翌日もまたリドルと並んで授業を受けていた。意識的にリドルの方を向いたり話しかけたりしたお陰で、ぼんやりする事は少なかった。リドルも相変わらずそれに付き合って、昼になれば食堂へ連れ立った。
昨日の妙な寝相のせいで膝が痛み、手で擦る。
「大丈夫かい?」
「ああ、はい。少し寝違えてしまって」
「……心配して損したよ」
言葉通りの呆れた表情を見せるリドルに笑う。すると眉を吊り上げて軽く背中を叩かれるので、痛みを訴えながら背筋を伸ばした。そこで、正面から歩いてくるアズールの姿を認める。リドルに促され、そちらへ駆け寄った。
「アズール、おはようございます」
声を掛けると、少し視線を俯かせていた彼は弾かれる様に顔を上げた。その目がジェイドを捉えると、眉を顰めて顔を逸らした。
「……だから……僕の所には来なくていいんですよ」
「でも、僕は貴方の事が知りたいんです」
歩き出した彼の隣に並び立って、少し背中を曲げて微笑みかける。これは本心だった。何もないような人を、唯一無二の兄弟と同列に想える筈がないと確信していた。彼が何と言おうと、今日は傍にいるつもりだった。彼は目線を真正面だけに向け、早足で食堂へ進む。ジェイドはその背中を追う。素早く食事を取って席に着いた彼の隣に座ると、彼は横目でジェイドを睨んだ。
「何でもないって言ってるでしょう。はぁ……ここで待っててやるから、早く自分の分を取ってこい」
「でも、僕、お腹が空いていないので」
「……は?」
まっさらな机の上に手を置いて、困り顔を作って言う。昔から、ジェイドは余りお腹が空かないたちだった。運動には興味が無いし、特別頭を酷使する事態も起こり得ない。アズールは何度か目を擦って、机とジェイドを見比べている。
「なにか?」
首を傾げたら、思いっきり目を見開いた。胡乱げにジェイドを見て、それから自分の手元に目を落とし、フォークでポテトを一つ突き刺した。それを、ジェイドの口元目掛けて突き出した。
「んぐ」
「いいから食べろ」
要らないと首を振ったら、更に口へ押し付けられる。熱さに耐えかねて口を開くや否やポテトが突っ込まれて噎せそうになる。何とか頬張ると、フォークが抜けて行った。どうにか咀嚼して飲み下したと思えば、今度はブロッコリーが突っ込まれる。止める間もなく、次は、次はと一口が差し出された。
「もう要りません」
やっと口の前に手を置いて拒否を示すと、アズールは一拍置いて、片手でジェイドの手首をまとめて掴んだ。驚いている内に次は唐揚げが押し付けられた。この人は一体何なんだ。余計に分からなくなる。唐揚げを咀嚼しながら、掴まれた両手に視線を遣った。何だか手慣れている。いつもこうやってジェイドを御していたのだろうか。彼のフォークが再びポテトを突き刺すのを見て、口を開ける。すると振り向いたアズールが暫し動作を止めて、ぶ、と吹き出した。
「え、何ですか?」
「なっ、んでも、ないですよ。ふ、ははっ」
また、何でもない。そんな筈がないのに。肩を震わせる彼を見て眉を寄せれば、更に笑みが深まった。訳が分からない相手に笑われているというのに、あまり嫌な気持ちにはならなかった。
「なーに、楽しそうじゃん」
そうしていると、向かい側にフロイドが陣取った。二人を見ながら問いかけるが、彼自身楽しげな表情を見るに、答えは必要なさそうだ。
その手元にある、やたらと量の多い二皿に目を遣ると、フロイドが笑って片方をジェイドの目の前に差し出した。
「これ、ジェイドの分ね。こっちがきのこのヤツ」
「あ、でも……もう要らないと言いますか……」
ちら、とアズールの方へ視線を遣る。漸く笑いの発作が収まったようで、目尻に涙を浮かべつつも顔を上げて、改めてポテトを差し出してきた。苦々しい気持ちを表情で示すと、今度はフロイドが笑い始めた。
「……何なんですか? もう」
