第九幕
二度寝した頭がぼんやりしている。フロイドは薄い引き戸を静かに開けて、リビングを覗く。一番最後に起きた日は気を遣わなければならない、という暗黙のルールを失念していた昨日の事を思い出して歯噛みする。あのまま勢いでも言えば上手く行っていたに違いない。残念に思いつつ、ソファに座って新聞を読むアズールと目が合ったので安心してリビングに出た。
「おはよお、アズール」
「ええ、おはようございます」
持ち上げていたティーカップを机に置いて、アズールが挨拶を返す。止まらない欠伸を目の前で披露すると、呆れ顔が見上げてきた。
「また夜更かしでもしたんですか?」
「してないけど、眠い」
「……別に二度寝をしてもいいですよ。休日ですから」
新聞を畳み、机の上へ置く。既に眼鏡を掛けているアズールは、早朝にも関わらずすっかり覚醒状態だ。仕事以外では緩くても構わないという方針は、フロイドにとってかなり居心地の良いものだった。大きく伸びをすると、また欠伸が出た。二度寝する事は決定した。
まだふらつく足でキッチンに近寄ると、パンの焼ける匂いがした。それから、ハムと目玉焼きだろうか。
「ジェイド~、おはよぉ」
「ああ、フロイド。おはようございます。もう少しで朝食が出来ますよ」
「ん、食べてからもっかい寝る」
「では、軽めにしておきましょうか」
トースターから飛び出したパンを一枚とって、ナイフで斜めに半分こする。フライパンの中では、目玉焼きと鮮やかなハムが三つずつ綺麗に焼けていた。
「半熟?」
「そうですよ」
目玉焼きを後ろから覗き込みながら問うと肯定が返される。ふーん、と気の無い返事をしながら、考える。ジェイドは大抵、良く焼いた物の方が好きだった。陸に上がってすぐの頃、焼いてくれた目玉焼きは固焼きばかりだったのが、いつの間にか半熟に変わっていた。当初はそれを不思議に思っていたものだが、ある時、アズールが半熟を好きだと言うのを聞いて納得したのだった。
「ふふ。今朝はご機嫌ですね」
思い返していたのが顔に出ていたのか、ジェイドは目線だけフロイドへ向けて微笑んだ。フロイドはそれに頷き笑い返した。
「フロイド。ジェイドの邪魔をしないで下さいよ。朝食が食べられなくなる」
「はいはーい」
にこにこ笑い合っていたら、やはり後ろから渋ったような声が飛んできた。ジェイドとキッチンから離れ、大人しくアズールの正面に座った。向かい合ったアズールは、満足気に紅茶を口元へ運んでいる。これも、陸に上がってすぐと変わった習慣の一つだ。早朝には目を覚ましたいからと言って、アズールは自分で淹れるコーヒーを飲んでいた。そこそこに淹れ方にもこだわっていたし、ついでに飲んだ時も美味しかったのだが、それがいつしか紅茶に取って代わられていた。理由なんて聞くまでもないが、一度だけ揶揄う気持ちで尋ねたら、紅茶にもカフェインがあるだの殺菌効果など健康面でも効率云々と語られてしまった。
「……随分と機嫌が悪そうですね」
「え? すげーいいよ」
「顰め面で言われましても」
またもや思い出した事が顔に出たらしい。誤魔化しも含めて笑い掛けると、アズールも少し笑って紅茶を飲んだ。
「出来ましたよ。フロイド、運んで頂けますか?」
「はぁい」
ジェイドに呼ばれるままキッチンへ駆け寄って、渡された皿を受け取る。こんがり焼けたトーストとハム、完璧な半熟の目玉焼き、色鮮やかな緑のサラダ。カフェのメニューを思わせるそれを受け取ると、ラウンジの給仕業務が蘇ってきた。そのままのテンションで、両手に抱えた皿をテーブルへサーブする。
「おまたせしましたぁ。モーニングセットでぇす」
「どうも、ご苦労様です」
アズールは当然のように頷いて返してきた。面白くなって笑うと、ジェイドもにこにこしながら自分の皿を持ってきた。フロイドは自分の皿をずらして、ソファも座る位置をずらして空間を作る。するとジェイドが横に皿を置いて、隣に座る。これで定位置だ。アズールは偶に位置取りに対してもの言いたげな視線を送ってくるが、この場所だけはまだ譲りがたい。
「そういえばさぁ、今日って何かあんの? 休みなのにすっげー早起きじゃね?」
半熟卵を切り崩してハムを浸しながら、朝一番からの疑問を告げる。アズールの顔を見ながらハムを口に突っ込むと、「行儀が悪い」と咎められた。続いてパンに手を付けた所で、ジェイドの目がフロイドを向く。
「山へ行くんです」
「へー。アズールは?」
薄く塗られたバターが良い塩梅で、ただのパンなのにかなり美味だった。思わず二口目が大きくなる。余った白身を乗せて一緒に食べると、更に美味しい。いわゆる庶民的な食べ方は、往々にして美味しい物だと卒業してから新たに学んだ。
「……山」
「へ?」
「ふふっ……一緒に山へ来たいと言ってくれたんですよ」
口の端からパンくずがぽろりと落ちる。腕を組んで顔を背けていたアズールからの咎めは無かった。そっとジェイドに目を遣ると、心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。そして、ああやっとか、と脱力する。
「よかったねえ」
それは誰に宛てた言葉でもなく、ただぽろっと零れたひとりごとだった。しかしジェイドは目を瞬かせ、アズールはフロイドの方へ目を戻した。
「はい」
「まあ」
そして同時に為された返事に、二人が顔を見合わせる。しばらく続いた沈黙に、耐えきれずフロイドが吹き出した。
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