段々とふらつき始めた足元に、隣を歩いていた茨に肩をぶつける。しばし驚いた顔で弓弦を見た後、はっとしたように茨は腕を差し出した。
「……なんですか、この腕は」
「掴んでいいですよ」
「…………はあ」
違和感しかない姿に、気の抜けた返答だけが出た。仕方なしに腕を掴んだら、バツが悪そうに顔をそむける。自分が言ったくせに、と考えながら、確かな足取りについていく。
少し路地に入ったところで、人通りが消えていく。今日はクリスマスイブだというのに、ここには人がいなかった。不審に思い顔を上げ、思わず足を止める。
「……ああ、ありました。ここです」
「は……?」
「すぐに入れるみたいですよ。ほら」
軽い力で茨が手を引く。しかし弓弦の足は動かない。目に痛いネオンの光と、どぎついマゼンタ色が脳を焼くようだった。流石に弓弦も見たことはなくとも、桃李への検閲の過程で知っている。
「な……何を考えているんです。こんな場所に入っていくところを見られでもしたら……」
「大丈夫ですよ。誰もいませんし、休憩するだけですからね。疚しいことは何もありません」
「でも……」
「信用がないですね。別に何も企んでないですし、何もしませんから」
しんとした空気に声が吸い取られていく。自らの頭上に積もり始めた雪を茨が払うのを見て、冷え切っているくせに熱い脳が、解決策を考える思考を放棄した。
入ってしまえば、そこからは容易かった。何事もなく受付を通り抜けて、部屋を割り当てられ、弓弦は気付けばベッドに寝かされていた。安っぽいシーツの感触は落ち着かないものの、布団を掛けてしまえば暖かいのは同じだ。散々に凍てついた体温がゆっくりと、今度こそ溶かされていく。やっと主張を始めた頭痛に目を閉じていれば、額に冷たい温度が触れる。開いた視界には、薄い透明のフィルムを持った茨が映る。
「冷えピタです。薬は解熱剤中心のものにしました。飲めます?」
「……ありがとうございます」
布団を肩にかけたまま起きて、渡された薬を見る。わざわざ箱を見せてくるが、その動作が逆に怪しい。しかし既に選んでしまった選択肢だ。白い錠剤を口に含み、ペットボトル入りのスポーツドリンクで飲み込んだ。それから改めて横になると、茨がベッドサイドのテーブルにゼリー飲料を並べた。
典型的な看病のためのラインナップで、相手は茨であるのに微笑ましいような気がして、弓弦は少し笑う。
「何がおかしいんですか?」
「いえ、何も」
「……自分は仕事をさせてもらいますから。二時間くらいでいいですよね」
「はい」
これまた大きなソファに陣取って、茨は鞄の中からノートパソコンを取り出した。低い机の上にそれを乗せてから、茨の意識が画面に集中していく様が見て取れた。妙な事をしていないだろうか、と普段なら苦言を呈するところだが、全身を覆う温かさに絆されて、今日くらいはいいだろうと目を閉じた。
◆◆
ぴぴぴ……と画面上に浮かぶタイマーが合図を鳴らした。そこで時計を見遣って、二時間があっという間に過ぎたことを知る。
いつの間にか固くなってしまった背中を伸ばしながら仕事道具をしまい込む。一応、扉の方も確認する。何もないことを確信すると、ベッドでうずくまる弓弦の方へ向かった。
「弓弦」
肩に手を置く。無防備にもそれを許して、彼は寝息を吐いた。机に転がる風邪薬のシートと、半分になったペットボトルを一瞥する。もしここに毒を仕込んでいたら。今頃、弓弦は死んでいた。
邪魔をしてきた弓弦に嫌がらせをしたいだけだったのが、どうしてこんな事になったのかと、今更になって頭を掻きむしる。風邪を引いた程度で死ぬなら放っておけばいいのに、と短い自問自答をした。
そこで、ゆっくりと弓弦の瞼が動く。眠たげな眼が茨を映した。
「……茨」
優しい声が名前を呼んだ。途端に、衝動的に体が動いていた。
両手で肩を掴んで、瞬きを繰り返している間にベッドに乗り上げる。馬乗りになって、弓弦を見下ろした。目が冴え始めてすぐ弓弦は腕を掴み返し、肩から標的を上へとずらされる。滑りきる前にシーツにしがみついて、姿勢を保った。
「何ですか」
また、険のない声が耳に入り込む。よく効いた暖房と同じく、どこか芯のところがどろどろ溶けてしまう気がして歯軋りした。
「俺にも……くれたっていいじゃないですか?」
「はい……?」
それからは自然と言葉が流れていった。頭より先に声を聞いているような感覚だった。
「明日はクリスマスで、どうせお屋敷で祝ったりプレゼントを渡したりとかするんでしょう。……こんなに良い子にしてたんですから、一つくらい、もらったって」
肘を折ってシーツに付ける。自然と近づいた体を、素早く入り込んできた弓弦の腕が遮る。肩を掴んでいた腕を枕の下へ滑り込ませて、軽く持ち上げる。衝撃を覚悟する面持ちで、好戦的な瞳が茨を突き刺した。その唇に、キスをした。
