ううん、と呻く声が聴こえて、深く落ちていた意識がふっと浮上する。ぱちり、と開いた目の前は暗い小さな部屋の壁で、それをかすかな光がぼんやりと照らしていた。
ずいぶん慣れた冷たい寝具から身を起こす。ぎしりときしむ音が鳴る。上段では寝ぼけたような声と同時に、寝返りを打ったのだろう物音がした。
ベッドの端に座って、ぺたりと足先を床に落とす。冷え切ったつま先を、穏やかな光が照らしている。しばらく落としていた視線を、導かれるように、ひとつだけの窓に向けた。丸くて大きな月だった。
夜の闇に浮かぶ月明かりは綺麗だった。喧騒も銃声も聞こえない。その静けさは、まるで月と二人きりになったような錯覚を起こす。そっと腰を上げて、窓のほうへ歩み寄る。
ふちに手を置き、暗い外を見つめる。吸い込まれそうな色を眺めていると、きらびやかなシャンデリアを思い出した。こびりついた甘い花の香りがする。まるで眠気のない頭を、月のほうへ預けた。
「…………もう、いやだ」
存外にはっきりと零れた言葉には、しん、と静寂だけが答えた。ガラス越しに見えるいくつも残った足跡が少しだけぼやけている。ぎゅうと握りこんだ指の先は冷たかった。
ガラスの温度が額を冷まして、それがひどく心地良い。この熱だけ冷ましたら、そうしたら眠ろうと考える。弓弦を照らす月の光は、水面のように揺れていた。
「泣いてんの?」
空気を揺らしたその声に、びくりと肩を揺らした。その拍子に、視界からぽつりと一滴落ちていった。振り向いて何か言おうとしたところで、言葉が詰まる。暗い部屋のなか、ぱちりと澄んだ空の色が、月のように大きく丸くなって浮かんでいた。
顔を背けて、月のほうに逃げる。
「あなたの寝言で目が覚めただけです」
少しの間が空いて、ふうん、と気の抜けた声が返ってきた。軽く袖で目元を押さえて、窓から手を離した。来た道をたどるようにしてベッドに座ると、上からぎしぎし音がした。見上げると、群青の瞳が弓弦をじっと見ていた。
「なんですか」
「子守歌うたってあげようか?」
「は?」
にこっとわざとらしく緩められた目に眉を寄せる。たいてい、こういう顔をするときはろくなことを考えていないのだと知っている。溜息をついて、その笑顔から視線を外す。
「前に寝れないって言ったらやってくれたじゃん」
「寝れないわけじゃないですから、いりません」
「じゃあ、頭撫でてあげるよ」
「だから……」
苛立ちのまま顔を上げて、頭上を睨む。すると、彼は真面目な顔でじいっと弓弦を見下ろしていた。一瞬、たじろいで言葉をのむ。しかし、すぐに思い当たって、また溜息が零れた。
「俺のせいで寝不足になったから休む、って言う気でしょう」
「げっ」
「まったく」
急いで引っ込んでいった赤色に額を押さえる。なんだか色々と馬鹿馬鹿しい気分になって、ぱたりと横になる。
こうして、ベッドの裏側を見ながら眠るのにも慣れてしまった。息を吸って数秒、止めて数秒。ゆっくりと力が抜けていく感覚と、眠りに落ちる確信がした。頭上からは、未だ身じろぐ音が聴こえていた。
ふわ、ふわ、と何かが頭に触れるような感触で、また眠りから覚めてきた。気が付けば、そばに人の気配があった。さっと全身から血の気が引く。油断した。回りきらない頭でも、染み付いた生存本能で、侵入者の正体を見ようと素早く身を起こす。
「うわっ!」
「……茨?」
しかし、目の前にいたのは見慣れた顔だった。ベッドに膝を乗せたまま、咄嗟にか両手を上げ降伏を示している。
珍しく寝ぼけたままの頭を振って、それから今一度、茨を見る。目が合うと、ばっとベッドから降りて一歩下がり、さっと敬礼した。
「おはようございます教官殿! 今日も一日頑張りましょう!」
「あ、はい……じゃなくて。何をしていたんですか?」
「別に何もしてないよ~、もうちょっとで殺せそうだなとは思ったけど」
「いえ、そうではなくて……」
