一晩眠れば眩暈はすっかり治まって、翌日の授業にも一時限目から参加した。一番大事とまで思う人間を忘れている事は気に掛かるが、だからといって休むほどではない。そう考えていたのだが、リドルと教室で顔を合わせた途端に腕を掴まれた。
「ジェイド、無理をしてはいけないよ。先生も今日は休んでいいと言っていたんだ」
流石に過保護すぎやしないかと驚く。確かに以前から面倒見のいい人物だと思ってはいたが、ここまでではなかった。真面目さ故に、規則や正当性の元で他人に教えたり庇ったりはすれど、今回はそうでない。ましてジェイドに対してだ。不思議を通り越して不審に思い、掴む手をそっと外させる。
「無理だなんて……眩暈はもうありませんよ。たかが二人忘れているだけなのに、何故そこまで気に掛けて下さるのですか?」
「たかが二人? そんな簡単な話なら、ボクだって昨日、わざわざパーティーを中断なんてしなかったさ」
腰に手を当てて背筋を伸ばし、真正面からジェイドを見上げる。
「あのサバナクロー生はね、ボクに注意を受けた事が悔しくて、どうにかボクのユニーク魔法を奪おうと必死であれを作ったんだ。ボクにとって”一番大事な物”だと思ったんだろう。使い方を忘れさせてしまおうとしたんだ」
「ええ、そうだろうと思いました」
「……じゃないとキミはボクを庇ったりしないか。大方、自分には効かないと思って借りを作ろうとしたんだろうけど、残念ながら逆になってしまったようだね」
予鈴の時間が近付くにつれて、教室へ生徒が雪崩れ込んでくる。波に押され、リドルと共に壁際に寄った。席に着く有象無象を眺めていると、頭がぼんやりしていく。眠気に似ていた。脇腹をリドルに小突かれて、霞む思考が戻ってくる。
「ほら。キミ、今何を考えていたんだい?」
「……何も考えていませんでしたが」
「それが変だと思……いや、まあボクはキミを詳しく知らないし、今までもそういう事はあったのかもしれないけど……」
予鈴が鳴った。リドルはジェイドの手を引っ張り、近くの席に着いた。隣に座るなんて珍しい。そう思いながらリドルを見ると、彼は困惑と諦観を混ぜた表情で見返してきた。
「もう仕方が無いし、とりあえず今日はボクと一緒に授業を受けよう。絶対に一人になってはいけないよ」
随分と真剣に言うものだから、笑ってやろうとも思えなかった。そもそもリドルが冗談でもこんな事を言う人物ではないと知っている。ジェイドはただ頷いて、机の上に教科書を広げた。
午前中の授業は宣言通りにリドルとずっとくっついて動いた物だから、周囲から胡乱に見られ続けた。リドルもそれは感じていたようで、かなり鬱陶し気にしていたが、やはり責任感の強さ故か、それでも行動を共にしていた。たまに意識が飛び掛ける度にリドルがジェイドに声を掛けて引き戻し、何か深い部分に沸き起こる衝動を抑え込んでくれる。この時点で、少しずつ魔法薬の実態を把握し始めていた。
食堂へも二人で向かい、扉を開けるとこれまた好奇の目線に晒された。当然だ、あのリドルが普段は近付きたくもないとまで公言する相手と共に食事まで摂ろうと言うのだから。彼は顔を顰めつつ食堂を見回す。そして同じ寮の仲間を認めると、ジェイドの方を振り向いた。
「彼らも一緒でいいかい?」
「ええ、もちろんです」
見えるのは副寮長であるトレイ、それからケイト。どちらもそれなりに見知った人物であり、事情を知れば公言せず理解を示してくれるタイプだ。そう判断して肯定した。
リドルと並んで食事を受け取って、彼の後ろをついて席へ向かう。すると目的地の二人は驚いた顔の後、トレイは眉を下げて笑い、ケイトは面白がった顔でスマホを向けた。
「えー、どうしたの? ジェイドくん連れてくるなんて超珍しー!」
