしないで、ただ黙って海を見る。どこまでも青い、光のない今は黒い水の中、冷えて青ざめた自らのつま先があった。
「確かに今回はすっぽかした僕が悪かったですよ。だから明日、埋め合わせをすると言っているんです……おい、聞いているのか?」
 彼方の流氷が足首を目掛けて泳いでくる。それを掬い上げてやると、手のひらの上で急速に融解した。温度は奪われ、空気へと溶けていく。残滓を追いかける目線は、暗く広がった空へ到達して止まる。
 はらはら、白い粉が降っている。夜空を飾る小さな星屑に、それはよく似ている。手を伸ばしても届かない星は、冷たい氷の粒となって、手の中へ落ちてくる。寒さの関係ない身体は、どれだけ温度を奪われようと、また熱を取り戻していく。
 両手を伸ばし、降る雪を集める。肌を打つ度に溶けていくそれは、水となって溜まっていく。それが何だか幻想的で、好ましい。
「おい……ジェイド」
 両手の隙間から水が滲んで海へ還っていく。背後で革靴が砂を蹴ったと分かっても、振り向く気はまだ起きなかった。
 冬と呼ばれる季節は、不思議だった。生物の死を象徴するものであるのに、美しい。降り積もっていく冷たい死を、好意的にみられるのは、平易な陸上であるからだろう。死の遠い、安易で、単調で、平和な世界だからこそ。
 一歩、海へ足を進めた。水が少しだけ巻き上がって、砂が舞っている。雪は水面に落ちて溶ける。とうに冷え切っていた足が痺れている。また一歩、故郷を目指して進んだ足は、巻き上がった海水に絡めとられた。
「あ」
 強い風の気配が背後から波のように襲い来る。陸上でも細長い身体が宙に浮いて、思わず声を零した。軽く足をばたつかせると、纏わりつく風が強くなって、余計に足を取られた。まるで、空で溺れているようだった。
 抵抗を止めて、じっと空を見上げると、視界いっぱいに白い結晶が浮かんだ。ぱきり、崩壊の音を立てながら、氷の結晶は舞い踊っている。青い魔力の気配をその身に纏って、ジェイドの視界を埋め尽くした。
 不意に風が止んで、唐突に開放された体が海へ投げ出される。しかし打ち付けた腿は、海面ではなく硬度のある床を感じ取った。芯まで冷やす温度だった。下を見やれば、先刻まで足を埋めていた水はすっかり凍りついていた。
 目の前に陰が掛かる。下を向いた顔を、今度は空の方向へ向ける。月を背にした空色がジェイドを見下ろしていた。
「話くらい、聞きなさい」
 煌々と照らされた銀色に、白い氷が降っている。あまりにも綺麗で、伸ばしてしまった手は、銀色へとたどり着く前に温い体温に遮られた。掴まれた手は、肌の触れ合った場所から火傷するようだった。熱くて、思わず笑うと、アズールは空色を眇めて白い息を吐いた。
「お前、本当は全然怒ってないだろ」
「ええ。全く」
 握られた指先が融けて、海へ流れてしまいそうだと思った。解いて、指を一本ずつ握り合うように繋ぎなおすと、真上で顰められた白い頬が赤を帯びる。もう一つの彼の手が、ジェイドの頬を摘まんだ。
「だって、どうしても今日が良かったんです」
「……今年でも来年でも、変わりはないでしょう」
「違いますよ、アズール」
 新しい年はあと数時間。訪れるそれを厭わしくも思わない。頬を掴んだ手にも自らの手を重ね合わせて、体温を奪うようにすり寄った。彼の手はどこまでも熱い。でも、氷ではないから溶け出さない。
「貴方と一緒に、見たかったんです」
 雪は降り続いている。魔法で作られた氷の床は融けない。ジェイドは繋いだ手を借りながら静かに立ち上がって、氷の上へ足を付けた。
「ねえ、もう少しだけ付き合ってくれませんか? 貴方のすっぽかしたデートに」
「だから謝ってるんでしょうが……ああ、もう」
 氷の上へと、アズールの手を引く。氷上で向かい合ったら、とても満たされた気分になった。隠していた笑みがついに浮かんでしまう。アズールがひとつ溜息をついた。氷を一歩滑るように進んで、彼の腕がジェイドの腰に回される。
「明日埋め合わせをすると言ったでしょう」
「ふふ……」
 引き寄せられるまま、二人の影が重なり合った。降り注いでいた雪は、最後に一粒、彼らの足元に落ちて、止んだ。

 月が白んだ空に消えていく。流氷の彼方から、かすかに光が見えた。ちらとお互いの方を見やる。
 アズールがペンを一振りした。二人の床がどろりと溶け出して、海の中へその身体が落ちた。ばしゃりと海へ消えて行ったふたつの頭が、鰭を得て再び顔を出した。
「今日のデート、楽しみにしていますね」
「ふん、存分に期待していなさい」
「ええ。もちろん」
 日が昇る。冷涼な朝の向こう側、新しい気配なんて知らない顔をして、いつものように尾鰭を揺らした。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA