滲むキャンディポップ

 

 撮影スタジオの一室で、慣れ切った動きで用意されていく機材らを監視していた茨は、「あ」と隣から声が上がるのを聞いて視線を向けてしまった。やにわに声を発したのは、メイクを施されている最中の凪砂だった。
「……どうされました?」
 嫌な予感を察知して、口が億劫に開く。アイシャドウを入れ終えた凪砂がぱちりと目を開けて、茨の方をゆるりと見て、それから言った。
「……スマホ、共有ルームに置いてきたかもしれない」

 中途半端に仮装を脱ぎ捨て、茨は全速力で階段を駆け下りていた。咄嗟に呼びかけたジュンは何やら衣装に苦戦していて、すぐに動けるのが茨しかいなかった。
よりにもよって情報の塊を、誰もが入り込める部屋に置き去りにするなんて。どうも今日は化石だか何だかを嬉しそうに持っているとは思っていたが。頭の中で愚痴を投げつつ、辿り着いた短い廊下を早足で進む。
 急いているのを極力隠して、目的地のドアを開けた。中は空調が効いていて、心地良い空気が押し寄せる。
「〜……♪」
 一歩足を踏み入れたところで、室内から機嫌の良い鼻歌が聴こえた。低く耳心地の良いその声に、ぴたりと足が止まった。
「〜……、……何をしているのですか?」
 気配を殺して後退りしたところで、鼻歌はフェードアウトし、死角にいるはずの茨に声を掛ける。諦めて、ふうと息を吐きぱっと笑顔を貼り付ける。それから室内に入ると、キッチン側の机のそばに弓弦が立っていた。
「弓弦じゃないですか、こんなところで奇遇ですねえ!」
「こんな所で奇遇もなにもありませんが」
「あっはっは、それもそうでしたね! 自分は忘れ物を取りに来ただけですからご安心を……っと?」
 素早く部屋を見回して、目当てのものを探索する。それはローテーブルの上にぽつりと置いてあった。そして、その隣には、謎の薔薇が飾られている。
「これは……」
「……ああ、それはあなたの物でしたか。そちら無視していただいて平気ですので」
 呆れた様子で告げる弓弦に、はあ、と曖昧に頷いた。それからスマホへ手を伸ばす。と、横に置いてあった薔薇がぶわりと広がった。
「うわっ」
「Amazing! なかなか良い反応です!」
「……これはこれは、日々樹氏」
 薄い机の下から花びらにまぎれて、ぬるりと長身の男が現れた。この男の奇行をたまに見かけることはあったが、仕掛けられると存外反応に困る。とりあえず敬礼していると、「日々樹さま」と咎める声が投げかけられる。
「イベント事だからと浮かれすぎでございますよ。まあ、いつもの事と言えばそうですが」
「それもありますが、普段絡まない人に絡むのが楽しいだけです!」
「そうでございますか。茨であれば幾らでも絡んで頂いて結構ですよ」
「こっちも忙しいんですが?」
 自分そっちのけで進みかけた会話を割る。薔薇を撒き散らしたまま、渉はにっこり笑って、その手を差し出した。
「では手早く済ませましょう、Trick or Treat♪」
「ああ、はいはい。もちろん」
 いつもながら楽しげに演じるその手に急かされるように、何度か渡したお菓子の残りを探る。衣装の上着を脱ぎ捨ててきたことに気付いて、少し躊躇う。しかし茨は表に出さぬよう、ズボンのポケットに忍び込ませていたキャンディポップを取り出して、その手の上に乗せた。
「どうぞ」
「ありがとうございます! おっと、これは可愛らしい……おや?」
 恭しく受け取って、それから子供のように持ち上げてみせたキャンディ越しに蛍光灯を見る。その動きはぴたりと止んで、じいっとキャンディをくるくる回して眺める。
「……どうされました?」
 また嫌な予感を抱えながら、尋ねる。詳しくを知らない相手だけに、その思惑が測りづらい。渉はぱっと顔を上げて、それからちらっと弓弦を見た。
「流石の私も、これは受け取れませんね……」
「はい?」
「馬に蹴られたくはありません、痛いので! というわけでお返しします」
 抑揚のある表情がすっと引いて、苦笑いしながら再びポケットに捩じ込まれる。その表情で色々と理解して、何か言いたくて開いた口を閉じる。
「……さて、私用事を思い出しました! あとは執事さんに一任しますね」
 お菓子を詰め合わせているらしい弓弦の方に近寄ってからばさばさとまた薔薇を撒き散らして、彼は嵐のように去っていった。若干の放心状態でドアのほうを見る茨をよそに弓弦はため息をつく。
「またあの人は、こんなに散らかして……」
 呆れ気味の口調とは別に、わくわくとした目の輝きを隠せずにいる。意気揚々と掃除道具を取りに行く背中を見ながら、茨はポケットからキャンディポップを取り出す。先ほどの反応を思い返すと急に恥ずかしくなってきて、今すぐゴミ箱へ投げてしまいたくなる。
「忘れ物をお届けしなくてもよろしいのですか?」
「う、わ……ええ、ええ。今行くところです」
 咄嗟に後ろ手に隠して、ぶっきらぼうに返す。弓弦は特に関心なさげな様子で頷くと、散らばった薔薇をちりとりに回収し始める。また鼻歌を歌い出しそうな雰囲気に、つい、茨も気が緩んでしまった。
