「十五夜、って知っていますか?」
長い静謐を崩す言葉に、残り少ないカップの中身を音を立てて吸い上げてしまう。微かなライトだけが照らす室内を見回して、温くなった息を吐き出す。
「知りませんね。陸の文化ですか?」
「というより、異世界の文化、でしょうか」
普段は教科書やノートの類、契約書等の紙束が並ぶ机の上へ空になったカップを戻し、部屋の中心を陣取るベッドの方に視線を流す。白いシーツがもぞもぞ蠢いて、横になっていたシルエットが起き上がる。黄金色の瞳が、暗い空間では浮かび上がってよく映える。
「先週、異世界からラウンジへ足を運ばれた方がいらっしゃいまして、その際にお話を」
「ああ……そういえば、来ていましたね。ご友人を連れて」
すっかり冷めたティーポットを振るとそれ自身の重量だけが伝わってきた。口内に残存する紅茶の香りを味わってから、ゆっくりと怠い腰を上げる。肩に掛けていた寝衣がずり落ちるのを手で押さえた。
相変わらずベッドの真ん中で膝を抱えている生き物は、じっと黄金の色をアズールの方へと向けていた。ぱちりと瞬きをするのもはっきり見える様が妙に面白く感じ、同じように視線を返す。
「ええ、ご注文のセットを運ぶ際に、偶然にも聞こえてしまいまして……不躾ながら、好奇心に負けて詳しい話を伺ったのです」
「知っています。丁度、ホールに出た所だったので見ていましたよ」
「おや、そうでしたか。全く気が付きませんでした」
「それも知っています。随分と、監督生さんのお話に夢中でしたね」
ベッドの縁に手を掛ける。相互に睨みあったままの視線はどちらからも離されない。まるで、視線を外せば喰われるとでも思っているようだ。黄金が瞬く。強ち間違ってもいない気がして、余計にその瞳を覗き込んでいく。
「ふふ……アズール。嫉妬ですか?」
「そんなわけないでしょう。お前が僕の目に気が付かないほど夢中になる話に興味を持っただけです」
「それは残念です」
ジェイドはくすりと白々しい笑みを浮かべる。身体の前で組んでいた腕を解いて、静かに背中側へ重心を預けた。クッションに埋もれた白い上半身を捩りながら、揶揄う様に腕が伸びてくる。渋い表情になっている自覚をして、軽く頭を振る。体内で未だ燻る熱を噛み下し、膝をベッドへ乗り上げる。近付いた腕は、無防備に置いたままだった腕を絡め捕った。
「……それで?」
腕を捻って掴み返し、奥へ押しやるようにしてベッドの上へ隙間を作る。素直に下がりながら空間を作るジェイドは、楽しげな笑顔をくっつけて、またじっとアズールの顔を見つめる。その目が触れた箇所が灼けるように思えて目を逸らしたら、また笑い声がする。
「一年の内で最も美しく見える月の事を、彼の世界では『中秋の名月』と呼ぶそうです。そして、それを見られるのが月齢の十五日目だそうで」
「その日が十五夜ですか」
「ええ。僕はそのように伺いましたよ」
熱を持ち始めた手を離して、半端に引っ掛かっているだけの服を外し、畳んで足元へ置く。毛布を摘まんで捲り上げると、先客は擽ったそうに身じろぐ。それを無視して脚を入れたら、少し体温の高い脚が絡みついた。応える代わりに許容しながら、クッションへ体を倒した。ついでに手を伸ばして、ランプの灯をふっと消した。
「なんでも、美しい月を見上げながらお団子を食べるのだとか」
「団子ですか? 何でまた……」
「丸いから、じゃないですか?」
「そんな単純な……まあ、分かりやすい方が浸透しやすいんですかね。……待てよ、団子か。白玉なら汎用性も高くてメニューにしやすい……フェアにするのも……」
一度、考え始めたら止まらない。脳内で算盤を弾きながら、同時にスケジュール表を並べる。被るイベントは特にない。最も近いのはハロウィーンだが、それも一ヶ月先だ。微かに漏れる息がそっと頬に触れ、考え付いた計算を固めてからそちらへ顔を向けた。
「ジェイド、正確な日付は分かりますか? 一週間以上の猶予があれば無理はありません! 一日だけの十五夜フェア、異世界のイベントという事で周知さえ出来れば集客の見込みは充分です!」
