ルームナンバー307 - 11/11

 
 第十幕

 

 ――今日。
 アズールはリビングの中心に突っ立って、深呼吸を繰り返していた。机の上には、バースデーパーティと変わらない様々な料理が並び、三本のキャンドルの炎が風の無い部屋で微かに揺れていた。呼吸と鼓動が落ち着いてきたところで、ポケットに手を入れる。その中にある四角い箱の感触にまた鼓動が逸る。
 今度はスマートフォンを手に取る。連絡用の画面には、『あと一時間で戻ります』という簡素な報告が表示されている。その送信時刻から、もうすぐ一時間が経つ。
 忙しなくリビングを歩き回って、何度もシミュレーションを繰り返す。ポケットに手を入れては出して、ぶつぶつと呟いては唸る。フロイドは外泊すると聞いていた。正真正銘、二人きりの夜になる。ゆっくりと深呼吸する。失敗は許されない。否、しない。
 今一度とポケットに指を掛けた所で、カチリ、と玄関先から音が鳴る。途端に落ち着いていた筈の心臓がばくりと跳ね上がった。ゆっくり、扉が開いていくのが、スローモーションのように見える。
「ただいま戻りました……アズール?」
 想像と違い暗い室内を覗き込んで、ジェイドの呼びかけに疑問符が付いた。最後にもう一度だけ、鋭く息を吐き出し、アズールは凛と背筋を伸ばした。
「お帰りなさい、ジェイド」
「おや。どうしました、こんなに暗くして……え?」
 リビングへ顔を覗かせたジェイドは、机の上のセッティングに気が付いて瞠目する。そのままアズールに視線をスライドさせるが、彼の目が真っ直ぐにジェイドを貫いている事に気が付いて、また視線がずれる。
 覚悟は決まっている。アズールはやや緊張した様子を見せるジェイドの手を取った。
「どうぞ、こちらへ」
 いつものソファへ促すと、遠慮がちに腰を落とした。落ち着かない様子で室内を観察するジェイドに、アズールは気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
「……開店記念日ですか?」
「違います」
「では、誰かの誕生日を? なんでもない日のパーティですか?」
「違う。……話があるんですよ、お前に」
 用意していた、始まりの言葉を口にする。また緊張が帰ってきたが、空気ごと丸呑みする。ジェイドは平生を装っているが、体が僅かに強張っている。ここ数日で知った事だが、彼は存外に不安を抱きやすい性質らしい。妙な方向へ想像が飛んでいくせいだろう。だからこそ、ここでアズールが言葉を止め続けるわけにはいかなかった。既に表情が固まってきているジェイドに、飛び出しそうな心臓を押さえ込んで口を開く。
「ジェイド」
「……はい」
「……その」
 流暢に紡ぐはずだった言葉が詰まる。用意していた台本が、ジェイドの緊張した面持ちを前に吹き飛んでしまった。真っ白になった頭に愕然としながら、対峙した見慣れた顔を見つめる。
 ジェイドの目がやや不安げにアズールを見上げたところで、覚悟を決める。台本なんて知るか。必要な事は、自分の頭が知っている。
「僕は、自分の会社を立ち上げるつもりだと言いましたね」
「え? ……はい。経営の勉強をされているのも、その為ですよね」
「ええ、そうです。僕は僕の理想の為に、これからも行動していきます。だから、暫く海には戻らず、陸で活動していきたいと思っています」
 将来の計画は明確にしたかった。自分のしたい事を、理想を追い求める事こそが自分の原動力だと知っていた。はっきりと告げれば、ジェイドが少し動揺する。すっと視線が落ちる。
「そうだろうと思っていました」
 ふ、と笑った呼吸で、キャンドルの炎が揺れた。手を付けられないご馳走とシャンパンが物言いたげに鎮座している机に視線を落としたジェイドに、咄嗟に弁明しようとした口を噤む。逸る心拍を深い呼吸で落ち着かせて、そして改めて、ジェイドに向き合った。
「お前は、海に帰りたいんでしょう」
「…………ええ」
「……僕は陸に残りたい。お前は海へ帰りたい……今後の方針は明らかですね」
 ジェイドはこくんと首を動かす。感情の凪いだ瞳でそっと見上げてくる。アズールはぎゅうと膝の上で拳を作った。
 拍動はもう落ち着かなかった。震える喉のままで、絞り出すように声を出す。
「――それでも僕は、お前が傍に居てほしいんです」
「え……?」
 俯いていたジェイドの顔が前を向く。あからさまに揺れ動く二色の瞳が、アズールの震える唇を捉えた。
 もう、とっくに緊張なんて吹っ切れていた。アズールはポケットに手を突っ込むと、そのまま箱を引っ掴んで、彼の目前に突き出した。戸惑うジェイドの方へ身を乗り出して、勢い良く箱を開いた。
「ジェイド……僕と、結婚してくれませんか」
 キャンドルの火がひとつ、揺らいで消えた。勢い余って握った箱が少し歪む。窓の外では風が吹いて、またかたりと音を立てた。かちこち、静かな部屋に秒針の音が鳴り響く。今更ぶり返してきた緊張感で腕が震え始めたところで、ジェイドがばっと下を向いた。
「……くっ」
「ジ……ジェイド?」
「ふっ……く、あははははっ!」
 胴体を抱きしめるようにして俯いた背中が震えたと思ったら、弾けるようにその背中が跳ね上がって、快活な笑い声が響き渡った。仰け反ってソファに身体を沈みこませたジェイドが、思いっきり破顔していた。あまりに驚くと、人は言葉を失うらしい。アズールも例に漏れず、言葉を失って笑い続けるジェイドを見つめた。
「あ、貴方、プロポーズって! ふっ、ふふ! 段階を飛ばし過ぎですよ! あははは!」
 子供っぽく笑う姿に長きに渡る恋心が刺激される。緊張とは別で跳ね始めた心臓を溜息で一喝し、握りつぶした箱を揺らした。
「だって、今更付き合ったってお前は海に帰るでしょう! それなら結婚をするしかないだろ!」
「それしかない、なんて、あははは……!」
「……ああもう! 笑ってないで、答えはどうなんですか!?」
 痺れを切らして笑いに震え続ける腕を掴むと、荒く呼吸しながらジェイドが緩慢に身を起こす。目の端に浮かんだ涙を拭い、アズールの顔を真っ直ぐに正面から見返して、ジェイドは満面の笑みを見せた。

