それだけが欲しい - 1/2

 

「うー、さむっ!」
「坊ちゃま、鼻の頭が赤くなっております。わたくしのマフラーも巻いてくださいまし」
「いやいいって、弓弦が寒くなるでしょ……」
 綺麗に編まれたマフラーを外して、ほんの少し先を歩いていた桃李の首元に巻き付ける。しかし彼はそれをすぐに外してしまって、最近よく見るようになった呆れ顔で、むき出しになっていた弓弦の首に巻き直した。
 くしゃりと曲がった巻き方が愛おしく思えて破顔した弓弦に、桃李は照れくさい様子で顔をそむけた。
「坊ちゃまがわたくしにマフラーを……最高のクリスマスプレゼントでございますね」
「邪魔だから元に戻しただけでしょー、そんなので喜ばれてたらさぁ……弓弦?」
 ふと足を止めた弓弦に気づいて、桃李は振り向く。それから弓弦の視線の先を追いかけて、首を傾げた。
「あの人、誰だっけ……どこかで見たような……」
 目を引く赤色の髪と、夢ノ咲とは違う制服。桃李は記憶の引っかかりを辿ろうとするが、ぽんと肩を叩かれて現実に帰る。
「坊ちゃま」
「え、うん。なに?」
「いつもの場所に車を待たせております。こちらの角を曲がってすぐのところに迎えがいますので、お先にお帰り下さいまし」
 弓弦がすっと、道の先を指す。弓弦が見ていた彼のいる場所を避けるように、いつもより一つ早い横断歩道だった。
「……うん? 弓弦は来ないの?」
「はい。坊ちゃまの露払い、とでも申しましょうか……『あれ』はわたくしが対処いたします」

 訝しげにする桃李の背中を見送った後、弓弦はつま先を方向転換する。雪が積もっていては、アスファルトでも足音が消えている。さくさくと足跡を付けながら、真っ直ぐに男の方へ向かえば、男が視線を上げた。
「うわっ、危なっ!?」
「避けましたか」
 寄りかかっていた壁に弾けた雪玉が痕を残す。ぱらりと落ちるそれを見て、反射的に後退っていた茨は弓弦を睨んだ。
「急に何をするんですか。まったく物騒ですね」
「それはこちらのセリフです。今度は一体、何を企んでいるのですか」
「はい? 何も企んでなんていませんよ。まぁ疑われるのも分かりますけど、自分が何をしたって言うんです?」
 肩に付いた雪のかけらを払いながら、茨は不遜に言う。弓弦は指し示すように彼の背後に視線をやって、鋭い視線を戻した。
「夢ノ咲学園の生徒達に絡んでいましたね」
「チッ」
 聞こえた舌打ちに弓弦が眉をひそめる。茨は仕舞い損ねていた携帯電話を鞄におさめて、それから大きく溜息を吐き出した。
「絡んでいたとは人聞きが悪いですが。単に情報収集を行っていただけですよ。夢ノ咲では明日、クリスマスライブがあるそうじゃないですか? 参考に見ておきたい、と考えまして」
「そうですか。残念ながら、今年は学外のお客様は入れない方針になっておりますよ」
「ええ、そうみたいですね。もっと広い範囲で公開した方が知名度も上がるでしょうに」
「あなたのような人間を警戒しているのでしょうね」
「……ふん」
 不機嫌に口を歪めた茨が革靴に乗っていた雪を地面に振り落とす。弓弦は警戒すべき相手のそんな動作を監視しながら、僅かな懐かしさを感じる。視線に気付いた茨が一瞬顔をしかめるが、すぐに笑顔に取り替えた。
「というわけで、自分は本日暇になってしまったわけですが。折角なのでお茶でもしていきませんか?」
「はい? 誰と誰が?」
「あっはっは、もちろん自分とあんたですよ。そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「丁重にお断りいたします」
 居住まいを正してにこやかに手を差し出す。その姿には胡散臭さしか感じられず、弓弦は即座に首を振った。動じた様子もない茨は笑いながら、弓弦を見る。
「逃げるんですか? 俺ごときに何かを奪われるのが怖くて?」
「……茨」
「そこまで弱い生き物に成り下がっているとは、残念です……弓弦」
 ふっと姿勢を低くする予備動作は弓弦の目に映った。しかし、ワンテンポだけ反応が遅れた。
 短く振られた拳を肩で受け止め、一歩分だけよろける。すかさず脛を目掛けて飛んできたローキックは、凍ったアスファルトに靴裏を滑らせ躱す。見えた項をすぐさま掴めば、ぐっと体を持ち上げられて外れる。そうして出来た隙に再びキックがかまされて、躱すが雪に足を取られた。
「いっそのこと俺がこの場で殺して――」
「――ああっ!?」
 顔面に真っ直ぐ向かってきた拳――の向こうで、雪の上に光る物体を見た。弓弦は思わず声を上げ、茨を押しのけてそれに駆け寄った。両手でそれを掴めば、四角い感触がある。悪い予感に汗が伝う。恐る恐る開いた手の中には、びしょ濡れになった携帯電話があった。
「まさか壊れてなんて……」
 希望的観測が口を衝いてしまいながら、そうっと携帯電話を開いてみる。ボタンを押してみても反応がない。電源ボタンを押してみても画面は真っ暗なままだった。
「そ、そんな……」
「……ええと、携帯電話が壊れたんですか? それは申し訳ないです、が……そんなに落ち込むほどの事ですか?」
「当たり前でしょう? もし坊ちゃまが電話を掛けてくださっても、出られないなんて……!」
「……はあ」
 困惑した様子で見てくる茨を一瞥して、弓弦はとりあえずハンカチで本体を拭く。写真などは入っていないが、桃李と交わしたメールのデータは惜しい。カードだけでも救えないだろうかと思案していると、茨が隣に屈んでくる。
「あの……今回は本っ当にわざとじゃないんですが、まぁ自分も悪かったとは思うので。修理代は自分が出しますよ」
「……茨が? 熱でもあるのですか」
「自分にも常識というものはあります」
 弓弦が訝しく眉を寄せれば、横目で視線を寄越してきた茨も顔を顰めた。

