墨が紙を滑る音だけが在った静かな空間に、騒々しい足音が割り込んできた。下に向けていた視線ごと顔を上げたら、重いはずの扉が蹴り飛ばされる。
「おい、フロイド――」
やや嫌な金属音が立って、文句を言わんと口を開く。フロイドはとん、と一度足を鳴らし、汗だくの顔を振って、いつになく真剣な目でアズールを貫いた。
「助けて、アズール! ジェイドが泡になるって!」
喘鳴の合間に叫ばれた嘆願が、長らく閉じていたアズールの鼓膜を殴りつけた。ぼたぼたとフロイドの汗がラグに落ちる。彼はそれを拭いもせずに、壊れた扉に縋り付いたまま、真っ直ぐにアズールを見ていた。
それだけで、アズールには今の言葉の真実性が理解出来た。
「……どういう、事ですか?」
渇いた喉をやっとの思いで震わせ、出した言葉はそれだけだった。紙面に付けたままにしていたペンからは、黒い墨が零れ、白い紙に広がっていた。
逸る自らの心臓をどうにか落ち着け、諫めたフロイドは正面のソファーに浅く座っている。視線は忙しく動いているし、趣味の良い靴の踵も潰れそうな程に床を叩く。何よりも、眉を顰めて目尻を下げた表情が、抱える激情を示していた。
「もう一度、落ち着いて説明をしてもらえますか」
未だ呼吸の荒いフロイドに、努めて冷静な声を掛けてやる。彼は一度歯噛みし、足の間で組んだ両手の指を固く結んだ。爪が手の甲に食い込む。
「さっき、ジェイドが……オレ、今日キッチンだったでしょ。それでさっき、ホールの方がうるさくなったから見に行ったら、ジェイドが人魚に戻りかけてて。びっくりして、すぐ裏の水槽まで連れてって、それで」
そこまで話して、一度息を吸う。ホールから水槽までジェイドを運び、その直後に走ってアズールの元まで来たのだろうと想像が付いたので黙って待つ。
「変身薬飲み忘れたのって聞いたら、違うって……『期限』が来たから、泡になるんだって、言ってた」
コーヒーテーブルが音を立てずれる。不機嫌なフロイドの足が蹴ったせいだ。
「何でって聞いたのに、何も言わねーから」
「だから僕のところへ来たんですね?」
低いテーブルを膝で押し返す。すると肯定の代わりに勢い良く立ち上がり、引っ掛けていた帽子を捨てた。確固たる色を持った瞳に見下ろされ、アズールも頷いてソファから離れる。
「ジェイドは」
「まだ水槽んとこにいる」
机に置いていた帽子を被り、ポールハンガーからコートを取り、肩に引っ掛ける。フロイドが早くしろと目で訴え掛けてくる。そのまま鏡も確認せず、二人で部屋を飛び出した。
営業中のラウンジは未だ喧騒に包まれていた。やけに壁際に人だかりが出来ている。怪訝に思いそちらを見た途端、フロイドが走り出した。止める間もなく人だかりに突っ込んでいき、蹴散らす。
「フロイド! 騒ぎを起こすなといつも言って……」
丁度良く空いた道を辿り行く。フロイドは水槽に張り付いていた。その口から零れた超音域で、説教を垂れる言葉を途中で止めた。それは故郷の言葉だった。人間には聞こえない声で、叫んだ。
「ジェイド、何でここに居んの!」
当然、足を止めてしまった。周囲の人間達は遠巻きに、フロイドの方を見ている。ぽこん、とその頭上から泡が飛んでいくのが見えた瞬間に叫びそうになり、喉から引き攣った呼吸が漏れた。全身の血が抜け出てしまう様な冷たさが巡る。しかし、揺れる泡がいくつも現れ、それを尾が掻き混ぜたのが見え、心臓に熱が戻った。
フロイドの体躯に隠れていた体がゆらりと水中に舞い上がる。また店内が騒めき、視線が寄る。
「何をしてるんだ、お前!」