「弓弦」
「はい?」
「Trick or Treat?」
 弓弦は顔を上げて、それから数度の瞬きをした。一瞬だけ表情を落っことした後、にこりと笑った。
「生憎ですが、あなたへのお菓子の用意はございません」
「ああそうですか……」
「ふふ。しかしあなたの悪戯というのも嫌なので、用事を済ませてからまた来て下さいまし」
 ぱっぱっと早くも床を掃ききって、塵取りを持ち上げる。その言葉の意図が分かって、懐かしさにすこし笑う。弓弦は気分を害すでもなく、片付けを済ませて手を洗い始める。
 スマホを回収してから、シンクのそばに近寄る。覗きこんだ手のひらは小さなカボチャを撫でていた。しばらく見つめていると、弓弦が小さく笑った。
「何だよ」
「いえいえ。……では、わたくしも。Trick or Treat?」
「……ええ、はいはい。自分は誰に言われても平気なように用意してますよ」
 冗談っぽく言った弓弦は、ちょっとだけ楽しそうだ。今度こそ意気揚々とキャンディを差し出して見せる。両手が塞がっている弓弦はそれを見て、「ありがとうございます」とだけ言った。
「食べさせてあげましょうか?」
「結構でございます」
「まあそう言わずに」
「早く戻った方がよろしいのでは? その服装、撮影中なんでしょう」
 ぺりぺりと袋を剥いて、小言を垂れる口にくっつける。弓弦は眉間に皺を寄せながら体をひいて、飴玉越しに茨を睨んで何か言おうとして、ぴたりと止まった。綺麗な水色と紫色に染まった弓弦の顔が、うっすらとだけ見える。
「…………なんですか」
 やけによく当たる嫌な予感を押し殺して、尋ねる。弓弦は少しだけ視線を彷徨わせ、それから、眉を下げながら口元を緩めた。その表情で察しがついて、やめときゃ良かったと後悔が押し寄せる。そうして引っ込めかけたキャンディを、弓弦が身を乗り出してぱくりと食べる。
「あっ」
「……ん。なるほど、ラムネとグレープ味ですか」
 頬へ転がして、棒先を口の端へ収める。そうして味わいながら納得した様子を見せる弓弦に、無性に噛み付きたくなる。
「言っときますけど、別にその色に意味はありません。気付けば余ってしまっていただけです」
「分かっていますよ」
「…………あ〜、そうですか!」
 何も感じていないかのような平坦な顔で笑うから、それが死ぬほど苛ついて、自棄になった。心臓の中から今にも飛び出しそうな本音やらをどうにか飲み込んで、素早く胸ぐらを掴む。
弓弦は驚くより先に濡れたままの手で茨の腕を捻ろうとする、それを分かっていた茨はもう何も考えずに、キャンディを咥える唇に噛み付いた。ぺろりと舐めると甘ったるい砂糖の味がした。すでに手首を掴んでいた弓弦は、びしりと固まる。
 羞恥心が全身に伝わる前に離れて、ふんと笑ってみせる。弓弦はしばし目を見開いていたが、ゆっくりとその開いた瞳孔が元に戻って、落ち着いた目が無理に笑う茨を映した。
「わたくし、Treatの方を選んだつもりだったのですが?」
「あ〜……はいはい、分かってますよ〜! いやぁ、一体何が出てくるのか今から楽しみであります!」
 もう色々諦めて、ふざけた調子で敬礼した。弓弦はちょっとだけ笑って、それから、ころりと飴を転がした。
「冗談です。分かっていますよ、流石にね」
 ざあざあ水が流れる音に混じって、そんな事を言う。茨はじわりとむかついて、悪態をつきかけた口を閉じた。空調が効きすぎているせいかもしれない、きっとそうに違いないが、執拗にカボチャを洗う弓弦の頬は赤くなっていた。
「……弓弦、」
 ブブ、と突然ポケットが震えて、伸ばしかけた手を引っ込める。そして我に返り、時計を仰いで冷や汗をかく。時間がだいぶ押していた。
 慌てて踵を返して、ばたばたと外へ向かう。まったくもうと溜息をつくのが聴こえて、思わず振り向いた。
「三十分後に来ますから!」
「はいはい。早く行きなさい」
 軽くあしらう調子に舌打ちして、今度こそ全力で撮影スタジオまで駆け抜ける。

「……おかえり。遅かったね」
 ばたん、と騒々しく戻ってきた茨に、化石を眺めていた凪砂がのんびりと出迎えの句を述べる。ええまあ、と曖昧に濁す茨に彼は特に追及せず、腰を落ち着けていたソファを立った。そのまま、既に撮影を開始しているEveの傍らで配置に付く。
茨も彼に続こうとすると、凪砂が振り向いて、少しの間の後で制止を示した。
「……まず、休憩した方が良いかな。顔、とても赤い」
「え」
 急襲でも受けたかのように素早く背後を向く。そこにある鏡に映った顔は、確かに凪砂の言う通りだった。
 舌に甘い味が戻ってくる気がして、悪化する。思わず「最悪だ」と呟いた。鏡越しに首を傾げる姿が見えても、説明する事すら出来ない事態だ。茨はただひたすらに素数ばかりを浮かべて、浮かれる脳味噌をどうにかこうにか圧迫しようと努力する事しか出来なかった。

 

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