「ちょっと事情があって……」
溜息を吐きながらリドルが二人の正面に座る。その隣に腰掛けると、ケイトにレンズを向けられたのでリドルの方へ頭を傾けて笑顔を作った。シャッター音がすると、すぐに鬱陶し気に頭を押し返される。
「それ、昨日のパーティーを中断した事と関係があるんだな?」
フォークにパスタを巻き付けながら、トレイが言う。水を飲んだリドルも首肯して、それからジェイドに目を遣った。にこっと微笑めば、また気に病んだ様な苦々しい顔をする。
「実は、昨日……」
二人に向けられたリドルの説明を聞きながら、ジェイドも持ってきたハンバーグを切り分けて口に入れる。そういえば朝食を食べていなかったと思い返す。食べるまで忘れていた。少々頭が固いリドルの説明はやや回りくどいと思いつつ、特に触れないままうんうん頷いて、驚いたり悲しそうにしたりとくるくる変わるケイトの顔を面白がって見ていた。彼は再びスマホに視線を向け、少し操作したかと思うと、勢いよくジェイドの眼前に画面を突き出した。急な事で飲み込んだ米が喉に詰まりかける。
「これ見て、ジェイドくん! ほら、いつもの三人!」
近すぎる画面から身を引いて、目を細める。画面上に映し出されているのは写真だった。そこにはジェイドと、その隣にはあの銀髪の男と、ジェイドによく似た姿の男がいた。確かめる様に何度か目を閉じては開いてを繰り返して、それから「はい」と答える。
「本当に僕、彼らと知り合いだったんですね。それに、思ったより仲が良さそうです」
素直な感想を述べた所、ケイトは口を大きく開けて、それから愕然とした様子で肩を落とした。「嘘でしょ」と呟きながらスマホの電源を落としている。はて、彼とは痛みを共有する程交流があっただろうかと考えて、思い当たる。単純に、彼にとっての日常が崩れているのが衝撃だったのだろう。それだけ、二人とは共に過ごしていたという証左になる。一体、あの二人は自分にとってどんな存在だったのかと考えると、宝箱を開ける前に似た心持になった。
「なあ、ジェイド。あの二人と一緒に過ごしてみたらどうだ? 俺達といるよりも、何か思い出せるかもしれないだろ?」
フォークを置いたトレイがジェイドの方を見る。それから、その後ろへ視線が向いた。思わず追いかける様に背後を振り向けば、そこには今しがた写真の中で見たばかりの二人が立っていた。鏡合わせと目が合う。すると、ジェイドによく似た人物は怪訝に眉を寄せて、口を引き結んだまま駆け寄ってくる。
「……ジェイド、おはよ」
目の前に立つと、写真で見た通りにジェイドの肩を掴んで、それから少し無理したようにへらりと笑う。それをジェイドは呆然と見上げていた。これは兄弟の一人だとすぐに分かった。余りにも似ている。表面も、内面も。誰であるのか知らなくても、それだけでジェイドには失くした理由が理解出来た。分析も判断もする必要は無い。ジェイドは笑い返して、肩に乗っかる手に自らの手を重ねた。
「はい、おはようございます。……お名前、教えて頂けますか?」
極力、傷付けないようにと親し気なトーンで声を出す。それが逆効果だったようで、今にも泣き出しそうな目でジェイドを見下ろして、小さく呻きながら俯いた。
「……フロイド」
「フロイド……フロイド、すみません。僕、貴方の事も忘れてしまったみたいです。でも、すぐに思い出しますから、顔を上げて」
軽く頭を撫でると、今度はむすっとした表情が視界に入った。明らかに不機嫌であると呈するそれに笑ってしまう。
「何笑ってんの」
「いえ、ふふ、すみません。いたた」