思わず超音域で声を荒げ、早足で水槽に近寄る。数度足を鳴らして背後を睨めば、集っていた雑魚の群れは捌けていく。壁に埋め込まれた海に手を付き、狭いそこで悠々と泳ぐ人魚を見上げると、見慣れた笑顔が降ってきた。
「せっかくなので、集客でもしてみようかと思いまして」
太い硝子の向こうからくぐもった声が返ってくる。フロイドが硝子を蹴った。ジェイドは困ったような顔を作ると、後ろへ退いた。
「しかし実際、効果はあったでしょう?」
今度はアズールの方へ視線を遣って言う。いつの間にかずれていた眼鏡をかけ直し、そうですね、と答える。
「そこで泡になって消えた場合、この場に居る全生徒にトラウマを植え付ける事になるでしょうね」
「おや、ご存知でしたか」
「何のために、ここに来たと思ってるんだ」
わざとらしく硝子に手を触れ、一枚を隔て手を重ねてくる。壁に爪を立て、深呼吸した。ぎい、と硝子を引っ掻いて音が立つと、フロイドが顰め面で耳を塞いだ。同時にジェイドも眉を上げ、背を逸らす。
「説明をしなさい、ジェイド。今すぐ」
「怖いですねぇ。そのまま割らないで下さいね?」
「いいから、言え」
一度拳を固めて壁を殴りつければ、またフロイドが顔を顰めた。ジェイドは「困りましたね」と微笑み、拳をなぞる様に透明な壁に指を触れた。
「でも、すみません。言えないんです。約束をしましたから」
アズールに触れようとする手と逆の手が、フロイドが肩を預けた壁をつつく。彼はそちらに視線を向けて、不満気に眉を下げた。ずるずる地面に引き付けられていき、地面に尻を付ける。大きな溜息と共に、口を開けて人魚姿の片割れを見上げる。
「その約束って、オレらより大事なの」
長い尾を振って地面近くまで降りてきたジェイドが、フロイドの方に顔を寄せる。額を壁にくっつけたら、フロイドも合わせる様に硝子に頭突きした。また超音波が響いて波を作る。アズールはもう一度、硝子を殴る。手の柔らかい皮膚が痛みを返される。
「『期限』って、何です。お前、契約でもしたんですか。僕以外の、何かと」
僕とは、したくないと言っていた癖に。
悔しさだか、怒りだかで乱された頭を整理したくて頭を振る。答えを待って水槽の中に収まるウツボを睨みつける。彼は目を丸くしてアズールを見ていた。そして、唇から空気を漏らし泡を立ち上らせ、眉を下げ、言った。
「言えません」
それは予想していた言葉だったが、なぜか酷く傷つけられた気がした。俯いて唇をきつく噛む。すると、目の前の硝子がこん、と優しくノックされる。
「契約内容に反する事は言えません。でも、契約書に明記されていない話はできますよ」
「ああ……そうですか。そいつ、契約が下手なんですね」
「ふ……いえ、僕はそうは思いませんが」
馬鹿にして笑ったら、ジェイドは滅多にしない柔らかい笑い方をした。それを見たら心臓の辺りがずきりと痛む。こいつは本当に泡になってしまうのだと認知した。
早く手を打たなければ、と壁を叩いて催促する。彼はまた微笑んで、ええと、と口を開く。
「詳細は省きますが、まず僕は、明日の明朝に泡になり消滅してしまいます」
「明日!? もう数時間しかないじゃないか!」
腕時計を確認して怒鳴る。フローリングに座り込んでいたフロイドが泣きそうな顔でアズールを見上げてきた。
「それを止める方法は、大きく分けて二つあります。でも、どちらも不可能なので……実質、無理、というわけです」
「――無理?」
ぴく、と眉が吊り上がるのが分かった。引き結んでいた口元も引き攣っている。腕に力が籠るのを感じ、硝子を砕く前に体の方へ引き寄せた。
ジェイドもフロイドも、黙ってアズールを見つめている。震える腕で帽子を引っ掴んで、感情のままに放り捨てた。
