うそつき

 

 曇天だった。素人目にも、昼からは絶対に降るだろうと思った。
 年から年中、訓練づくめの施設で、休日というものは一般的な子供と比較してずいぶんと貴重で、それでいて暇だ。出来ることと言えば、正に子供っぽく外を駆け回ったり、早起きせずに惰眠を貪ったり、そこらへんに転がっている本を読むくらいのもの。茨は窓の外を口を開けて見上げながら、外に出る選択肢すら無くなったと肩を落とした。
「茨ー、朝ご飯が出来ましたよ。休みだからって、ぼうっとしていないで」
 窓の桟に顎を乗せて溜息をついていると、そこへ弓弦が顔を出した。唯一の同年代の子供で、他の大人たちよりは一緒に遊べそうなものだけれど、生真面目ゆえ茨の遊びを理解しなさそうで気が乗らない。「はーい」と声だけは腹から出す。
「返事だけは良いんですから」
「行くって、お腹減ったし」
 どことなく冷たい響きを持ったその声に、茨も怠けたがる両脚を働かせた。立ち上がって振り向いたら、弓弦の背中だけが見えた。自由に伸びたしっぽがゆらゆら揺れている。その後を追いかける。

 子供のくせに、弓弦の作る食事は大人たちが偶に作るそれよりも幾分か美味い。そう口に出した事があったが、弓弦は顔を曇らせながら、気持ちの宿らない礼を述べるだけだったのを思い出して、茨は今日も黙って食べる。弓弦の巻いただし巻き卵は大体綺麗だけれど、今日の卵は端っこがほんの少しよれていた。
 ちらっと横目で様子を窺う。いつも通り、嫌味なくらいにしゃんとした姿勢で丁寧に咀嚼している。すぐに視線を気取られて、ばっちりと目が合った。
「何ですか?」
「え、いや、別に。食べてるかなって」
「……変な事を言いますね? まだ寝ぼけているんじゃないですか?」
 白米を食べきって、弓弦が茶碗を机に置いた。茨も最後の一口を咀嚼し始めて、喋れない素振りをする。弓弦がちょっと溜息をつく。ごちそうさまでした、と両手を合わせ、隣の椅子ががたんと引かれる。立ち上がった拍子にこちらに向かってきたしっぽを咄嗟に掴んだ。
「うわっ! 何するんですか。離しなさい」
「だって目の前に来たからさぁ」
「猫ですか、あなたは」
 少し力を緩めたら、するりとすり抜けていった。踵を返したその背中を見て、今度は訓練着の裾を掴んで引っ張った。
「うっ、……茨! いい加減に……」
「教官殿は今日なにするの?」
「はあ?」
 振り返った弓弦は、まるで理解不能といった感情を顔中に貼り出していた。その顔を見て、好奇心が頭を擡げる。暇に任せて寝っ転がって一日を消費するより、よっぽど良い娯楽を見つけた。

 部屋に戻って、机に座る弓弦の背中を退屈に見つめる。茨が時折、その尻尾を掴んだら、鬼のような速度で払いのけられる。
「……ねえ、まだー?」
「もう少し」
「三十分経過でありまーす」
「じゃあ、あと五分」
「うー」
 ごろんと弓弦の布団に倒れこむ。埃が舞うのを見上げて、それから窓の外を見る。まだ雨は降っていない。バカ真面目に勉強している背中を睨むのに一日は使えない。ばっと忙しなくも立ち上がった。
「俺、先に行ってるよー。教官殿も後から来て」
「……えっと、外でしたよね?」
「うん、倉庫の裏。もうすぐ雨降るし」
「はい。また後で」
 外を指しながら言えば、弓弦が微笑む。普段はどう考えても悪鬼羅刹の生まれ変わりだというのに、偶に、ごく稀に、幼い子供に見える時があるのだと茨は知っている。こうして笑った時、馬鹿みたいな事情で怒った時、犬がいる時。それは”教官殿”の中にある内臓を覗いているみたいな気分で、ちょっとした優越感だった。
 裏口から外に出れば、既に空気はじめっとしていた。肌がべたつく感触に、盛り上がりかけていた気分が下がる。そのままの足で約束した場所まで歩いて行って、ぴたり、と足を止める。
 ――ここで帰ったら、弓弦はどんな顔をするんだろうか。そんな悪い考えが頭を過る。普段の仕返しだの、さっき待たされたお返しだの、自分への言い訳が幾らでも用意できてしまった。
 怒るだろうか。多分そうだ。でも、もしかしたら落ち込んだり、泣いたりするのか。
 それは好奇心のひとつだった。思いついた途端にとても名案のように思えて、茨は屋根によじ登った。約束した場所からは死角だが、音は聞こえる範囲内に陣取る。
 久しぶりに休日を楽しんでいる、と茨は思う。あの弓弦は自分を捜したりするだろうか? そう考えたところで、ああまた約束を破って、とすぐさま踵を返す姿が脳裏に浮かぶ。なんだかそれが正しい気がしてくる。
 突然馬鹿馬鹿しくなって、茨は二階の窓を開ける。それとほぼ同時に、裏口の戸が開く音が聞こえた。咄嗟に窓へ体を滑り込ませて身を隠す。ずる賢い脳は、言い訳と逃げ場所を既に思考に組み込んでいた。
 さくさくと砂を踏む音がする。それから少しして、静かになる。ちらっと顔を覗かせると、弓弦が建物の陰に寄りかかっているのが見えた。
「え、待ってる……?」
 思わず漏れた言葉に慌てて口元を塞ぐ。自らの心音が大きくなっている気がした。もしかして、落ち込む弓弦がそこにいるのかもしれない。俺のことで?
 こっそり、息を殺して観察する。弓弦はじっとしていて、身じろいだ様子もない。ただ空を見上げている。
 なぁんだ。内心でがっかりと呟いた。俺が誘ったから来たわけじゃなくて、知識欲に負けただけだったのだ。心底馬鹿らしくなってしまって、心のどこかがくすむようで、茨は弓弦を視界から排除して廊下を駆け出した。

