翌朝、目を覚ますと、まずアズールの顔面があった。その事に声も出ない程驚いて、少し身を引いた。それから周囲を忙しく見回し、現状を理解しようとして、やめる。何も思い出せなかった。まさか取り返しのつかない過ちを犯したのでは、と思考が狂い始めた所で、アズールが目を開けた。
「あっ……アズール……」
咄嗟に、おはようございます、の一言が出なかった。誤魔化しで微笑んだジェイドをどう思ったのか、アズールは暫しそれを見詰めて、手で頬に触れられた。状況から考えて逃れようとしたが、その手はジェイドの頬を横に引き伸ばした。
「いっ、いひゃいれす」
「…………」
「……なんですか?」
かと思えば、ぱっと手を離して、満面の笑みを浮かべて起き上がった。ジェイドの顔の横に手を付いて、にやりと笑いながら見下ろしてくる。思わず眉を顰めれば、益々嬉しそうに笑う。
「どうされました? 大分、気味が悪いんですが……」
「何でもありませんよ、何でもね。ふふふ」
何でもない筈がないだろう、と思いながら手を伸ばす。仕返しに頬を掴んで引き伸ばしても、まだにやにやと笑みを浮かべている。訳が分からない。溜息を吐いて手を離すと、手首が掴まれる。されるがままにしていると、優しくベッドの上に置いただけだった。アズールの表情は、見覚えがないくらいには柔らかくて、寒気がした。
「本当に気持ちが悪いですよ、貴方。僕、一体何があったんですか? 何も覚えていないんですが」
再び手が握られる。もう一方の手では顔をぺたぺた触られている。本当に異常な事態だ。記憶にない間に自分が何かしたとしか思えない。揶揄われていると直感的に理解出来たが、それが何か、一切分からない。
諦めて目を閉じ耐えていると、不意に手が離れた。そこを寂しく感じて目を開けると、いつも通りのアズールが居た。
「さっさと準備して行きましょう。今日はお前のクラス、飛行術の日ですよ」
「どうして、朝から嫌な話をするんですか?」
憂欝に落とされて項垂れると、彼はにこにこ機嫌良く笑った。それを疎ましげな目で見詰めながらも、何故だか、酷く安堵する心象があった。ぐうと腹を鳴らせば、不自然な程に嬉しそうな顔でジェイドを見た。少々気まずい。
ベッドから起き上がり、投げ出された制服を着る。どうして床に服が散らばっているのかは極力考えない。どんな事情にせよ、知って嬉しい事など無い筈だ。ベッドを挟んだ向かい側で同じ様に着替えていたアズールが、着替え終わったのか再びベッドに腰掛けて、ジェイドの方を振り向いた。目線だけ寄越せば、いやに真剣な瞳がそこにあった。
「ジェイド」
「……はい?」
ベッドが軋んだ。音が静かな部屋に反響していく。ふと何か思い出しそうになったが、泡沫として消えていった。くすり、とアズールが笑顔を浮かべてジェイドを見上げた。
「僕が居る限り、簡単に消えられると思うな」
綺麗に歪んだ口元が紡ぐ言葉を、即座に理解は出来なかった。少し咀嚼しても、飲み下せない。それでもジェイドは頷いた。
可笑しなことを言う。貴方がいるなら、消えたいなどと思う筈がないのに。口には出さずに微笑めば、きっとそれだけで伝わる筈だった。アズールは満足気に頷いて、それから立ち上がる。鷹揚とベッドを迂回して、ジェイドの前まで歩み、手を差し伸べた。
「行きますよ。フロイドが待っている」
一瞬の迷いもなく手を取る。それは当然だった。アズールのやや曲がったネクタイを直し、それから部屋を振り向く。何も忘れ物が無さそうだと分かったら、ええ行きましょうと頷いた。
扉を開けると、なぜかフロイドが壁に背を預けて眠っていた。それに驚く間もなく、横からリドルとトレイが姿を現す。すぐに何があったのか、思い出せなくても察しがついた。魔法薬を被ったという記憶だけは、不思議な事に焼き付いていた。
目を覚ましたフロイドが、ぱちくりとアズールとジェイドの方を見る。それから、心底呆れた顔で溜息を吐いて、泣きそうな顔になって、その場で無気力に全身を投げ出した。
リドルも額に手を当てて、疲れた顔で息をついている。その横でトレイも苦笑いをしながら、繋がれた手を見ていた。居た堪れない気分になって、誰かが何かを言う前に口を開いた。
「この通り、快復いたしました。ご迷惑をお掛けしました」
呆れ顔から逃れる様に隙間を抜けようとすれば、アズールに手を引かれた。仕方なく足を止める。少しの沈黙の後で、また手が引っ張られて、アズールの方に身体を向けた。
「お前は僕の”何”ですか?」
「はい?」
突拍子もない。らしくもない。色々と頭で文句を浮かべるが、どれも口に出す気が起きなかった。何故だか正当ではない気がする。フロイドの眠たげに下がった瞼を見て、これは何かの仕返しかもしれないと思い当たった。それならば、とジェイドは思考を巡らせる。一体何が起きて、自分が何を問うたのか分からない。それでも、アズールにとって『想定外』の答えを出そうとする。
勝ちを確信する顔を崩したい。ただそれだけのために、ジェイドはそれを口にした。
「貴方の”大事な物”ですよ」
途端にアズールが膝から崩れ落ち、土下座する形で震え始めた。その横でフロイドが腹を抱えて大爆笑している。困ってリドル達の方を見れば、生温い目がジェイドを見ていた。訳が分からない。
「違うんですか」
苛立ってアズールに問うと、勢い良く首を横に振って、顔を上げた。やはり笑っている。こんな事で怒るのは馬鹿らしいと目を閉じる。すると、アズールがジェイドの腕を掴みながら立ち上がって、笑いで乱れた呼吸の最中、「ジェイド」と名前を呼んだ。返事をするのが癪で黙っていると、もう一度呼ばれる。自棄になって「何ですか」と返事をすれば、真正面から抱き締められた。
「僕もお前の”大事な物”ですよ」
「は?」
稚魚をあやすような手つきで背中を撫でられる。そろそろ怒ってもいいだろうか、と思いながらも、馬鹿馬鹿しくなって深く考えるのをやめた。息をつきながら、そのままアズールの肩に額を埋める。未だ、フロイドの笑い声は廊下中に響き渡っていた。
コメントを残す