「この僕に! 出来ない事があるとでも!? 何を勝手に諦めて、消えようとしているんだ! 誰に断って、泡になろうって言うんです!」
ぐしゃりと前髪をかき混ぜ、目の前で泳ぐ大きな魚を視線で射抜いた。驚嘆に目を開いたジェイドが、困惑に眉を下げている。その全てに苛立った。
「言え! 全部、僕が叶えてやる! 契約なんか要りません、対価は――お前の人生だ」
まず声を上げたのはフロイドだった。え、と意外そうに言い、それから呆然とした顔で口をぽかんと開けた。
「アズールが公開プロポーズしてるー……」
それから、じわりと顔を赤くしたジェイドが、両手で口を覆い、か細く超音波を発した。
喧騒の中を抜け出し、ジェイドを再び裏の水槽に移して、ほっと息をつく。真剣な様子を見世物にされては堪らない。三人だけになった部屋で改めて顔を突き合わせると、双子からの視線が痛く感じて強く咳払いをした。
「それで? 泡になるのを止める方法ってのは何なんです?」
「はい、まず一つ目ですが」
存外に深い水槽から顔を出したジェイドは、淵に肘を掛けて二人と目線を合わせた。フロイドは彼の傍まで寄っていき、鱗に覆われた肩に腕を引っ掛ける。
「僕の”恋”を叶える事です」
「……は?」
「まあ無理なんですが。なので、二つ目の――」
「いや待て! お、お前、恋なんてしてるんですか? 一体誰に?」
思わずアズールも傍まで駆け寄って肩を掴む。水掻きのある掌がそれを諫める様に優しく叩き、首を振る。普段なら、そこで詮索はやめる筈だった。しかし不思議と焦燥感が邪魔をして、手を離す事が出来ないで、そのまま言葉を次ぐ。
「教えてもらえれば、僕達に協力できるかもしれませんよ。何なら、成就した後でこちらの記憶を消したって構いません。そう隠す事でもないでしょう。とりあえず惚れ薬でも盛って一時的にでも恋をさせ」
滔々と流れる文句を水に濡れた指が留める。少し悲しげに微笑み、腕をだらんと伸ばして水槽の外壁に手を付いた。呆けてそれを見詰めていると、すいと目が逸らされる。
「今の貴方を見て、確信しました。僕の恋が成就する事は有り得ません。なので、二つ目になるのですが」
「ジェイドぉ~……」
話を進めようとするジェイドの首にフロイドの両腕が巻き付いた。鼻を啜りながら、濡れた首筋に額を擦りつけている。それをぽんと叩いて鎮めながら、アズールの方を向く。
「二つ目は、僕の意中の相手を”殺す”事です。まあ、これも無理ですね」
「……何ですか、その条件。よっぽどふざけた奴と契約を交わしたらしいな」
――王子との恋を叶えられなければ、泡になる。それが嫌なら、王子を殺すしかない。
深海でも、陸でも著名な伝説だ。それを、人魚であるジェイドに持ち掛けるというのは、とんだ悪趣味だとしか言えない。虫唾が走る。肩からずらして鰭の付いた手を握る。目を見詰めてやれば、曖昧に微笑んできた。
だから、アズールも微笑み返した。
「僕がお前を助けてあげますよ。そんな事、お前を失うのに比べれば些事ですから」
鰭に顔を埋めたままのフロイドからも、くぐもった共鳴の声がする。逃がすまいと指を絡めて握る。ジェイドは表情を失って、目線を落とす。困惑がありありと伝わってくるが、あまり待つ時間はもう無かった。
顎を持ち上げて無理矢理目線を合わさせる。揺れる瞳がアズールを中心に捉える。
「教えなさい。お前が、誰に、恋をしたのか」
「……無理ですよ。貴方には殺せないんです。僕にも、フロイドにも」
粘液で濡れた顔を上げたフロイドと目を見合わせる。頭の中に駆け巡るのは、見知った寮長、副寮長達の顔。しかし、どれもそうだと思えない。ジェイドが”無理”と断言するに足る人物が思い浮かばない。