茨の泳ぐ目が出入口のほうに向く。すると、わざとらしくにっこり笑って「トイレ行ってくる!」と言い残し、全力で走って行った。「あ」と、言えなかった言葉を落として、乱雑に閉じていった扉をしばし見つめる。
やっぱり寝てないんじゃないのか、とか。俺を口実に使う気でしょう、とか。そういうことよりも先に、残る体温に気が取られていた。
静けさだけが残った部屋の中、そうっと頭に触れてみる。髪は少し乱れていて、それから、少し温かい気がした。
すっと心臓が軽くなったような、そんな心地がする。こうすれば怒れないと知っていて、打算で動いているのだとしても、今日だけは許してやろうと思う。弓弦は目を閉じて、夢のようなその感覚を追いかけるように、縺れた髪をほどいていった。
◇◇
そよ風が、葉をつけたばかりの木を穏やかに揺らす。はたと顔を上げたころには、周囲はすっかり夜になっていた。思考に沈んで、時間を疎かにしていたらしい。
煮詰まっていた企画書から目を離して、空を見上げる。ひらけた空中庭園から見える空は広くて、澄んでいる。暗闇に浮かぶ月が、そこにぽっかりと大穴を開けているみたいだ。それで、不意に硝煙の匂いを思い出した。染み着いた死の気配も、今は遠い記憶の中だ。
膝にのせていたファイルを閉じて、鞄におさめる。それから居心地のいいベンチから腰を上げて、庭園の端のほうに歩いていく。アルミ製の手すりは、握ったところから温もりを覚えていく。
街の上に鎮座する月は、やわらかく人々を照らし出していた。自然と頬が緩んで、小さく息を吐きだした。風が優しく髪を攫って撫でていく。その感触が、ひどく懐かしく思えてしまった。
がちゃりと扉を開ける音が聴こえて、少し乗り出していた体を戻す。それから名残惜しく思いながら、温いアルミから手を離した。
「……弓弦っ!」
一歩下がったところで、勢いよく腕を掴まれた。気配も足音もしなかった、その時点で誰だかすぐに分かった。
焦った声が、穏やかな心に水を差す。久しぶりに会ってから、もう何度も味わった感覚だった。不快を示すよう眉根を寄せて、振り向いた。
そこにいたのは、今にも死にそうな顔をした茨だった。咎めようとしていた言葉が引っ込んで、思わず目を丸くする。
「何やってるんですか、あんた!?」
「はい……?」
「正直、いつかやると思ってました! ああもう、こんなにも残業に感謝した日は初めてですよ!」
「……ええと?」
両肩を掴まれて引っ張られる。何か妙な勘違いがあると気付いてから、困惑して口を挟めるまでに間が空いた。その間にぐいぐい押されて、先ほどまで座っていたベンチに促される。座って、それから見上げた夜空の真ん中には、晴れた空色があった。それで、いつか見た光景を想起した。
「幸せだなんだと言ってましたけど。やっぱり嘘くさいと思ってましたよ」
「茨」
「なんだよ」
「わたくし、自殺を図っていたわけではございませんよ」
ぴたりと茨の口が閉じる。夜らしい、静かな空気が漂っている。小さな電灯と、月の明かりが、彼の顕著なまでの表情の動きを教えてくれる。思わず笑みをこぼしたら、聞こえるように舌打ちされた。
「じゃあ何だったんですか?」
「泣いていました」
「えっ」
大きく見開かれたその瞳が、弓弦の顔を映している。泣いた痕跡の一つもない微笑だった。
「頭、撫でてもいいですよ」
「は……」
思考なんか読ませる気もない笑顔のまま、動き回るその目を見る。ばちりと視線が交わった瞬間、じわ、とその頬が赤くなるのが分かった。堪え切れずに笑うと、茨は思いっきり顔をしかめて、やけくそみたいに頭を撫でた。
整えられた髪がぐしゃぐしゃにされる、その適当な感触にすら救われた気分になる。それがどうにも可笑しくて、また笑ってしまった。
「本当、余計なことばっかり覚えてますよね」
吐き捨てるように言いながら、鼻で笑う。少し滲んだ視界の中にいる茨は、なんだか安心したような、気の抜けた顔をしていた。
