宙を掻いて、くるりと一回転する。長い尾が視界外の小魚を蹴り飛ばした気がしたが構わず、水面を仰ぐ。煌めく太陽が水に遮られて揺らめいているのが妙に懐かしく感じる。そのまま漂っていれば、腕の辺りに小エビが乗った。
「ふふ」
臆せず寄ってくる小さすぎる体躯に笑いが零れる。学園の弱弱しくも気丈な存在を思い出したせいだった。兄弟がこれと称したのが、あまりに当て嵌まっていて面白い。腕にそれを乗せたまま尾を振った。水圧を浴びる感覚が馴染む。やはり重力は難しい、と浮力に包まれる今は改めて感じる。軽やかに宙を進みながら、どうにも苦手な飛行の魔法を考える。上手く浮かべないのは致し方ない、慣れない世界に順応している途中であるのだから。
くるりとまた身体を反転させた。今度は砂を泳ぐ深海魚が見える。エビは器用にも背中に乗ったようで、微かに歩く感触が擽ったい。少し泳いで下へ降りると、砂の魚は停止する。
「こんにちは。かくれんぼですか? 楽しそうですね」
人当たり良く声を掛けたのに、魚は尾で砂を巻き上げた。手で目を庇っている間に、随分遠くまで逃げてしまった。少し追えば簡単に追い付く事は分かっていたが、遠くへは行きたくない。残念ですと呟いて手を振った。
また背後の方で砂が舞った。今度はどなたでしょうか、と好奇で心を満たしながら振り向いたら、見慣れた長い足があった。大きな壺から伸びるその足は、たん、たんと叩き付けられて、何度も砂を巻き上げている。進行方向をそちらへ向けた時、背中から小さな感触が逃げていった。
「彼は貴方を食べたりしませんよ」
少し腕を伸ばして手を差し伸べる格好をすると、宙を漂っていたエビが戻ってくる。指に降りて、手首を這って、肩に落ち着いた。図々しい所なんかはそっくりだ、とは思ったけれど言わなかった。代わりにくすくす笑う。すると、また砂が舞った。
水を指と鰭で掻き、そちらへ近付く。苛立った様子で叩き付けられていた足が、ジェイドの動かした波に反応し、やや浮いたまま止まった。波でゆらゆら彷徨った後、ゆっくりと下ろされた。
壺の淵に手を掛けて、遠慮なく覗き込む。退屈そうに魔術書を読む青色の双眼がじとりと睨んできた。
「随分とはしゃいでいるようですね。稚魚の頃と変わらない」
「ふふ、すみません。退屈でしたら、ご一緒にどうです?」
「僕はお前と違って、鰓呼吸を懐かしく思ったりはしませんから」
手持ち無沙汰な手足達が浮力に抗わず漂っている。うち一本に手を触れながら降下し、暇そうなそれらの上に寝そべった。本を畳んだアズールが迷惑げに眉を寄せる。吸盤が鱗に吸い付くのが面白く、にこにこ表情が緩む。
「では、お暇な貴方の退屈凌ぎに、何かお話ししましょうか?」
「要りません。邪魔です」
転がって仰向けになったら、吸盤が外れて音が鳴る。今度は背中にくっついて、鰭に当たる。むず痒く思って身動ぎすると、尾に足が巻き付いてきた。寝転がったまま頭を倒して、頭上側のアズールを見る。彼は不遜に腕を組み、不機嫌な顔でジェイドを見下ろしている。
「動くな、擽ったい」
ぐるぐる巻かれた割に、その拘束力は緩い。たまに吸盤が触れるのもキスされているみたいに優しい。可笑しくて笑顔を浮かべたら目を逸らされた。動くのが面倒になって、そのままアズールを見上げたまま尾鰭を投げ出す。アズールは蛸壺に寄り掛かり、また魔術書を手に取って開いた。ぱらぱらとページを捲り、真面目腐った顔で目線を動かしている。
「アズール」
「何です」
即座に返された返事に、また笑ってしまった。気も漫ろで文字を追っているだけなのは見れば分かる。その原因が自分である事も、今は正しく理解している。尾に巻き付いた足に力が籠って絞められる。
「あっ、痛いです、折れちゃいます」
「折れるか」
更に締め上げてくる吸盤が、厚い皮膚を吸い上げる。痕が付いたらフロイドに揶揄われてしまうな、と考えつつ、抵抗する気もせずに身を任せた。限界まで絞められたら、力が緩んで解放される。どうやら気が済んだらしい。本日の役目を終えた書籍が漂いながら蛸壺の底へ落ちた。
