レイジー・キューピット

 

 ぼふん、と埃を立てながら、フロイドは背中からベッドに倒れ込んだ。その手には薄っぺらい雑誌と、空になった駄菓子の残骸がある。脂っぽい袋をぐしゃぐしゃにして、捨て損ねたと気が付いて嫌な顔をした。
「フロイド、行儀が悪いですよ」
「忘れてたんだって」
 相部屋の住人であるジェイドは、すかさず呆れたように声を掛ける。頬を膨らませるフロイドにも「はいはい」と相槌を打って、ごみを捨てるよう促した。仕方なく、折角くつろげた身を起こして、近くのごみ箱に放り込む。そのまま再びベッドにばさりと倒れ込んだフロイドに、ジェイドは困り顔を作りながら溜息をついた。
 顔の真上で雑誌を開きながら、フロイドはそんな彼をちらりと横目で見遣る。ジェイドは相も変わらず、飽きもせずガラスの器に砂や苔を飾っている。その趣味をこれっぽっちも理解できないフロイドは冷めた目でそれを見て、それから雑誌に視線を戻した。
「あのさあ」
「はい?」
「もうすぐホリデーじゃん」
「そうでしたね。おかげさまで学園中が色めきだって、ラウンジの売り上げも好調です」
 めくる度に目に映る趣味の良いスニーカーを流し見つつ、最近のことを振り返る。サマーホリデーが近づいて、クラスメイト達もいっそう騒がしくなっていた。ジェイドの言う通り、ラウンジの仕事もかなり忙しい。今や、雑談の話題は大半が『サマーホリデーには何をする?』というものである。
 かくいうフロイドも、その質問を唇に乗せるつもりで話題を出した。横目でジェイドの方を見ると、今度はばっちり目が合った。
「ジェイドはなにすんの?」
「もちろん、一緒に帰省しますよ。顔を見せないといけませんし」
「帰省してからはどうすんの? どっか遊びに行く?」
「おやおや。なんだか今年は乗り気ですね」
「そういうんじゃねーけどぉ……」
 にこやかに、微笑ましげなトーンで返されては、フロイドも気まずく目を逸らした。それからはぐらかされた事に気が付いて、ちっ、と舌を打った。ジェイドは聞こえていないふりをして、また土を弄り始めた。
「……アズールはどうすんのかなー」
 少しばかり、わざとらしく声を出す。バレるだろうかとちらちらジェイドの方を確認したら、いっそ心配になるほど、分かりやすく手を止めて口を閉ざしていた。
 その様子を見て、フロイドは改めて唇をゆがめ、大きく溜息をついた。ジェイドははっとした様子で目線をフロイドへ向けて、遅ればせた笑みを作った。
 フロイドは知っていた。自らの兄弟が、いわゆる恋をしている事に気が付いていた。それはいつもと違う態度だとか、誰かさんに対しての言葉だとか表情だとか、そういった小さなものの積み重ねで露見したものだった。ただし、いつからか、どういう経緯で、などという細かい事までは興味もないので知らない。
 隠し通せたと勘違いしているらしい彼の兄弟は、机に向き直って青色のビー玉を撫でている。その横顔が全てを物語っているのだ、と今すぐにでも言ってやりたい。しかし、そんな事をすれば余計に面倒な事態になるというのはこれまでの経験上分かっているので、黙って睨むだけにする。
 正直、フロイドには理解できない事だらけだった。彼の趣味趣向に物申したいわけではない。彼と、その相手の、互いに対する態度の全てが理解できないのだ。
 雑誌を投げ出して目を閉じる。深呼吸して、とりあえず気持ちを落ち着かせる。テストのように「めんどくせー」と放棄したいが、仲の良い兄弟である以上、自身にも一生付きまとう問題だと考える程度には冷静だった。だからこそ、一番最初に彼らの遣り取りに『それ』を感じた日には授業をサボるほど悩みに悩んだものだ。