「…………な」
ぴたりと面白いくらいに弓弦の動きが止まった。目を丸くして、鋭さも吹き飛んで、信じられないように茨を見る。思わず笑ったら、そこで我に返ったらしい。弓弦は両腕を突き出して、茨の身体を思い切り押し返した。そのままベッドの端に尻もちをつく。
「な、何を……何のつもりですか」
「何って。もしや、弓弦ともあろうものが知識も経験も全くおありでないとか?」
わざと馬鹿にした言い方を選ぶ。弓弦はすぐに意味を理解したようで、目を逸らしながら舌打ちをした。
「……執事として、必要のない事柄ですので」
「へ」
視線を落としたまま、弓弦はそう答えた。本気で知らないとは思わなかった。茨は尻もちをついたまま弓弦を見つめて、それから軽く頭を掻いた。
「……まあ、じゃあいいですよ。今年はこれで」
溜息混じりに姿勢を直して、茨はベッドの外に足を投げ出して座った。弓弦の困惑した様子を見て、茨は片眉を上げる。そして動かずにいた弓弦に再度顔を寄せる。咄嗟に後ずさったその襟をつかめば、珍しくも弓弦がこらえるように目を瞑った。茨は少し笑い声を立ててから、その頬に唇で触れた。
扉を押し開けた先はやはり冷え冷えとしていた。ホテルに入る前よりも、夜が深まったせいでもっと気温は下がっている。腹に入った拳の痛みが疼いて、声を漏らしたら、それも白い息として美しく空へ昇華されていく。それを苦々しく思って見上げれば、弓弦が完璧な笑みを浮かべて茨を見下ろしていた。
「くそ……」
「雪で冷やしますか?」
「結構です」
からかってくる視線を避けて、革靴で雪を掻きわける。くすくすと笑いながら、弓弦も後に続いている。
大通りに戻ってくると、先程とは違った明るさで目がやられる。それはイルミネーションだった。浮かれたクリスマスツリーが、電飾できらきらと輝いていた。その様子はまるで、どこかのアイドルのようだ。
街は暗くとも、まだ眠っていない。浮ついた人々が身を寄せ合って歩いている。ちらと後ろを見れば、弓弦もまた目を細めていた。茨の視線に気が付くと、苦笑いをして見せた。
「茨。結局、あなたの目的は果たせたのですか? なんと言いますか、一般的な学生の寄り道……のようでしたけれど」
隣に立って、弓弦はそんな事を聞いた。その顔色はすっかりといつも通りの肌色に戻っていて、安堵してしまった。
「まあ。実りはありましたよ、少しは。本当なら敵情視察がしたかったんですが、入れないんじゃ仕方ありませんし。それより、あんたの情けない姿が見れましたから!」
「そうですか」
「…………おい、何だよその生温い視線」
「いえ、別に。楽しそうでよかったですね、と」
「どこが!」
「わたくしは楽しかったですよ。少しは」
驚いて、思わず弓弦の顔を見る。にこりと微笑む表情だけがそこにあった。
「……そうですか!」
心に纏わりついてくる情動が鬱陶しい。それを振り払うように声を上げれば、弓弦が小さく笑う気配がして余計にむず痒い。いらいらと歩を進める。その背中に、また弓弦が声を掛けてくる。
「……先程はありがとうございました、茨。あなたは口が裂けても良い子だとは言えませんが、今年くらいはサンタさんが来てくれるように願っていますよ」
しんしんと雪はまだ降っている。弓弦の口からも、同じくらい白い言葉が流れて立ち上っていく。今日、初めて聞いた、馴れた声色の言葉であった。茨は弓弦を一瞥して、鼻で笑う。
「そんなもの居なくても、勝手に袋の中身は奪えば良いんですよ」
「あなたはまた、そんなことを……」
呆れたような声を零す首筋に手を伸ばす。素早く下がったそのネクタイを引っ張れば、体を捻じって腕を掴んでくる。引き倒そうともう片方の腕が絡んできたところで、頭をぐいと引き寄せた。
「ん」
離れた後、弓弦は少し呆けた顔をした。それからすぐに顔を顰めて、溜息をついた。
「人の嫌がる顔がプレゼントですか? それで良い子にしていたなんて、良く言えましたね」
「嫌ですか?」
「……ええ、と?」
叱るときの弓弦は、じっと目を見てくる。茨もその目を見つめ返したら、やっとたじろいだ様子で茨を見た。目が合い数秒後、じわりと弓弦の頬に血がめぐっていく。驚いて、それからやっと理解して、弓弦は口を噤んでしまった。茨はそれを見て満足げに笑う。
「くれます?」
「……ちょっと、待って」
「あいにく悪い子なもので。待てません」
冷えた背中まで腕の中に引き寄せたところで、弓弦の門限が頭によぎる。しかし、あとちょっとだけだからと言い訳しながら近付けば、弓弦が強く目を瞑った。微かに震える瞼を目前にして、まるで普通の恋みたいな速度で、心臓がばくばく鳴っていた。
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