 ◇

 目を覚ましたら夕飯の時間になっていた。結局、怠惰に寝転んで貴重な休日は終わってしまったらしい。「あーあ」と誰もいない部屋に投げつけて、空っぽのお腹を抱え起き上がる。
「……あれ」
 弓弦の机には、やりかけのワークブックが置いてある。ずいぶん珍しいな、と思いながら覗き込んだ。そしてはっとして、窓の外を見る。ざあざあと雨が窓を打ち付けていた。

 まさか、と思いながら裏口のドアノブを捻る。鍵がまだ掛かっていない。たらりと冷汗が伝っていく。鬼の形相が目に浮かぶ。うっすらと隙間を作りながら、静かに、慎重に外を覗いた。
 遠目に人影が見える。茨は目を細めて様子を窺った。そして、慌ててドアを開け放って、傘も持たずに駆け出した。
 バケツをひっくり返したような雨が頭上から降ってくる。一瞬で全身がずぶ濡れになった。転げそうになりながら、少し離れた倉庫の下に手を伸ばし、体ごと滑り込んだ。
「弓弦! なっ、に、してんの?」
 必死で掴んだその手は、全然濡れていなかった。濡れた茨の手を伝って、弓弦の袖も水を含んで色を変えた。
 弓弦が弾かれたように顔を上げた。それを見た茨はあれっと思う。
「な、泣いてない……?」
「はい? 泣いてなんていませんよ、見ればわかるでしょう」
「いや、でも……?」
 からりと乾いた頬を凝視して、首を傾げる。遠目だったから、屋根から落ちる水滴がそう見えたのだろうか。
 弓弦はふいと顔をそらして、また空を見上げた。その横顔が想像したどれとも違っていて、茨は戸惑い口を噤んでいる。
 ぽたり、掴んだ手の間から水滴が落ちる。
「もしかしたら、今日は本当なのかもと思いました」
「う……」
「全然、見えませんよ。虹も光輪も」
 茨は黙って口を噛む。嘘をついたわけではないし、偶々日が悪いだけなのだけれど。
「……なんで待ってたの? すぐ帰ると思ったのに……」
「あなたが待ってくれていたから、それを返しただけです。来ると信じて待っていたわけじゃなく」
「ぐ……」
 気にしていないと顔にも書いてある。そんな言葉がぐさりと刺さって、茨は掴んでいる手を離した。すると弓弦は自由になった、濡れてしまった手首を握りながら、やっと茨の方を見る。
「あなたは?」
「へ?」
「放っておけば良かったのに、どうして今更顔を出したんですか?」
「お、怒ってる」
「ただの率直な感想です。虹も見えないし、土砂降りだし、お腹も空いているだろうし。なんでかなと」
 弓弦が振り向いた。屋根に遮られた空間は、まるで切り取られた二人だけの居場所みたいだった。弓弦の背後に雨が降る。それがどうにも恐ろしく見えて一歩引いた。それから壁にぶつかって、ふと睫毛に乗った雫に視線を奪われた。
「茨?」
「ごめん」
 口を衝いた言葉に弓弦が目を丸くする。ぱちくりと驚いたように瞬きをして、薄っすら口を開けている。その反応に、普段の自らの言動を重ね合わせて胸に重しが乗った。
「……ですから、怒っていないと言っているでしょう」
「うん」
 びしょ濡れの手を適当に払って、茨は弓弦に手を伸ばす。弓弦は意外と避けずにそれを見過ごして、茨の親指が眦を触った。弓弦は反射でか一瞬目を瞑って、それから気まずそうに目を逸らした。
「なんか嫌な事あったんでしょ? なのに、だから、悪いとは思ってるよ。今は」
「……クソガキ」
「はーい」
 明るく右手を挙手したら、弓弦が背中を向けた。ゆらりとしっぽが揺れる。それを摘まんで指の腹で撫でると、鬱陶しげに首を振った。

「もうちょっと晴れてたら、虹の輪っかは見れるんだよ。ほんと」
「……そうなんですか?」
「そうそう。だからさ、次は小雨の日ね」
 ちょっとずつ雨足が弱まってきた。屋根の外に手を差し出したら、丁度大粒の雨が掌に乗っかった。感触が面白くて握りつぶした雫が、ぱしゃりと飛び散る。
「うん」
 水滴が弓弦の髪にくっついた。ちっさい声で頷いて、つうっと雫が落ちていく。砂に吸い込まれていく一粒を眺めながら、久しぶりに良い日だったな、とぼんやり思った。

 

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