焦れてジェイドに顔を寄せる。途端、僅かに瞳孔が開き、目を伏せられた。
「そんな奴はいません。言いたくないだけだろう。言わないなら、こっちも強硬手段を取るまでですよ」
一度手を離し、一歩下がる。俯いたジェイドの目線だけがアズールを追う。ちら、と時計を確認する。あと二時間。間に合うと確信を持った。
「フロイド! その馬鹿を見張っていて下さいよ!」
「え? あ~、はぁい」
気の抜けた返事を背中に浴びながら部屋を出る。真っ直ぐに向かうのは、校舎だ。
夜中の校舎に忍び込む形で足を踏み入れ、軽く魔法で明かりを灯す。微かな光源を頼りに教室を確認し、辿り着いたそこに入る。
薬品棚に羅列した瓶を吟味し、その中からいくつかを取り出し机に並べる。おざなりに置いてある段ボールからも薬草を取り出して、暗い教室の中で火を放った。煌煌と燃える赤い火に大釜を乗せ、脳内に叩き込まれたレシピをなぞって薬品を投げ入れていく。乱暴にならないように丁寧に、順番を守って、温度を調節する。緊張で冷汗が垂れてくるが無視をして、釜の中身を掻き混ぜた。
ぼん、と煙が上がったのを確認するや否や、傍にあった空の瓶を引っ掴んで中身を注いだ。完成度の確認もそこそこに、すぐさま教室を出たアズールは再び来た道を戻った。
二人を待たせていた部屋に戻った瞬間、渇き切った声帯が喘鳴に似た空気を鳴らした。部屋の中は空っぽだった。瓶を机にたたきつける様に置いて、咄嗟に水槽を覗き込む。そして、ほっと安堵の息が漏れた。
水槽の底で、二人の人魚が縺れ合って沈んでいた。アズールにとってはひどく見慣れた光景だ。しかし、この時ばかりは違う意味を突き付けられた気がして、崩れ膝を付く。諦観のままに息をした。
ああ、そうか、確かにそれは殺せない。じくりと心臓がまた痛んで、今度こそ、その痛みの意味を解した。このままでは僕が泡になってしまいそうだと自嘲する。置いた瓶を掴み直し、煩わしい衣服を取り去って、水槽に飛び込んだ。
水飛沫を零しながら人間体が少し泳いで魚に変わる。増えた足で水圧を押し、底へ行く。鏡合わせの二対の眼がアズールを映した。フロイドは先程のアズールと同じく安堵の表情を浮かべ、ジェイドは悲し気に目を伏せた。付きまとう感情の全てを振り払い、そこへ降りた。人工の砂利に横たわるジェイドの腕を掴んで引っ張ったら、無抵抗に浮き上がってくる。フロイドも追いかけて浮上した。
「ねえ、何すんの?」
泣きそうな顔はどこへやら、今は楽しい事を待っているいつものフロイドに戻っていた。暇そうなその手に瓶を押し付けると、無力に浮かんでいるジェイドのもう一方の腕も掴んだ。両腕を掴んで引き寄せて、逸らされ続ける目を覗き込む。やっと目が合ったと思えば、にこりと嘘に細められて見えなくなった。
「大丈夫、僕がいなくてもフロイドがいます。気分の上下に目を瞑れば、今後のアズールの予定が狂う事はありませんよ」
「馬鹿」
がん、と思いきり額に頭突きをした。咄嗟に目を瞑ったまま、「痛い!」と叫び頭を垂れる。晒された後頭部に向け、募った怒りをぶつける。
「もういい。お前に何を言っても無駄です。フロイド、それを飲め」
「は? ヤだ。アズールが飲めよ」
「それじゃ意味ないんだよ」
「いや、オレが飲む方が意味ねーじゃん。ばーか」
「ああ?」
口を尖らせたフロイドが瓶を放り投げる。咄嗟に近くにあった足でそれを拾い、フロイドを睨む。相手も同様に剣呑な目でアズールを見返している。
「どーすんの。アズールが飲むの? ジェイドに飲ませんの?」