 ◇◇

 店員の明るい声を背中に浴びながら、自動ドアを前に立つ。開いたガラス戸の向こうからは、冷たい空気が全身に向かってきた。温まっていた足の先がまた冷えていくようだった。
「良かったじゃないですか、一時的なもので。自分も安く済みましたし」
「ええそうですね。あなたにSDカードを抜かれずに済みました」
「何のことですかね」
 わざとらしい笑い声を聞き流しつつ、携帯電話を起動する。無事に明るくなった画面上には、夕方を示す時刻が映るばかりだった。ようやく安堵してポケットにしまう。
「では、わたくしはこちらですので」
「おっと! 待ってくださいよ、お茶の約束はどこにいったんです?」
 背中を向けようとした肩が掴まれる。ぱっとすぐに払って向き直る。
「それは断りましたが。今日はやけにしつこいですね……何を企んでいるのですか? わたくしが帰ると不都合な事でも?」
「俺を野放しにして困るのはそっちじゃないですか?俺としては、このまま解散できれば願ったり叶ったりですよ」
 思わず黙り込んだ弓弦に、茨が満面の笑みを見せた。それからすぐに携帯電話を取り出す。
「近くに穴場のカフェがありまして! 今日のようなイベント日でもすぐに入れると思いますよ」
「……相変わらず、悪知恵の働く頭でございますね」
「褒め言葉と受け取ります!」
 茨は顔も上げずに姿勢だけ良く敬礼をして見せる。弓弦は唇を噛んでから、薄い手袋でその頭を叩いた。

 からんからん、とドアベルが心地いい音色で鳴る。茨の言葉通り、雰囲気は良いが席はそこそこ空いていて、静かなカフェだった。表通りからすこし外れた立地であるのが原因だろうか。落ち着いたトーンで話す店員に案内されるまま窓際の席に着く。
 机に広げられたメニュー表を眺める。紅茶がこの店の売りであるらしい。様々なフレーバーティーが並んでいた。姫宮の屋敷でもあまり聞かない名称のものに目を滑らせていると、そこに茨の指が割り込んでくる。
「これでいいですか?」
「……構いませんが」
「じゃあ、自分はコーヒーで」
 短く言ってベルを鳴らす。物言いたげな弓弦から逃げるような迅速さだった。近づいてきた店員に注文を告げて、それから目が合えば、「何か?」と目で語る。そんな茨に違和感を覚えながら、諦めて息をつく。それよりも、と雪のせいで冷たくなった指先を握って温める事に専念していた。
 暫しの沈黙の後、弓弦の視界の端で、すっと指が動いた。
「弓弦、マフラーずれてますよ。執事ともあろうものが、そんなことでいいんですか?」
「これはいいのです。坊ちゃまが巻いてくれた形ですから」
 指された先にあるものを握る。隙間風は冷たいが、心だけはかなり暖かいものだ。茨は理解できないようにまた顔を顰めて、不機嫌に顔を逸らした。
「そうですか」

 少しして机の上に並べられた二つのカップからは、熱い湯気が立ち上っていた。両手で包み込むように持つと、冷え切っていた指先が溶けるように思える。一口飲むと、内臓にまで染み渡る感触が分かった。その温かさに息が震えてくる。
「弓弦?」
 少し驚いたような声音で名前を呼ばれ、弓弦は赤い水面から視線を上げる。茨は数度瞬きをした後、手袋を外し始めた。意図を汲めずにいれば、その手が弓弦の頬を掴んだ。
「冷たっ」
「いや、熱いんですよあんたが。たぶん熱ありますよ」
「熱……?」
 鸚鵡返しにしたところで、冷たいはずの茨の手が少し気持ちいい事を自覚した。いやでもまさか、と頭の中で言っている内に、茨が先に言った。
「風邪引いたんじゃないですか? 」
 周囲に気を遣ってか、小さめの声だった。それを不思議に懐かしく思いながらも、言い返せずに口を噤む。
 体調管理は完璧で、風邪なんて何年も引いていなかった。ただ、基本的に休みのない生活のお陰で、風邪の類は初期症状の時点で治してしまえばいいという事は知っている。明日までには治るはずと目算する。
 そうして思考する弓弦に、苦々しげな顔をしながら、茨が口を開いた。
「休んでいきますか。近くに宿泊施設がありますし」
「いえ、帰宅した方が早いですから。結構です」
「うつるからって追い出されたりしません? 今なら自分が看病してあげますよ」
 茨の言葉で、帰宅時のビジョンが鮮明に浮かぶ。正直に言って、その通りになるだろう。良くて倉庫に入れるといった程度か。目が合えば、茨は真面目そうな顔で弓弦を見ていた。
「……何か悪いものでも食べたでしょう。もしくは何か企んで……」
「情ですよ」
「ないでしょう、そんなものは」
「さすが教官殿。じゃ、それを飲んだら行きますか」
 弓弦は冷たい空気を吸い込んで、それから小さな溜息をついた。紅茶で温まった肺からは、白い息が零れ出た。

 

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