 そこで、コンコン、と二人の部屋の戸が叩かれた。それから「入りますよ」と短く断って、件の男が入室した。フロイドはぼさぼさの頭のままで、寝返りを打って背中を向けた。
「明後日からのホリデー直前イベントについての連絡があります。まずは日程の変更が……」
 遠慮なく休憩中の空気を裂いてくる言葉に、フロイドは軽く耳を塞いだ。脳の髄まで仕事に染まった男は日曜日が休日である事も忘れているのだろう。塞いだ耳朶越しに名前が呼ばれるのが聴こえるが寝たふりをする。案の定、向けていた背を小突かれる。
「ちゃんと聞きなさい。お前のシフトにも関わるんですから」
「オレいま寝てたのにー……」
「おかしいですね、少し前まで話し声が聞こえていたと思ったんですが?」
「ジェイドのひとりごとじゃねーの?」
「ふふふ。そうかもしれませんね」
 面白がって乗ってきたジェイドに、アズールが小さく舌打ちする。フロイドは、まただ、と内心でうんざりしていた。こいつはこんなに分かりやすいやつだっただろうか、と思う回数が年々増えてきた気がする。
「とにかく、こちらが予定表です。確認しておいてください」
「はい」「はぁい」
 頭の上に振ってきた紙切れを適当に受け取って目を通す。確かにフロイドのシフトが軽く移動しているが、他には気にするべきことはない。雑に机に放って、また手足をベッドに投げ出した。確認したからよしとしたのか、アズールはそれについては言及しなかった。
「それから、追加のメニューについてなんですが」
「資料を用意しています。こちらです」
「分かりました。確認します」
 淡々と、どこまでも淡々と進んでいく遣り取り。そこには誰がどう見ても別な感情なんて見えもしない。どこからどう見ても上司と部下だ。もっと言うなら社長と秘書だ。しかし。ちらり、とバレないように二人を見る。
「…………うわ……」
 思わず零れた感嘆詞には、運良く気付かれなかった。
 あれで誤魔化しているつもりなのだろうか。資料越しにさり気無く触れあいながら、こそこそ目くばせしながら、表面上だけは淡々とビジネスライクに言葉を交わし合っている。フロイドには理解できなかった。どうして奴らはこうなのだろうか。なぜ互いに気が付いていないのか不思議でならない。
 恋は盲目、と言う慣用句があるらしいし、二人もそうであるのかもしれない。そんな風に考えて、あまりに馬鹿馬鹿しくて溜息が溢れた。

 それから二人は無駄に十分以上もの間同じ事を話し合って、見かねたフロイドは仕方なく席を外した。部屋を出る直前に振り向いた二人は、飽きもせずに誤魔化すように『恋』をまき散らしていた。
 いい加減に、鬱陶しい。それがフロイドの正直な本音だった。
 いつまで経っても素直になれず、うじうじと気持ちを隠して七転八倒する近しい二人の姿に、誰よりやきもきしているのはフロイドである。本人たちは解決する気概が見られないのが余計にそう思わせた。
 ホリデー直前だというのに、浮かれムードの廊下を不機嫌に歩いていく。このまま帰省しても、どうせまた何でもないふりをしてあの面倒な空気を味わう羽目になる。盛大に舌打ちをしながら地面を蹴って、そしてふと、彼の脳にひらめきが降りる。
「……オレ、天才じゃん。あはっ」
 あはは、と不機嫌から一転して笑い始めたフロイドを、居合わせた不運な寮生が青ざめた顔でそろそろと避けていた。

 ◇

「ジェイド~、これあげる」
 昼食を食べているジェイドの口元に、ポケットの忍ばせていたそれを近付ける。ジェイドは一瞬動きを止めて、それを一瞥して、にこりと笑う。
「何の魔法薬ですか?」
「教えなぁい」
「残念ですねぇ」
 指先で溶け始めたその丸っこい飴玉を、フロイドは強引にジェイドの口にくっつける。ジェイドはにこにこしたまま、フロイドの手首を掴んで抵抗した。
 実のところ、フロイドは一瞬で見破られた事に対して驚いていなかった。中身が何か、それさえバレなければ問題はない。無計画を装って、フロイドは兄弟の好奇心を煽る。
「中身が何か当ててみて?」
「毒薬の類ですか?」
「んなわけねーだろ」
「そうですか。それは良かった。では……そうですねぇ、肉体に作用しますか?」
「ん~、違うねぇ」
「ということは、精神魔法ですか。あまり良い予感はしませんが……」
「美味しいよぉ」
「んー……」
 もう一押し。気の抜けた笑顔を貼り付けながら、ジェイドの口に飴玉を押し込んだ。すると、彼は困ったように微笑んで、今度は抵抗なくそれを口に入れた。よっしゃ、と飛び上がりそうなのを我慢して、にこにこ様子を見守る。
「甘いですね。これはストロベリー風味でしょうか? 良い出来です」
「でしょ?」
「さすがフロイドです。作用は全く分かりませんが」
 観察しつつも、指に残っていた分をジェイドの唇に擦り付けていると、席を外していたアズールが怪訝そうな顔で戻ってきた。丁寧に椅子を引いて座りながら、眉を顰めてフロイドを見る。
「マナーが悪いですよ。食堂でくらいちゃんとしなさい」
「はぁい」
 崩れた姿勢はそのままに、ぱっとジェイドから手を離せば、アズールからの睨みは消える。ちょっと拗ねたような気持ちで暫く睨んでいると、今度はジェイドからの視線に気づく。顔を上げて見返せば、なんだか不機嫌そうな顔だった。
「どうしたの、ジェイド」
「いえ」
 すぐにジェイドはくるりと笑顔になって、それまでの表情をなかったことにした。そして、同じように、言葉の壁を作ろうと口を開く。
「貴方もアズールが好きなのかと不安に思っただけですよ」
 ……かちゃん、と誰かがフォークを置いた。そんな音が聞こえるくらい、三人の空気は止まった。
 当の本人はぽかんと口を開けて、フロイドと目を合わせた状態で固まった。フロイドは冷静である傍らで、「マジで言った」と頭の隅で衝撃に伏している。それをどうにか乗り越えて、そっとアズールの方を見る。
 彼はぴたりと動きを止めて、指先も動かさずにジェイドを見ていた。それからみるみる真っ赤になって、がたん!と大きな音を立てて、座ったばかりの席を立った。
「…………あ、いや、えっと」
 弾かれるようにアズールの方を見たジェイドは、やっと弁明しようとしたらしい。しどろもどろに言葉を紡ごうとして、周囲から視線を集めてしまっている現状を理解し始めた。中途半端にも口を開いては閉じて、アズール同様に顔を赤くしていく。
 それから、すっと冷静なそぶりで立ち上がる。魂が抜けたような顔で、ジェイドはゆっくりと机から離れ、一歩ずつじりじりと食堂を後にした。呆然としていたアズールも、見えなくなる直前に我に返って、早足で出ていった。
 そんな二人を冷めた目で見ていたフロイドは、ふと目の前に残された三つ分のトレーに気が付いてしまって、舌打ちをした。うまいこと出汁にされた事実をも思い返したので、もう一度舌打ちをしておいた。