拗ねる顔が面白くて笑っていると、掴まれたままの肩が少し痛みを訴えた。しかしすぐに額が頭頂に直撃してきたせいで、そちらに意識が移った。かなり痛かったが、咎める気にもならなかった。そもそも自分が原因である事は理解したし、それに、これが彼と共に居た理由だと何となく分かった。視界が全部着崩れた制服で覆われている。労わる様に背中を撫でれば、また呻き声が頭上から降ってきた。
背中を擦っていると、フロイドに隠れた向こう側から歩いてくる足音が聞こえた。革靴の踵が地面を蹴る、忙しない音だった。何処か聞き覚えのあるそれに、はっとして無意識にマジカルペンに指先を掛ける。ぴたりと足音が止まった。フロイドの重心を押し退けて横にずらし、腕の下を潜る。支えを失くしたフロイドは「へ」と声を上げながらジェイドの座っていた椅子に腹から座る羽目になって、別の呻き声をあげる。リドルが喉の奥で笑う声が聞こえた。それを背に、ジェイドは地面についた膝を軽く払いながら立ち上がり、その男と相対した。
きっちりと制服を着て、波打つ銀髪を揺らし、硝子の奥からジェイドを見定める瞳。これが、兄弟と同等に大事な物だと認めるのは、なんだか難しい事のように思えた。マジカルペンに指を引っ掛け、感情を気取られない様に隙の無い笑顔を見せる。すると相手もマジカルペンを手に取った。互いに何も言わない。ただ、何もない目の奥を探り合う。
「ちょ、ちょっと二人共、ここ食堂だから! 魔法なんか使ったらマジ怒られるって~!」
ケイトが席を立ってジェイドの腕を掴んで止める。冷静な頭でその台詞を飲み下して、その正当さを認める。男から目は離さずに一度頷いて、それから魔法石に触れる指を外す。相手も同様に目を離さず、ゆっくりとペンを胸に差した。やはり、その瞳には感情が宿らない。
「アズール、キミも……動揺する気持ちは理解しよう。でも、いかなる理由があろうと魔法での私闘は禁止だ」
リドルの言葉にも彼は何も言わず、黙って眼鏡のブリッジを押し上げた。それから、もう一度ジェイドに目を向ける。
「リドルさん。これ、他の人にもこうなんですか?」
「今のところは、違う。……キミだけだ」
凪いだ青色の双眼から目を離せないでいると、昨日と同じ様な、傷付いた目に変わる。それが妙に苦しくて、息を止めてしまう。
「……アズール。そもそもボクの力不足で起きた事だし、当然出来る限りの協力はするよ。だけど……」
「分かっていますよ。これは僕達の問題ですから、こちらで解決します」
革の踵を鳴らして、アズールと呼ばれたその男が近付いてくる。一歩足を退くと、後ろから肩を握られた。直感的にフロイドであると理解する。そこに再び手を重ねると、ほっと息をつけた。軽く肩を揉む動きが優しくて、水底の警戒心が解けていく。目は逸らせなかったが、冷静になって見れば、アズールという男の目の奥に覗く感情が冷たい物ではない事に気が付けた。アズールは眉間に皺を寄せ、一直線に口を引き結び、不機嫌に踵を鳴らしている。これが大事だと言うのなら、ジェイドの唯一だと言うのなら、そこに在るべき感情がつまらない物である筈がない。
「ご飯、一緒に食べましょうか」
口を開きかけた相手よりも先に言った。彼は暫しぽかんと口を開けて、ただでさえ深い眉間の皺を更に刻み、溜息を吐いた。
午後の授業も終わり、リドルと教室を出た所で、フロイドが壁に凭れて手を振っていた。彼を確認すると「それじゃあ」と言ってリドルが別方向へ向かって行った。ジェイドもそちらへ手を振ってから、フロイドの方へ歩み寄る。
「一緒に帰ろー」
「ええ、いいですよ」
当然のごとく肩に回された腕に、一瞬問いを投げかけるが、寸での所で止める。代わりに腰に腕を回せば、あは、と嬉しそうに笑った。正解だったようだ。そのまま文字通りくっついて寮への道を歩くが、特に周囲からの目は気にならない。以前からこうなのだろう、と考える。
