花瓶に差した紅色

 

 水を容れた霧吹きを揺らしながら、鉢の並べられた棚へゆったりと歩み寄る。高い目線の位置と丁度合致する場所に、小さな硝子の鉢が配置されている。じっと透明な壁の向こうを観察して、それからゆるりと口角を上向けた。
「今日は調子が良いみたいですね」
 指に引っ掛けていた霧吹きを棚の縁に置き、両手でそっと鉢を掬う。少しの刺激も与えないように、可能な限り穏やかな所作で作業机まで運ぶ。音を立てずに置かれた鉢の中で、小さな白い花が揺れる。その正面で相対するよう椅子を引いて座った。
 鉢を上から静かに覗き込む。人工的な栽培は難易度が高い、と図鑑で滾々と連ねられていただけあって、かなり繊細に心を砕く必要があった。ここ数週間の事を思い出して、目の前で微々に根を張る植物への愛おしさが溢れて表情が緩む。

 暫し花を眺めて、さて水を遣ろうと椅子を引いた所で、派手な音を立てて扉が開く。
「ジェイド! ここにいるんだろう!」
 次いで聴こえてきた怒声に、軽く告げるつもりでいた挨拶を引っ込めた。ずかずかと近付く足音に、何となく息を潜めながら実験着の襟を正した。
 音を殺して席を立ち、鉢を両手で包む。外部刺激はなるべく断たなければ萎れてしまう。そうして棚へ戻すべく掬い上げたところで、時間切れだった。
「やっぱりここか! どうして返事をしなかったんです!」
「アズール、静かに」
「は?」
「そんなに大声を出したら、この子が枯れてしまいます」
「……はあ?」
 手の中に大事に包み込んだ硝子を少しの隙間を開けて見せてやると、ただでさえ吊り上がっていた目が剣呑に歪む。直感的に不味いと理解して、素早く棚の方へ寄り、そっと小さなテラリウムを飾った。
 直後、グローブを嵌めた右手が掴まれる。ぎりぎりと絞めるように力が籠められ、頭には疑問符が浮かぶばかりだ。
「あの、アズール? どうして僕は怒られているんでしょう?」
「お前が時間になってもラウンジへ来ないからでしょう!」
「いえ、そうではなくて……」
 このまま取っ組み合いにでもなっては棚を揺らしてしまう。そう思い、なるべく刺激しないように、そっと肩を押して離れる様に動作で示す。するとアズールは黙って、ジェイドの腕を引き、どすどすと歩き出した。

 これは本当に珍しい事だ、と面白く思う反面、理不尽に怒られた事であの花が傷付いてはいないかと心配になり、寮へと帰る道すがら何度も振り返る。そして数回目には手の甲をぎゅっと抓まれた。
「痛っ! ああもう。さっきから何なんです?」
「それはこっちの台詞です! さっきから何度も何度も振り向いて、鬱陶しい!」
「ですから、何をそう怒っていらっしゃるんですか? 僕、そんなに悪い事しました?」
「ええ、それはもう! 分かりますか、ただでさえ忙しい時期なんですよ? ここ数週間、僕には全く会いに来なかった癖に、たかが花ごときにあんな笑顔を――」
 ぶつりと言葉が不自然に途切れる。段々とヒートアップしていた言葉のボルテージに気圧されてまともに聞いていなかったが、最後の文句だけは丁度耳に入ってしまった。
 忙しい時期に何を遊んでいるんですか、と言われると思い聞いていたせいで、ジェイドも暫し思考が鈍る。つまりそれは、と結論は何度も出るが、喉に引っ掛かって中々咀嚼できない。
 それから無言の時間が過ぎて、控えめになった足音だけが廊下に響く中、ジェイドはぽかんと開けていた口をやっと閉じて、問いかけた。
「つまり貴方、花に嫉妬したって事ですか?」
 ぴたりと足が止まった。急に腕を引く力がなくなったせいで背中にぶつかる。さらに言い募ろうと口を開く前に、目の前の頭が勢いよく振り向いた。
「そ――そんなわけあるか!!」
 全身の血が集まったかと思うほど真っ赤な顔で紡がれた怒声は全く以て説得力がない。掴まれた腕の痛みも、枯れるかもしれない花の事も、それだけでどうでも良くなって、そのまま腹を抱えて笑ってしまった。

 

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