フロイドの気まぐれな尾が水槽の壁を叩く。微かに罅が入るのが見えたが、今はそれを咎めずに瓶を自らの方へ引き寄せる。
「お前なんかに飲ませなくて良かった」
苛立ちが勝り、強い口調で罵倒に近い返答をする。ジェイドの方を見ると、少し濡れた瞳がアズールを見ていた。正確に言えば、アズールの持つ瓶の方。優秀な彼の事だから、この中身が何か勘付いたのだろう。傷付いたのではと心配をして表情を窺うが、そこには戸惑いしか見えない。
「あいつは諦めなさい」
瓶の中で空気が逃げ出したくて揺れている。蓋を緩めた途端にぽこぽこと泡が上がる。二の腕を握って引き付けると、ジェイドの体が強張った。
「恋もできない、殺す事もできない。なら、この際、別の恋をしたらどうです?」
栓をしていたコルクが水面に向かって急浮上する。中の液体だけは、ゆっくりと瓶の中を人工海水と共にかき混ざっていく。揺れるジェイドの瞳がそれを見る。
「今日だけでいいんですよ。あと一時間、その間だけ――」
瓶の口を、震える彼の唇に近付ける。はく、と酸素を求める陸の魚みたいに動かした。
今にも涙が溢れそうな眼が、みっともなく泣いているアズールの顔を映していた。
「僕に、それを下さい」
言って、傾けようとした瓶が顔の横を通り過ぎる。弾き飛ばしたその腕がアズールの方へ伸びる。頬に触れ、抓るように掴まれ、痛みを訴える前に言葉が奪われた。
「――――!」
眼前に黄金と橄欖がある。大きく見開いた瞼が引き攣る。所在を無くした腕が水中を漂っている。すると彼は両手でアズールの頬を挟み、ぎゅうと目を閉じた。水中にあっても、塞いだ瞼の合間から涙が零れているのは視認できる。
もう一度、瞼が持ち上がって、二色の瞳孔がゆらゆらとアズールの瞳を眺める。その意味が分からない程、鈍感な性質ではなかった。
二本の腕でその背中を抱き寄せて、六本の足を長い尾に巻き付けて、全身でその実体を求めた。泡になどさせる筈がない。契約も、叶わぬ恋も、全てはアズールの物だったのだから。彼の唇が緩むのが分かる。アズールも笑おうとしたが、口から洩れたのは情けない嗚咽だけだった。
水槽から上がった人魚たちは、二本の足を床に付け、向かい合って座っていた。時刻は真夜中で、三人の居座る談話室には誰もいない。温かな紅茶の乗るテーブルを囲んで、息をついていた。
「つまりぃ、アズールのせいって事ぉ?」
「どんなまとめ方ですか」
ぼさぼさの頭を更に掻き乱しながらソファに背を預ける。目を閉じ、数分で詰め込んだ情報を思い返す。
ジェイドが恋をしていると語った時、咄嗟に口にした”成就した後、記憶を消す”という契約を交わしていた。それがこの騒動の真相だった。思い出せない一週間前のその日、ジェイドから恋をしていると相談を受けたアズールは本日同様に驚き焦って、かの人魚姫に課した様な契約を結んだ。それも偏に、ジェイドの恋を叶えさせたくなかったアズールの感情のせいであった。思い出せないままに自己嫌悪に陥る。
「でもさあ、なんでこんなめんどくせー契約にしたの? マジで泡になったらどうする気だったわけ?」
「泡になるくらいなら殺すと思ったんですよ……!」
「おやおや……ま、相手がアズールでなければそうしたでしょうけど」
いけしゃあしゃあと言ってのけるジェイドは美味しそうに紅茶を啜った。それを恨めしい思いで見つめながら、今しがた告げられた言葉に心臓が満たされるのを感じて呻く。脛を軽く小突かれて顔を上げると、にや、と笑うフロイドと目が合う。
「ねージェイドぉ、アズールさぁ、ジェイドが恋してんのオレだと思ってたんだよ」
「えっ、なぜ……?」
「う……うるさいな! こっちも混乱してたんですよ!」