「オレ、今日部活ないからすっげー暇ぁ」
何の部活ですか、とうっかり口に出しそうになった。なるべく当然に当たる質問はするべきではない。妙な間を作りながら相槌を打つ。
「そうなんですね。では、一緒に植物園でも見に行きます?」
「げっ。またキノコだろ。行くわけねーじゃん……あ」
うんざりを体現する顔をしたかと思えば、しまったと口に出さずとも伝わる顔になる。その百面相が面白くて眺めていると、気まずそうに目を逸らされる。
「あー……えーっとぉ、オレ、しいたけ嫌いなんだよね。前にキノコ料理連続で出されて飽きたし……だから嫌って言うかぁ」
肩からだらりと投げ出された腕が宙を掻いた。これが常の彼らしくないであろう事はすぐに察される。伸びる腕を軽く叩いて顔を上げさせると、そのしゅんとした目を覗き込んだ。それから、恐らく自分らしい笑顔を浮かべて見せる。
「分かってますよ」
「は? ……はぁ~!? 何ソレ、最悪なんだけど! も~心配して損したぁ!」
巻き付いていた腕が外れた。揶揄われた、と思いっきり顰め面になったフロイドは、ジェイドを振り切る速度で先へ進んでいく。その背中をくすくす笑いながら追い掛ける。少し寂しくなった首を擦りながら、遠くなる背中に、ふと頭がぼやける感覚を知る。
気付けば周囲は有象無象が蠢いているだけの空間に成り下がっている。思わず立ち止まって、振り向く。誰もいなかった。視界に入るに値する物が、何もない。何かが肩にぶつかる。そちらを見ても、何もなかった。頭を下げる木偶の坊がそこに在るだけ。段々と思考がぼやけていく。
ああ、つまらない。
額が硝子に触れていた。その向こうに見える景色は美しい。抜ける様な青空とはこれを指すのだろう。一面に広がる緑色は、深海には無かった物の一つだ。これを見る為にわざわざ二本足を生やして、土を踏んだのだ。そこまでの価値が、この景色には在るはずだった。そうでなければ、そこに目的が無ければ、ジェイドが陸へ上がるなんて”有り得ない”。陸に憧れる人魚でもあるまいに。
そう思った時には、頬に風が触れていた。これも深海には無かった。海面から顔を出すなんて、滅多になかった事だ。心地良いと感じて、窓枠に足を掛ける。何だか後ろが煩くなってきた。こんな場所に価値などない。自分が我慢をする必要なんてどこにも無い。自分以上に大切な物など、ここには無い。
壁に掛けていた手を離した。そこには未練の一つも無かった筈なのに、一瞬、どこかで躊躇した。その瞬間に、先程見送った兄弟の背中を思い出した。
「――ふざけるなよ、この馬鹿!!」
宙に浮いた手が強く引かれる。指の骨が砕けるかと思う程の握力が、空を切ったジェイドの体を背中側へと引き戻した。受け身など取るべくもなく、ただ落下した。背中を床へ強かに打ち付けて呻けば、手首を地面に叩き付けられる。痛みに顔を顰めれば、もう一方の腕も潰される程の力で下へ押し付けられた。ぽたぽた雫も落ちてきて、目を開けるとアズールが居た。真っ青な顔で、汗を垂らしながら、怒りの形相でジェイドを見下ろしている。
冷静になった頭が、現状を受け入れる。今、僕は何をしようとしたんだ。
「一人になるなと言われていただろう! フロイドはどうした!?」
あまりの激情を、ジェイドにとっては知らない相手に向けられて、理解に時間が掛かり黙り込む。すると腕を絞め付けられ、本当に腕が折れそうになった。慌てて口を開く。
「フロイドは先に寮へ戻っている筈です」
「何で別れたんだ!?」
「僕が揶揄って、うっかり怒らせてしまいました」
ジェイドの答えを聞き、目を眇めたアズールは歯軋りをした。彼は未だ手を離さないままで、思考する素振りを見せる。
