秋風が吹いている。最近はめっきり冷え込んできて、防寒具も無しでは外に出る気もしなくなってきた。薄手のコートを掴んで引っ張りながら、冷たい手指を忙しく動かして寒さを誤魔化す。寒気には通常の人間より強い筈だったのだが、悪い方向に慣れが働いたのだろうか、ここ数年で冬は雪を眺める季節ではなく幾重にも服を着込む時期と認識を改める事になり、冬支度という習慣を会得した。しかし、まだ海底に居た頃の感覚が抜けきらずに、冬直前になって準備を怠っている事に気が付く。溜息は白色になり空へ立ち上っていく。さて、マフラーと手袋はどこへしまっていただろうかと考え、同居人の顔が思い浮かんだ。白い息を見上げながら、彼らも同じ思いを味わっているかと思うと少し笑える。特に、あいつは。
涼しげに微笑む表情が鮮明に想像できたところで、鞄に重みを感じた。鞄の口を緩めて覗くと、がさりとリボンの絡まった包装紙が見える。それを見詰めながら、ふと憂欝な気分になる。自分で購入しておきながら、これを手渡す作業が億劫に思えてきた。渡して、これを相手が気に入るかどうかは問題ではない。これを、自分が”意図”を持って渡せるかどうかだ。
路傍の低木が立ち消えた所で背の高い集合住宅が姿を現したので、そこで立ち止まる。気合を入れるべく深呼吸する。そして鞄に手を入れ、プレゼントを掻き分けて四角い感触を取り出し、インターホンに翳す。電子音が響いて、透明なガラスのドアが静かに開いた。しかし、エレベーターへ真っ直ぐ向かったところで立ち止まる羽目になった。
「……故障……」
おざなりな張り紙をつい読みあげて、口をゆがめる。数年前まで暮らしていた学生寮を思わず浮かべて溜息が出る。これだから一般の機械は信用ならない。ちらと視線を泳がせ、目に付いた長い階段に、また溜息が出た。
「はぁ、はぁっ……」
呼吸の度に白く視界が曇るのが鬱陶しくて堪らない。少しずつ大きくなっていく足音も耳障りだ。ずれるコートは脱いで肩に引っ掛けて、鞄も持ち直す。目的の階に着いた頃には、脚は限界を告げていた。これでも昔より体力は付いた筈だったのに。疲労感と自分の体力に対する失望でよろめきながら、縺れる指で見慣れた番号の扉に再びカードキーを通した。
ドアノブを捻って押し開ければ、暖かな空気が冷え切った頬を包み込んで、その安堵で一気に膝から崩れ落ちてしまった。
ルームナンバー307
コートと鞄をどさりと玄関に投げ、ブーツを脱ぐ。久しぶりに酷使した脚は若干痺れている。そんな中でも、どうにか脱いで他の靴と同じく揃えて置いていると、ゆったりとした足音が部屋の中から聞こえてくる。がちゃりと丁寧に開かれたドアの向こうから、先程思い浮かべていた顔の片一方がひょいと覗いた。
「おや、アズール。お帰りなさい」
「ええ……ただいま戻りました」
「どうしました? 満身創痍のようですが……」
白々しく笑いながら、鷹揚とした足取りで傍へ歩み寄ってくる。嫌味な程に自然に、恭しくコートと鞄を拾い上げる様を具に眺めてしまいながら、疲れ切った膝を無理矢理に働かせて立ち上がる。
「知っているでしょう。故障していたんですよ、故障!」
「ああ、エレベーターですね。それが何か?」
「何か、じゃない! だから僕はくそ長い階段を上る羽目になったって言ってるんだ!」
「それはそれは……」
壁に手を付いてリビングへ向かう。背中にくすくすと人を小馬鹿にした笑い声が掛けられ、とかく疲れている僕は柄にもなく苛立った。そのまま振り向いて睨みつければ、すぐ困った顔を作る。
「何ですか?」
「いえ、大変お疲れ様でした」
「……何だよ!」
「ふふ」
コートハンガーに僕のコートが掛けられ、定位置に鞄はそうっと置かれた。含みのある笑顔を睨んだまま、どっかりソファに腰掛ける。まだ足の裏がじんじんと痛みを伝えてくる。喉もカラカラだ。
「お前は山登りで慣れているんでしょうが、僕は違うんですよ。そもそも、長い階段を上る機会なんてそう無いんです。疲れるのも普通の事ですよ、普通!」
「はい、僕もそう思いますよ」
「はあ?」
キッチンから柔らかく言葉が返ってきて、眉を顰める。コップにサーバーから水を注いだジェイドが、最初からずっと変わらない笑顔のままで僕の前にそれを置く。
「馬鹿正直に階段を使っていたら、流石の僕でも疲労困憊だったでしょう」
「は? じゃあお前、どうやって上がってきたって言うんですか? まさか魔法じゃないでしょうね」
「いえ、ただもうひとつのエレベーターを使っただけですよ」
「…………は!?」
口を付けかけていたコップを取り落としそうになって、咄嗟に机上に戻した。ジェイドはと言えば、それは楽しげな笑いを噛み殺して大きな掌で覆い隠している。その鋭い歯は、こちらからは丸見えだ。悔しさやらあほらしさやら、押し寄せてきた感情の波に疲労困憊の脳味噌が茹だってきた。最終的には頭を抱えて、疲れ切った息を吐き出した。
「階段の裏側にありますよ。次回からはぜひご活用下さい」
「うるせえ……」
「ふふっ」
冷え切っていた髪を掴んで掻き回しながら、鞄にしまってある包装済みのマフラーは急遽自分の物にする事に決めた。同時に、これから帰ってくるであろう片一方の同居人には決してこの情報を伝えまいと心に決め、温い水を飲み干した。
――数時間後、玄関が開け放たれると同時に雪崩れ込んできた荷物と同居人の姿に大爆笑して疲労感は吹っ飛ぶこととなった。
「もー、最悪……なんで分かりにくい場所に作んの?」
リビングのソファに四肢を伸ばして倒れ込んだと同時に流れる文句。内心で大きく首を縦に振りながら同意するが、表には出さずに半笑いで水を飲む。長い手足をソファから零れさせながら、彼にも水を出したジェイドをぎっと睨みつけた。数時間前の自分を見ているようで、面白がればいいのか恥ずかしがればいいのか、色々混ぜ込めて息をつく。
「腹減ったぁ!」
「用意してありますよ。少々お待ち下さい」
店員のような対応だな、と思いながらキッチンへ戻っていく高い背中を見ているとフロイドの目が今度はこちらへ向いた。何を言い出すかと随分慣れた爆弾を見返していると、仰向けていた身体を反転させて正面に向き直った。
「アズールさあ」
「はい?」
「プレゼントは?」
一瞬、返答に窮して黙ったのを受け取ったフロイドが顔を顰めた。妙に気恥ずかしくて、コップを置き眼鏡のブリッジを押し上げた。
「買い損ねました」
苦々しげな表情で口を開きかけたフロイドは、ふわりと漂ってきた出汁の香りにばっと体を起こして立ち上がった。
「鍋じゃん! 今日、出先でメニュー見かけてすっげえ食べたかったんだ~! さすがジェイド!」
「ふふふ。丁度、僕も食べたかったんですよ。アズール、よろしければ手伝って頂いても?」
「はいはい、今行きますよ」
コメントを残す