掛けたばかりの毛布がずれるのも構わず、横へ向けた身を乗り出して、半ば意識を内面へ飛ばしながら問いかける。また息が漏れる音が聞こえたかと思えば、いつの間にか掴んでいた肩が震えた。そこで漸く目前にあるジェイドの顔へ意識が戻って、上がりきった口角に気が付いた。
「ふふっ……流石はアズールです。運動後の夜中にも関わらず、熱心な事で……ふふふ」
明け透けな物言いに動揺して、言葉を飲み込んだ喉がぐぅと鳴る。さらに肩の揺れが顕著になり、動揺を誤魔化したくて掴んだ肩をシーツに押し付ける。勢い余って自分の体も起こしてしまい、真上から見下ろす形になって後悔した。赤くなった顔を隠したいなら悪手にも程がある。しかし今更引くに引けず、そのままくすくす笑い続ける顔を見下ろしたまま肩を強く握る。静かに開いた黄金の瞳がアズールを見上げる。
「笑ってないで、答えなさい」
「ふふ、はい。ええ、もちろん聞きましたよ。僕も、その最も美しい月が見てみたかったので」
細くなめらかな肌に触れたままの掌が、また熱くなってくる。知らずの内に唇を噛んでいたらしく、控えめにアズールの腕を振り払った右手が口元へと伸ばされて、柔く下唇を押した。噛みしめていた歯を離すと、指先がやんわりと口内へ入る。きゅうと細められた黄金色にぞくりと背筋が震えて、思わず身を退いた。これ以上手を出したら、確実に明日は寝坊する。
「お話を聞いたあの日……の、前日だったそうですよ。残念ながら」
離れたアズールを意にも介していないようにくすりと笑って、口内を触れた細い指が毛布を引き上げる。しばし呆然とその様を眺めた後で、彼の発した言葉がのんびりと脳へ入ってきて、頭を抱えた。
「くそ、何て遅い話題展開なんだ……! 本当にあの人は……ああ、勿体無い! もう少し早く知っていれば色々と……」
「そうですねえ……」
膝に掛かっていた毛布がジェイドの手で腰まで引き上げられる。座ったままのアズールがそちらへ目を遣れば、いつも上にある黄金色が相変わらず見上げてくる。折角組み立てたスケジュールを畳んでから、ジェイドの方へ体を向ける。顔の横へ置いていた手の甲に、その頬がすり寄る。
閉じた瞼を、何とはなしに見詰めてしまう。その視線に気が付いたのか、瞼の奥から再び黄金の瞳が覗いた。わざとらしく微笑むその瞳が、妙に美しく思える。
「僕は、遅いとは思わないですよ。だって、ほら……」
アズールの手の上に頭を乗せたまま、気だるげに彼の腕が持ち上がる。その指先がアズールの背後を差し、訝しみながらも示されるまま体を動かす。アズールが背にした窓の向こうへ、自然と視線が流れていく。暗闇の中で唯一、光を持っている。
ぼんやりと、朧げに黄金色の光が水面越しに映った。
「一番美しい……なんて曖昧な定義ですから。僕はあの夜見上げた中秋の名月よりも、この少し欠けた歪な月の方が美しいと感じますよ。なので、僕にとっては今日が十五夜です」
窓越しに映った揺れる月は、一等美しい黄金色に酷似している。思わず眼鏡を押し上げようとして、何も掛けていない鼻に指の腹が掠った。それを額に触れる形で誤魔化し、ジェイドの方へと向き直った。
「アズールはどうですか?」
頭がゆっくり手の上から退いて、クッションの方に戻っていく。それを追い掛けて、温い頬に手で触れた。ぱちりと意外そうに見開かれた瞳を見下ろして、緩む口元をわざと晒した。
「それなら僕は、毎日団子を食べる羽目になってしまいますよ。カロリーオーバーにも程がある」
「……おやおや。それはそれは」
眼下の月が揺れる。手の下で、温かった肌がじんわりと熱くなる。笑った振りをする可愛げのない唇へ指先が触れてしまえば、もう手遅れだった。最後の抵抗で、唇を避けて額に、目元にキスを落としていく。白い肌へ唇を触れながら、やけに団子が食べたくなって、異世界の文化に妙な納得をしてしまった。
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