「あいつになんて言った?」
「植物園へ行きませんか、と誘って」
「違う。分かってるだろう」
「キノコが嫌いだと仰るので、知っていますよと言いました」
「……お前、フロイドの事も信用出来ていなかったのか?」
愕然とした様子でアズールの手から力が抜ける。目が落っこちてしまいそうなほどに見開いて、ただ見上げる事しか出来ないジェイドを見詰めている。何がそんなに彼を驚かせたのか分からなくて、少し思考を巡らせてみる。
「そんなに僕とフロイドは仲が良かったんですね」
「仲が良いなんて物じゃ……ああ、くそっ!」
思い付くまま言えば、険しい表情が歪んで、感情が読み取れなくなる。ジェイドが口を開く度に彼を傷付けていると自覚して、黙った。
ふと、掴まれていた腕が解放される。隙を逃さず自分の体へ腕を引き寄せると、アズールが自嘲気味に笑う。何だかそれこそ痛ましくて、腕を確認するついでに目を逸らした。腕には指の跡がくっきり残っている。とんでもない握力だ、と背筋が冷える。この男は人間ではないかもしれない。
跡を擦りながら見上げると、彼は少し冷静さを取り戻した様子だった。最初に見た時よりも固いが、笑顔を作ってジェイドを見下ろす。
「寮へ戻りましょう。そこで僕達の事を教えてあげますよ」
「ああ、それは助かります。ではお願いします、アズールさん」
立ち上がって手を差し伸べてきたため、ご機嫌取りも兼ねて名前を呼んでみた。その一瞬で全てが固まって、彼は瞳孔を開き、返事しかけて開いた唇が震え始めた。今まで見た中で一番動揺らしい表情を見せている。何がいけなかったのか思い返しても分からなかったが、ジェイドもその手を取るのは憚られ、自分で立ち上がった。
「……アズールくん?」
人をあだ名で呼ばないリドルが呼んでいたのだから、名前が”アズール”であるのは間違いない。それなら敬称の問題か、と思い直して呼んでみる。しかし余計に表情が歪んだ事で間違えたらしいと悟る。
「アズール様……?」
「もういい、黙れ」
「アズール?」
呼び捨てにした途端に肩が跳ねた。僅かにでも目の色が変わり、口元がぴたりと閉じたのを見て、正解を確信する。なるほど敬称を無くして呼ぶほどの仲でなければ、兄弟と同列に並べるなんて有り得ないかと分析しつつ、俯く顔を覗き込んでみた。
「アズール、お願いしますね」
「うるさい」
顔面に手を押し付けられて退けさせられる。痛い、と言いつつ背を伸ばせば、また不機嫌な顔をした。しかし、それは何処か、本当の不機嫌では無いように思えた。
海に沈むオクタヴィネル寮へと足を踏み入れて、息をつく。慣れない事ばかり起きていた気がするが、特に大事な物など無い見慣れた場所は安心する。予定が狂わされるのは面白くもある――恐らくあの兄弟を選んだ理由もそこにあるだろうと踏んでいる――が、これは少々度が過ぎていた。
ジェイドの前を歩く、堂々とした背中を見ながら思う。この男が何者であるのか、想像を巡らせるのは楽しい。これから彼の口から語られる真相もきっと面白い物だ。これまで積み重ねてきた”大事”になるまでの過程を、改めて知れるだなんて面白いと称する他ない。そんな期待の最中に、聞くべきではないと言う思考があった。もし、それが本当に最高の宝物だと知って、二度と取り返せない物だとしたら。もし、宝物だと感じていた物が、思い出を抜きにした途端にゴミと化したら。
「ジェイド」
視界に爪先が映ったと思うと、初めて彼に名前が呼ばれる。驚いて彼の方を見る。凪いだ海を映す瞳が真っ直ぐにジェイドを貫いていた。その目は、一片の迷いもなくジェイドを射抜く。本当に彼は自分の知り合いなのだなと改めて感じた。
「はい、アズール」