どこからか湧き上がる感情を誤魔化す様にぼやくと、その口に熱いポテトが滑り込んで、噎せた。
放課後になると、教室にフロイドが顔を出した。
「ジェイドー、かーえろー」
「はい。少々お待ちください」
荷物をまとめて、リドルに断ってそちらへ駆け寄る。少しだけ機嫌が良さそうなフロイドはにこにこしながらそれを見ている。
「部活はないんですか?」
「休んだぁ。気分じゃねーから」
「おやおや……」
昨日と同じく、隣に並んで歩く。ふと気が付いたが、どうやらフロイドの方が一センチかそれ未満か、僅かに背が高いらしい。誤差の範囲だが、それが何だか面白い。
「この前、バスケやってる時にさぁ、オレ飽きちゃってぇ。そしたらウミヘビくんがさぁ」
脈絡もなく始まった話で、フロイドの部活がバスケットボール部だと分かった。なんだかそれっぽいと思いながら頷いていると、また脈絡なく「あ」と声を上げた。
「そういえば今日って、オレらシフトじゃん! 店開けろって言われてたけど、サボったらアズール怒るかなぁ」
「怒るんじゃないですか? あの人、結構怒りっぽいですよね」
「あ、ジェイドも分かる? すっごいカリカリしてんの。タコなのに」
「……タコ?」
さり気無く、笑いの狭間に差し出された単語に足を止めた。フロイドが不思議そうに振り返って、首を傾げた。
「それも聞いてねーの? アズール、タコなんだよ。タコの人魚」
タコの人魚。それは、ジェイドにとっては天啓のような事実だった。今までの人生で、タコの人魚など見た事も無ければ、当然会った事も無いと思っていた。海の魔女と同じタコの人魚だなんて、一度会ったら忘れる筈もない。
これまで、彼には面白いと言える点はあれど、フロイド同様に入れ込む程の要素は見受けられなかった。それが、今示されたと思った。
「なるほど。それは面白いですね。僕達が興味を持つわけだ」
「……一応言っとくけど、アズールとはエレメンタリースクールからずっと一緒だったらしいよ。オレはミドルスクール入る直前くらいに認識したけどね」
それだけ言って、ふっと顔を前に向けて歩き出した。ジェイドはその背中を追う。これは答えでは無かったらしい。では、如何にして二人は彼に興味を抱いたのか。まだ見いだせない答えに、期待感は高まるばかりだった。
寮に戻るや否や、件の人魚が仁王立ちして二人を迎えた。
「ジェイド! フロイド! 今日はお前達の担当だろう!」
「ごめんってぇ~」
「申し訳ありません」
二人して適当に謝りながら、早足でラウンジへ向かわされる。背後から視線の圧力を感じながら廊下を歩くと、陸の『囚人』の気分が味わえる。そう考えて少し笑うと、咳払いに咎められた。
急いでいつも通りに店を開けて、従業員たちを配置すれば、どうにか営業時間に間に合わせる事が出来た。今日のフロイドはホール担当らしく、キッチン担当のジェイドとは別々だ。去り際にキッチンを覗いて何か探してから、にこっと笑っていた。その直後に肩を叩かれたので、少し吃驚した。振り向くとラギーが笑っていた。
「どうしたんスか、ジェイドくん。そんなびくびくしちゃって。らしくないッスよ?」
「これはお見苦しい所を……実は、少し記憶を失くしてしまっているようで。その影響かもしれません」
器用にもボウルをかき混ぜながら話を続けている。彼の料理技術には、想像とのギャップもあり、毎度ながら感心してしまう。
「ま、知ってるんスけどね。アズールくんから言われたんで。今日はジェイドくんから目を離すなって」
混ぜ終えたらしいボウルを台に置き、グラスを手に取る。手近な冷蔵庫からサイダーを取り出して、上手に注いでいく。透明な水がグラスの中でぱちぱちと泡を浮かせる様が、いつか見た水底から見上げる空のようだ。
「ご迷惑をお掛けします」
