波が聴こえる。押し寄せていく音の波が、微睡む頭の中を満たしている。偶にきぃと混じるノイズで、夢に落ちる思考は現実に戻ってくる。
うっすらと開けた瞼の隙間から、くるくると回るレコードと、奏でる針が見える。ぼやけた視界は、深海で見たピアノと奏者の六本足を幻視した。静謐を邪魔しない音色は、波の音に似ている。
目を閉じて、音を聞く。呼吸をしても、泡の音はしない。ただのメロディーが流れていく。無彩色の指先が鍵盤をたたく、あの瞬間が浮かんでくる。外れた調子だった音色は、いつしか流麗なピアノソナタになっていた。
悪戯心にふざけてフロイドと手を出した、主旋律を奪い合うだけの連弾は、どんな遊びよりも心が躍って、僕はきっとピアノの音を好きになった。
「……また懐かしいものを聞いてますね」
ぱちりと目を開け、丸まっていた身体を起こす。膝を抱えていた肩の横から伸びる手が、机の上で回り続けているレコードの針をそっと持ち上げたら、空間中に絶え間なく響いていた音色は引いて行った。
横目で見えたアズールは、制服ではなく寮服を纏っている。それだけで用件を承服し、軽く散らかっていた道具を収める。
「少々お待ち下さい。すぐに向かいますよ」
「いえ、別に急いではいません。単純に、植物園からピアノの音がしたものですから、一体誰の仕業かと思いましてね。……それで? 何をしていたんですか?」
訝るような視線を受けて、思わず笑う。確かに時計が示す時刻は、まだ開店するには早いくらいだ。
「植物達に聞かせていたんです」
「は? ……ああ。話しかけると成長が早い、みたいな迷信の類ですか」
「迷信かどうかを確かめるための実験ですよ。結果はまだ出ていませんが、ほら、心なしか元気になっている気がしませんか?」
「知りませんよ……」
自分から尋ねておいて、面倒げに視線を逸らす。にこにことそれを眺めつつ、用もなく暇にしている彼を珍しく思う。疲れている時ほど、音楽に惹かれてしまうものだろうか。そんな仮定が浮かぶ程度には、何も無いここに居座る様子が物珍しい。
「片付け、手伝いますよ」
「いえ、特に必要……ありませんが、ではお願いします」
「……何です、それ?」
横から霧吹きを攫っていく手を見送って、広げていた鉢植えを棚へ戻す。話しかけられて成長する、なんてことを信じているわけではない。それでも、ピアノの音色には、そんな魔力が宿っている気がしてならない。
ノートに記録を付けていると、隣にアズールが立った。彼は僕の育てた鉢を見て、それから、軽く頷いた。
「確かに、何だか元気そうに見えますね……」
「おや、こちらの研究にご興味がおありですか?」
「そういうわけじゃありません。僕がピアノを弾いている時のお前のようだと思っただけで」
ふんと鼻を鳴らして言うアズールに、何だか核心を突かれた心地になって息を呑む。揶揄われた事への文句を言うために、視線をアズールの方へやると、予想に反して彼は真面目腐った顔でこちらを見ていた。
「久しぶりに弾きましょうか。さっきの曲なら覚えてますよ」
「つまり、アズールは僕を成長させたいのですか?」
「それ以上は結構です」
踵を返し、アズールは置いていたレコードを持ち上げる。片手で器用に敷いていたハンカチを畳み、こちらへ差し出してくる。
「理由が必要だ、と言うのであれば、明日のためという事にしますよ」
「……と言うと?」
「明日の快晴でも願います。植物やウツボが育つくらいの力があれば、天気も操れるんじゃないですか」
適当な調子で言うアズールを思わず繫々と眺めてしまう。彼は眉間に皺を寄せながら、ハンカチを僕の手に握らせた。そのまま手を引かれて、つられて歩き出す。
「……ピアノで、ですか?」
「……何か問題でも?」
不機嫌そうに答える彼は、いつになく素直だった。彼は星に何を願ったのだろうか、などと下らない事を考える。
また、波が聞こえる。押し寄せては返す、波によく似た感情だった。
「いいえ、何も。明日は晴れると良いですね」
「そうですね。ただ願ったところで、叶う訳ではないですが」
扉を開いたアズールに続いて、外に出る。微かな明るさを見上げると、明日、曇天だとは思えない夕空が広がっていた。
「勝手に叶うお願いなんてありませんから」
立ち止まる僕に合わせてか、アズールも歩みを止めた。空から彼の方へ視線を移す。変わらない海の色だった。
「さっさと行きますよ、ジェイド。時間がもったいない」
また手を引かれて歩き出す。部活動中の生徒とすれ違って、横目で見られても、アズールは意に介さない様子でいる。
押し寄せる波の意味を理解できるような予感があって、僕は耳を澄ませて身を任せる。彼の紡ぐ音色に、今は何を思うだろうか。繋いだ手は、溶け落ちそうに温かかった。
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