「名前は呼ばなくていいですよ。思い出したら、どうせ飽きる程呼ばれる事になるので」
手に持っていた杖を立てかけて、談話室のソファに座る。それから向かい側を指して、どうぞと勧めた。
「ここでいいのですか? 僕は貴方の部屋などでも構いませんよ」
「僕は他人を部屋に入れるのが好きではないんです。分かるでしょう?」
「……ああ、はい。では」
遠慮なく対面のソファに座る。周囲に人の気配はあまり無かった。ラウンジの方へいるのかもしれない。今日は幸いシフトではないが、目の前の男はどうだろうか。訊いてしまおうかと一瞬考えたが、また傷つけてしまいそうで言えなかった。
「ジェイド、紅茶を……」
「え?」
「あ、……いえ。すみません。話を始めましょうか」
一つ咳払いをして、それから彼はジェイドに向き直した。言いかけた言葉への追究はせず、ジェイドも姿勢を正した。彼はテーブルに手を置き、指先で表面を叩く。何かの癖だろうか。手元に視線を向ける。
「……まず、フロイドの事です。あなたも分かっているでしょうけど、彼はあなたの双子の兄弟です」
「双子?」
アズールの方へ目線を動かす。彼は少し目を丸くして、それから何度か頷き、目を閉じる。
「ええ、そうです。あなたが彼と双子になる事を選んだ。なるほど、”一等大事な物”である事でしょう」
兄弟である事には察しがついていたし、共に居る事を選んだのは理由も含めて理解できる。しかし、双子と言われて首を傾げる。ジェイドには大勢の兄弟がいる筈だった。そうでなければ、退屈せずに今まで生きて来れた事の説明が付かない。たった一人を選んで、それで飽きずに来られるなんて”有り得ない”。
しかし、そう頭では思いながら、ジェイドには理屈ではない感情がそれを事実と肯定している気がした。
「ええ、確かに。きっとフロイドは特別なんでしょうね。飽きずに傍に居られるなんて」
幼い頃は、ずっと退屈だったと記憶している。難しい事など何も無くて、新しい知識など何も無くて。稚魚らしく稚拙な事ばかり提案する兄弟に囲まれて、つまらなかった。それが違ったのだとしたら、これほど嬉しい事実はない。魔法薬は記憶に作用するとリドルが説明したように、過去の記憶すらも書き換えているのだとすれば、彼の語る話は現実である可能性が高い。
思わずにこにこしながら頷くと、アズールが難しい顔で首を傾けた。
「僕の話を信用するんですか? あなたにとって、警戒に値する人物なんでしょう?」
「怒らないで。僕だって、警戒したくてしているわけじゃないんですよ。これは本能的な物なので、自分でも制御出来なくて」
「知っています。それくらい」
指先がまた机を叩いた。これは苛立ちやらの感情を散らすための癖だろう。
「それに、貴方ではなくても、今の話は信じましたよ。色々と腑に落ちましたから」
「……そうですか」
言えば、彼は眉間に皺を刻む。いつも険しい顔をしていると思って笑うと睨まれたので、口元を手で隠した。
暫し黙り込んだまま、彼は膝の上で指を組み目線を落としていた。ジェイドはわくわくしながら彼の言葉を待っていた。つまらなかった筈の過去が塗り替えられて、とても気分が良かった。彼はどんな風に世界を変えてくれるのだろう。恐らく隠せていないであろう期待感を滲ませながら、笑顔でアズールを見つめる。
「次に……僕の事ですが」
「はい」
身を乗り出して、思わず被せるように返事をする。アズールが更に目線を落とした。固く目が閉じられている。なかなか続かない言葉に痺れを切らして、ジェイドが先に口を開いた。
「貴方は僕の”何”なのですか?」
俯く彼の体がぴくりと揺れる。表情があまり見えない。ただ楽しみにしているだけのジェイドに、何を緊張する事があるのだろうかと首を傾げる。彼の指が制服の裾を握りしめた。皺になってしまいそうだ。彼は首を振る。