「いやいや、そんな事ないッス。むしろバイト代も弾んでもらえるんでラッキーって感じッス!」
「ああ、なるほど」
弾ける泡の上に雲の様なクリームを乗せたら、カウンターにどんと置いた。すぐさま別のバイトによって盆に乗せられて消えていく。二つ目のオーダーが叫ばれると、ジェイドも手を動かし始めた。
ぱち、ぱち、と泡が弾ける。柔らかいクリームがそれを潰していく。綺麗なアラザンを撒いたら、大衆文化の出来上がり。それを無心で続けていると、その内に思考と同時に手が止まった。何だか疲れてしまった。全てが無意味な気がして、これ以上続ける気力が起きなかった。ホールで忙しなく動く有象無象とフロイドが見える。一体、彼らは何のために動くのか。ラギーには、明確な金という目的がある。ジェイドにとっては、それは全く重要では無かった。これを始めたのは、単なる好奇心だった筈だ。それ以外に、理由が思いつかない。
何かが背中に当たって、うるさく耳に届いてくる。何もかもが下らない。嘆息して、ジェイドは踵を返した。出入り口に集る邪魔な集団を蹴散らして、窮屈な空間を抜け出す。どうでもいい物がぶつかっては喚いている。全て、どうでもいい。
ラウンジを抜けた所で、腕を掴まれた。振り向けばラギーがいた。彼は何か言いながら、首を振っている。残念ながら、それが何かは理解する気が起きなかった。なるべく優しく微笑んで、その手を振り払った。よろけたラギーを後目に、誰もいない場所を目指して歩みを進める。
少しずつ静かになってくる。廊下の奥は閑静だった。寮長室まで行けば、もう誰も来ない。寮長室の扉に背を預けて、ずるりと床に尻を付けた。ひどく冷たい。それが心地良かった。このまま本当に静かになれたら、どんなに良いだろう。何とも下らない世界の一部になっているものだ。魚の泳ぐ天井を見つめる。もういっそ海へ還ろう。冷たくて暗い海の底へ、あの兄弟も誘って。いい考えが浮かんだと思って笑った。
すると、目の前に影が射した。視線を天井から下へずらしたら、またアズールが立っていた。息を切らして汗を垂らす、彼の姿だ。それを認めた途端に、今しがた考えていた事を忘れてしまった。
「なに、してるんですか? 僕の部屋の前で、笑って」
一歩踏み出してふらつき、彼は壁に手を付いた。そのままジェイドに視線を合わせる様に腰を折る。目が合うと、そこに安堵が滲むのが分かった。ジェイドは思わずそこへ手を伸ばして、頬に触れてみた。その目が開かれ、怪訝に細まる。
「何ですか」
ジェイドを映す青い瞳は、どこまでも凪いでいた筈だった。今は、何だか揺らいでいる。良く見れば、最初からそうだったのかもしれない。理解を示す気が起きなかっただけで、この”大事な物”は、ずっとジェイドのために揺れていたのだろうか。胸にずきりと痛みが走って、思考が鈍る。ぐらついて、そのまま彼の方へと重心が倒れた。すぐに膝を付いた彼が身体を受け止め支える。
「ジェイド?」
背中に触れた手が遠慮がちに擦る。吐きそうなわけじゃないですよ、と言いたかったが喉が詰まって声にならなかった。言葉の代わりに彼の裾を掴む。また世界がぐらぐら回った。回転する視界の中で、必死に名前を呼ぶアズールの顔だけが明確に映っていた。
真っ白い空間に、ぽつりと一人で立っていた。そこには何も無く、どこまでも無が広がっていた。最初は思考に耽って見たり、走り回って見たりと遊んでいても、段々と空間の底が知れると、することがなくなっていく。飽いて地面に倒れ込めば、気力は無くなっていった。