「つーかジェイド、自作自演でも助けてもらったんだしぃ、ちゃんと対価払わねーといけないね」
「誰が自作自演だ」
カップを置いたらがしゃんと音が鳴ってしまった。今は三人だからマナーも何もないが、力加減を間違えたかと肝を冷やした。ソーサーを確認するも傷はない。ほっとしてもう一口、紅茶を口に含んだ。
「対価はぁ、ジェイドの人生なんでしょ?」
「……あ」
ぶ、と吹き出しそうになったが手で押さえ飲み下す。フロイドは楽しそうににやにやしている。隣に座したジェイドは適当に微笑んでいる。大体、動揺している時の顔だと気付いて、アズールの方が真っ赤になった。それに気付いたフロイドが噴き出す。
「アズールゆでだこじゃ~ん!」
「うるさいっ! さっさと寝ますよ!」
「一緒の部屋でぇ?」
「ああもう!」
頭を抱えながら立ち上がると、それを追う様に双子も席を立つ。二人は顔を見合わせて笑うと、アズールの後を追い掛けてくる。弾んだ足音だけで、今夜一杯は揶揄う気であるのが透けていた。だからアズールも振り向いて、一呼吸おいてから、言った。
「ええそうですよ、折角両想いになれた事ですし、今日からは一緒に寝る事にしましょうか? フロイドもご自由にどうぞ?」
固まる双子に溜飲を下げ、勝ち誇った笑みを浮かべてやる。ジェイドの視線がずるずる下に落ちていく。対照的にフロイドの目線は上へ行く。
「オレ行きたくねー……何か始まったらヤだし」
「待って下さいフロイド、僕を一人にするつもりですか」
「二人にすんだよ」
肩を組んでいたフロイドの腕が無慈悲にジェイドの背を押した。油断していたらしい彼は素直につんのめって、アズールの肩を支えに体勢を戻す。去り行く薄情な兄弟を見送り、正面に向き直したジェイドと改めて目が合った。ぶわり、とその顔が赤く染まる。さすがに驚いて、え、と声が漏れた。俯いた顔を下から覗き込むと、顔を横に向けて手で隠される。その腕を掴んで退かしたら、ぽろ、と再びその瞳から涙が零れた。
「ジェイド、好きですよ」
「やめて下さい」
「嫌ですよ。このまま、また泡になるだのと言われては堪りませんから」
目頭にキスをしたら、思いきり顔を顰めて首を振った。それから盛大な溜息をついて、物憂げな仕草で頬に手を付く。
「ああ、こんな事なら泡になった方がマシでした……」
「はっ。僕に恋をしたのが運の尽きですよ」
「そこはお互い様ですけどね」
今度は優しく微笑みながら、アズールの肩に手を置いた。今日はころころ表情が変わる、と珍しく思って見上げていると、こつりと額がくっついた。
「ねえ。僕の一生、貰って頂けますよね?」
形のいい口角が持ち上がる。鋭い鮫歯が覗くその表情に、自らの口角も吊り上がった。
「ええ、そういう契約ですから」
ぎゅう、と眉が垂れる。悲しげに形作られた見慣れない笑顔が降ってくる。そんなイレギュラーにつられてか、アズールもまたらしくなく笑った。
「じゃないと、フロイドが一人になってしまいますしね」
「え?」
一瞬、理解が出来なかったようで目をぱちくりさせた後、あ、と口を開けて、それから笑った。その笑顔を見てやっと、もう泡になる様な、人魚姫の様な顛末をこそ殺し切ったと了知した。
さて次に心配すべきはフロイドか、と考えて、笑った。もうここには人魚姫も魔女もいないのだ。泡にならず腐り行く最期まで、ただ三人で泳ぎ続けていけばいい。
目下は、この目の前で笑う恋人を鎮める所から始めようと、息も絶え絶えな背中を強く叩いた。
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