アズールが漸く壁から背を離し、上体を倒してジェイドを覗き込む。青白い頬を両手で挟むと、目が怪訝に眇められる。その奥に好意的な色が混じっているのを、ジェイドは知っている。少しだけ力を入れて引き寄せる。呆れた様に、それでも許容した様子で細められた瞳が、何かを見咎めた。目前まで近付いた所で、手首をがしりと掴まれてしまう。
「何をくっつけてるんです。鬱陶しい」
腕を歩いていたエビが、突然外敵に晒されて逃げ場を探す。肩まで戻り、項に隠れた。
「おや」
細い触覚が首筋を擽り、思わず身じろぐ。ジェイドの身体に巻き付いてきた足がずりずり上へ上がってきて、首に触れる。
「ジェイド」
「可哀想じゃないですか。今回は見逃してあげて下さいませんか?」
同じ呼び名を持つ者を思い浮かべながら言ってみると、片眉を上げて溜息を吐く。すぐに手が後頭部に差し込まれ、持ち上げられた隙に足が入り込んだ。砂が微かに項を叩く。
「ああ、なんて残酷な人」
ぷちりと矮小な命が潰された音がした。項を掠め這い出てきた足の先には、赤色の欠片が纏わりついている。それをアズールは口元に運び、舐めとった。がりがりと歯で執拗に砕きながら、ジェイドの頭部をそっと元の位置へ下ろした。再び後頭部が柔らかい蛸足に包まれる。
「ご馳走様です」
口元を青い舌で舐めて笑う。ジェイドも目を細めて「ええ」と笑う。今度はアズールがジェイドの頬を掴む。遊ぶように軽く揉み、片手が耳鰭を滑る。背筋を伝う感触に尾鰭を浮かせると、足が縛る様に巻き付いてくる。長い体躯が大きな手足に沈む。
今度は手を握りながら顔を近付けて、鼻先に唇が触れる。得意げに笑む姿が幼い彼に重なって、くすっと微笑む。
「フロイドは?」
「お散歩です。僕は置いて行かれてしまいました」
「そうですか。じゃあ遠慮なく」
もう一本、足が尾鰭を包み込んだ。両手を握られ、身を引いたアズールに引き摺られて蛸壺の奥に入り込んでいく。案外広いと思っていると、器用に三本の足に長い尾鰭を折り畳まれた。
すっぽりと大きな二匹の魚が入り込んだ壺の中は隙間も少ない。全身がお互いの表皮にくっついている。身体を起こし抱き着く様に引っ付いたら、もう外側からはジェイドの姿など見えはしない。
「ふふ」
たん、と足が砂を打ち付けた。人間体と同じ腕で背中を抱かれながら、気が立つと足を打つ癖は変わらない、と気付いて笑う。咎める様に巻き付いてくる足に絞められたって痛くもない。肩に手を置くと腕の力が緩む。顔を突き合せたら、ちょっと機嫌が良さそうだった。機を逃さないで、鰓へ酸素を取り込みながら、目を開けたまま唇を合わせる。じっと目を合わせたままで何度も飽きずにキスをする。泡が唇の隙間から上がっていく。
合間に手を繋ぎ直される。背後で足が水をかき混ぜている音が聞こえて、振り向いたら丁度小魚が潰れる瞬間を見た。犯人は浮き上がる死骸を握り、引き寄せてジェイドの口元に持ってきた。
「どうぞ」
「タコは怖いですねぇ」
「どの口が言う」
血の匂いにつられて口を開け、頭からかぶり付く。ぶちりと骨ごと噛み千切る。飲み込んで、残りの部分も腹に収めると、少しの空腹が満たされる。
「ご馳走様でした」
肩に寄りかかり、見上げて笑う。すぐにキスが落とされる。応えながら首に腕を回した。離れた唇の間から赤い泡が浮いてきて、情緒が無い、と目を細めた。アズールもきっと同じ事を思って、面白そうに口角を上げた。
血の味を交わし合いながら絡み合う。壺の底に在った貝殻が転がり出て行く。自分よりも大きな手足に囲い込まれているのを感じながら、お返しのつもりで精一杯に尾鰭を巻き付かせて絞め上げた。アズールは「痛い」と文句を言って、それから更に巻き付いてくる。気付けば絡まって身動きが取れなくなっていて、敢え無く額をくっつけたまま、大声で笑い合った。
窮屈で痛む尾をちょっとずつ動かしながらまたキスをする。聡明な思考など、本能を前にしたら霧散する物だ。いっそ解けなくなればいいなんて馬鹿な事を思いながら、指も絡めて求め合う。
「…………どーなってんの、ソレ」
日暮れに兄弟が迎えに来て本気で呆れるまで、その久々の戯れは続いた。
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