つまらない。そう呟くと、目の前に鏡が現れた。起き上がって近付いてみると、鏡の中に映る自分は突拍子もない事ばかりを言った。急に何処かへ行ってしまったり、かと思えば飽きたと言って眠ったり。それは見ているだけで飽きなかった。もう背後に視線など向けず、一心に鏡の中を見つめ続ける。面白いと思って正直に告げれば、鏡が笑う。面白いだろうと思った事を提言すれば、鏡が驚いて、それから笑う。楽しかった。鏡の向こうが遊び疲れて目を閉じたら、同じ様に目を閉じた。途端に、全てがどうでも良くなった。自分が何がしたいのか、分からなかった。目的もなく、ただ鏡を見つめる時間は、楽しいけれど無意味だと分かっていた。気が付いたら、どうしようもなくなった。
目を見開いて白い空間をただ見つめて、消えたい、と呟いた。その声は反響して、暫く経ってから、天井が揺らいだ。驚いて動けずに見詰めていると、白色だと思っていた天井が海に変わった。そこから、八本の足が伸びてきて、思わずそこへ手を伸ばした。
伸ばした手は強く掴まれる。その感触は思った物ではなかった。目を開けると、魚の泳ぐ天井があった。少し呆然としていると、視界に銀色が割り込んでくる。視線を天井からそれに移す。アズールが覗き込んできていた。手を握っているのも、彼の手だった。
「体調は?」
短く訊いてくる声が、冷静なようでも優しさを含んでいる事に気が付けるようになった。握られた手を握り返しながら、寮服のままのアズールを見上げて微笑む。
「平気ですよ。少々、夢を見ていただけなので」
「そうですか、夢を……」
ベッドの上をずり下がって、空間をとる。距離を取ったのではなく、兄弟に学んで、彼のために空間を空けた。それが伝わったのかは分からないが、下がるのに合わせてベッドに膝を乗せてきた。靴を適当に床に落として、ジェイドの隣に座る。不思議と、それが不快には思わなかった。最初の警戒が阿呆らしく思えるくらいには、彼の所作にも表情にも敵意は欠片も見えない。話をしようとジェイドが身体を起こすと、背中に腕が回る。
「無理に起きるな。お前は寝てればいいんですよ」
寝かされそうになるのに軽く抵抗して、体重を彼の方へ掛ける。すると体幹が弱いのか、ふらついて向こう側へ手を付いた。また不機嫌な顔になってジェイドの方を見る。
「他人は部屋に入れない、と仰っていましたが、いいのですか?」
「ええ、言いましたね。僕を警戒するような他人は、絶対に部屋に入れたくないので」
「……ふふ。そうですか」
マジカルペンの所在を確認する。ジェイドの物はポケットにあったが、アズールの物はベッドから離れたラックの上にある。彼に受け入れられた事がとても嬉しいと思い、手を強めに握ると、同じ様な力が返される。心に温かな何かが広がって、アズールに会ってからずっと蝕んでいた胸の痛みが薄れ始めた。兄弟にされたようにアズールの肩に額を乗せて、重力に身を任せる。そのまま膝に頭を落とせば、おい、と少し慌てた声が降ってくる。
「ふふ」
「うわっ、擽ったい! そこで笑うな!」
これは一体誰なのだろうか。一番大事な物で、それなのに何でもない存在で、傍に居る事が当たり前だと思われるような間柄で。頭を腿に押し付けて、くすくす笑う。おかしい。知らない人なのに、こんなに落ち着くなんて。忘れてしまった筈なのに、兄弟が、この人魚が居ないと退屈で堪らなくて、消えたくなる。どうやってこれまで生きてきたのだろう、否、彼らが居たから此処に居るのだろう。その事に、やっと気が付いた。
もしも、なんて無意味な事だ。彼らが居たから自分がここにいる。それが全てだ。
顔を上に向けて、後頭部を腿に預ける。見上げた顔は呆れたようでいて、全てを許す色をしていた。
「アズール、分かりました。貴方は僕の”一番大事な物”なんですね」
「……さあ。どうなんでしょうね」
彼の手がジェイドの目を覆う。心地の良い暗闇と、柔らかな体温が意識を包む。また眠りに落ちてしまうと理解した。しかし、今度は夢は見ないだろうと、何となく分かった。
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