「僕は……オクタヴィネル寮の寮長で、あなたは副寮長です」
「……え? ああ……はい?」
それはなんとなく覚えていた。彼を忘れる様に記憶が弄られた結果だろうが、ジェイド自身は寮長とは関わりが無かったと記憶していた。初めて会った時には思い出せなかったが、食事を共にした辺りで「そういえば」と思い出していた。それを持ち出された事が、妙に不思議に思えて疑問符混じりに相槌を打つ。
「……あなたは僕の、優秀な補佐役です」
「ええ、そうでしょうね」
仲が良かったのだし、と揶揄う気持ちで言えば、言葉が止まる。呆れたか、怒ったかと期待しながら見詰めていると、静かに項垂れた。額に両手を触れて、ひどく落ち込んだ様子で黙り込んだ。思わぬ反応に少し焦って「アズール?」と名前を呼べば、その頭が更に沈み込んだ。
「そんなもんですよ。僕なんていてもいなくても、お前の世界は変わらないんだ」
「まさか。それこそ有り得ません。僕が、そんなつまらない人を大事に思うなんて」
「ああそうですね。僕はつまらない人間ですよ。あなたが大事だと勘違いしていたのは、単なる情だ」
机に拳を叩き付け、吐き捨てる様に告げる。ジェイドはただそれを見つめるしかない。何も掛ける言葉を持ち合わせていないのだから、口を開く事もしなかった。黙って、白くなる拳を引き寄せ立ち上がる姿を目で追い掛ける。
「良かったじゃないですか。無意味な情なんかから解放されて。これからは自由に生きればいいんですよ」
「……あの、アズール? 貴方は……僕の、」
「”何”でもないんですよ。……何でも」
ジェイドには、何も言えなかった。反論も肯定も、材料を持たないジェイドには出来ず、ただそれを鵜呑みにするしかない。去っていく背中に声を掛ける事すらも、今の彼には難しかった。
「アズールって、僕の”何”なんですか?」
自室に戻るなり、当たり前の様にジェイドのベッドを占領していた兄弟に問いかける。フロイドは鏡映しのようで違う顔をぽかんと間抜けにして、枕に頬を押し付けた。
「何って、なに? アズールはアズールだし……えー、アズールには聞いたあ?」
「何でもない、と言われてしまいました。そんなはずはないのですが……」
隣のぐちゃぐちゃのベッドに座る気も起きず、寝そべるフロイドの傍に腰掛ける。すると奥へ転がって空間を空けてくれる。もう機嫌は直っているらしいが、ジェイドの返答を聞くと面倒そうにした。
「オレだって知らねーよ、ジェイドじゃないし」
「そうですよね。自分で思い出すしかなさそうです」
「つーか……ジェイドさあ、放課後のあれ、嘘だったでしょ」
頭の上に載せていた雑誌を畳み、枕の上に投げる。怠そうに体を起こしながら、フロイドはじいっとジェイドの目を覗き込んだ。悟らせない様に笑顔を作ると、フロイドもアズールと似た様な顔をした。
「たぶんアズールにオレの事も聞いたと思うけどぉ……ジェイドが死んだら、もう一人死ぬって覚えといてね」
フロイドはにこ、とジェイドと似た笑顔を作った。悲し気に歪むそれは、とても、とても痛ましくて、思わず心臓の辺りを掴んだ。
「すみませんでした」
「いーよ。絶対に許さねーけど、今は仕方ねーもんな」
ぐらついた体が肩に圧し掛かってきた。それを支えると、額がずるずると滑って膝まで落ちてくる。退かすべきか思考しているうちに、その肩が何度も跳ねるのに気付いて、恐恐と背中を撫でた。暫くして、小さく殺した嗚咽が聞こえ始める。ジェイドも唇を噛んで、知らなくとも伝わってくる悲痛を受け止めた。
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