 ◇

 それから数日、待ちに待ったホリデーが始まる日になって、フロイドは二人に呼び出された。といっても、いつものように三人で集まっているだけだ。それなのに、アズールとジェイドはやや深刻そうな顔をして、襟を正してフロイドに向き直る。
「…………なに?」
 訳が分からず、普通に疑問で先手を打つ。二人は気まずそうに顔を見合わせて、それから、ジェイドが口を開いた。
「フロイド。実は、貴方に隠していた事がありまして……」
「ああ、二人が両思いだったって事でしょ? ずーっと知ってたけど」
「えっ!? そんなバカな!」
 ずっと言いたかった言葉だけに、フロイドはいとも容易くさらっと言い放った。それに反応したのはアズールで、食堂で見たのと似たオーバーリアクションでがたりとまた椅子を引いた。
「ど、どうして分かったんですか? 不自然な行動は無かったはず……!」
「あったってば。なぁんか、二人揃ってすげーアホになっちゃってたよね。おもしれーけど、疲れた」
「やはりフロイドは勘が鋭いと言いますか……下手な隠し事はできませんねぇ」
 苦笑して、ジェイドが肩の力を抜いた。羞恥からか未だに顔をこわばらせたままのアズールは放っておいて、フロイドはここ数年間、ずっと言いたかった言葉ナンバーツーを口にしようとして――
「お察しの通り、実は僕達、二年前から付き合っていたんです」
「…………はっ?」
 喉元までせり上がったはずの台詞は、一瞬にして一音に置き換わった。
「え? いま、何て言った?」
「すみません、陸風に言ってみました。正しくは、二年前から番関係にあった、ですかね」
「はぁ!?」
 今度はフロイドが立ちあがる番だった。口元を引き攣らせて、一歩下がったフロイドに、ジェイドは一瞬にして事態を察したらしかった。
「知っていたんじゃないんですか?」
 とどめを刺すようなアズールの一言に、フロイドの脳内に走馬灯の如く数年間の苦悩が駆け巡った。
 見て見ぬふりをしてきた自分の努力が、実は二年前から無意味だったのだという。わなわなと震えるフロイドに、アズールも事態を察した。
「……すみません、何か認識の齟齬があったようですね。本当は今回の帰省で、ご両親と同時に伝える予定で……」
「聞いてない!」
 バン!と机を叩いて、大声を出した。アズールもびっくりした様子で体を退いて、「ごめん」と咄嗟に出た言葉で謝った。
「……両親に会う前に、オレに言えよ」
「すみません、その通りで……」
「土下座して『ジェイドを僕に下さい』って言えよ」
「……は、はい?」
 静かに言い放って、フロイドは俯かせていた顔を上げた。不安にとまどっていた二人は、彼と顔を合わせると、一気に脱力した。
「そしたらオレが、ジェイドはあげないって言うんでしょ?」
 フロイドは満面の笑みを浮かべて、ずっと言いたかった言葉ナンバーワンを口にした。アズールは溜息をついて、ぼそりと呟く。
「漫画の読みすぎですよ……」
「では、アズール。フロイドとの一騎打ち、頑張って下さいね」
「そこまでするのか!?」
「当たり前じゃん」
 あは、と笑って、フロイドはどかりとソファに座り直した。彼の好転した気分は、押し寄せていた負の感情をすっぱり洗い流してしまったらしい。楽しそうに、新しいおもちゃを見つけた子供の顔で、そう言った。
「オレの兄弟を取っていくんだから、それくらい覚悟しとけよな」
 どこまでもにこにこと微笑むジェイドとフロイドを交互に見遣って、アズールは息をつき、それからにやりと笑って見せた。
「望むところですよ」

 

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