◆◆
物音が消えて、一定の間隔を保った呼吸が聴こえてきたところで、体を起こした。安っぽいベッドはそれだけで大きく軋んだけれど、呼吸音は乱されなかった。ほっと息をついて、一応下を覗き込んでから、そうっと地面に下りる。
ふいに起こされて喉が渇いた。それだけだった。窓の外から部屋に入ってくる月明かりがいやにまぶしい気がして視線をずらしたら、きちんとした姿勢で寝息を立てる弓弦がいた。
別に何が気になるわけでもない。その目元やら指先が赤くなっているのも、物珍しくて見ているだけだ。睨むように、広がった髪を見つめて、それから足音を消したまま、そばに寄る。
隙だらけだ、と思った。今なら簡単に寝首をかいてしまえる気がした。慎重に、ポケットに手を伸ばす。ガラス片は捨てられて空っぽだった。聴こえないように舌打ちして、それからベッドに横たわるそいつを見下ろした。上を向いた喉が上下する。首を絞めてしまえばいいのだと気が付いた。
ベッドのふちに膝を乗せて、首元に手を伸ばす。触れる手前で止まっても、弓弦の口は小さく息を吐きだすだけだった。
「……くそ」
空を切った手はシーツの上に落ちる。なにも可哀想になったわけじゃない。まして惜しくなったわけでもない。ただ明日の朝ご飯がまずくなるのが嫌だった。ただそれだけだ。
「あんたは何がいやなの」
眩しいくらいの月光だけが、涙の痕を照らしている。茨はただそれを見つめることしかできないでいる。
心臓の奥の奥のほうが、ざわざわとして落ち着かない。その目がぱちりと開いて、憎たらしいほど眩しい紫色を、人を殺しそうな眼差しを向けてほしいと願っている。そんな自分の情動にむかついて、やけくそ半分にベッドに沈む頭を撫でた。弓弦は反射的にか、一瞬だけむずかるように喉を鳴らして、それから落ち着いた様子で眠りに帰っていく。
その無防備さも、さらさら落ちていく髪の綺麗さも、全部が心底憎らしかった。
「……ん」
寝返りを打って、弓弦の顔が茨のほうを向く。起きたかと身構えたが、違った。すうすうと寝息を立てたまま、穏やかに微笑んでいた。
どんな夢を見ているのだろうと想像する。幸せだと笑う弓弦の顔は、こんな感じなんだろうか。
何処へでも行けるくせに、何者にでもなれるくせに、時折、誰よりも不幸になったような顔をしている。持たざる者には分からない悩みとでも言うのだろうか。それに気づくたび、心底から腹が立つ。
月にさえ呑み込まれて消えそうな薄い背中なんか見たくもないし、知りたくもない。そうやってぐずぐずされるくらいなら、いっそ、うざったいくらい幸せに笑っていた方が遥かにマシだ。俺が踏み潰すまでは、のうのうと生きていればいいのだ。
そこまで考えて、らしくもないと首を振った。どうせすぐ帰っていくやつを相手に、そんな無駄なことを考えたって仕方がない。八つ当たりに、柔く緩む頬を引っ張った。
ぼうっと寝顔を眺めているうち、眩しかった月の光は、気付けばすっかり色を変えていた。暗いまま青色を帯び始めた空が窓の外で動いている。
怒られる前にベッドにいたふりをするべく動こうとしたら、ようやく自覚した眠気で体が少しふらついた。
よく眠っていたからか、赤みの引いてきた目元をちらっと見遣る。規則正しく動く胸に合わせて睫毛が揺れていた。
おざなりに手を伸ばして、その額に触る。当たり前に伝わってくる体温で、心臓がちくちく痛む。めんどくさい。めんどくさい。毒付きながら、くしゃりと藍色を柔く握った。
すると、目の前で薄い瞼がぴくりと震えた。それに反応する間もなく、瞼はゆっくり押し上がって、現れた紫が薄ぼんやりと茨を映した。
その瞬間に、ごちゃごちゃ考えていたことが全部吹き飛んでいく。
まるで全部夢だったかのように、弓弦の瞳はいつも通りの光を灯していた。
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