 ◇

 段ボールだらけになった部屋を見回して、ふうと一息つく。たったの一年と数か月だが世話になった空間に、心の中でお礼を言う。空の段ボールに座って、天井を見上げ、フロイドはくすくす笑う。
 ――僕達、結婚するんです。そう嬉しそうに報告をしてきた、ただ一人の兄弟に、フロイドは一生分笑い、一生分泣いた。数年越しの苦労がようやく実ったのだ。二人以上に苦労した覚えのあるフロイドは、二人と同等、もしくはそれ以上の幸福感に包まれていた。
 スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。昨日の内に何通も送った報告のメッセージには、それぞれに返事が届いている。ひとつずつ、開いて確かめる。まずはリドル。『そこまでの関係とは思わなかった。おめでとう、心から祝福するよ』。実に模範的な祝辞だ。にやにやしながら、次はラギーのメッセージを開く。『まだ結婚してなかったんスね』。この一文が目に入った瞬間、堪え切れずに爆笑した。痛む腹を押さえつつ、次はジャミル。『やっとか。おめでとう』。フロイドはまた吹き出してしまった。全くその通りである。笑い過ぎて腹が捩れそうになり、一旦読むのをやめてスマートフォンを投げた。
「はー、はー……おもしれー……」
 酸欠気味の頭に、流石に危機感を覚えて横になった。椅子にしていた段ボールはとうに潰れてしまっていた。後で叱られてしまうだろうことも、今はどうでも良かった。
 何度も呼吸している内に、落ち着いてくる。深く息を吐きだしたら、ふと目頭が熱を持つ。あっと思う間もなく、ぼろりと涙が頬を伝って行った。
「あー……」
 良かった。安堵感。胸を占めるのはそればかりだった。もっと寂しい思いや悔しい思いをするかと思っていたが、そんな事は全くない。それは、自分の想像以上に淡泊な関係だったからではなくて、むしろ逆で――
「ただいま戻りました」
「お待たせしました。フロイド」
 二人が揃って玄関先から声を掛けてくる。ぼろぼろととめどなく涙が零れて止まらなかった。嬉しくて泣いてしまうなんて、自分が経験するとは全く想像もしていなかった。
「おかえりぃ」
 そのままの顔で二人に両手を振ったら、まずアズールがぎょっとした顔をして駆け寄ってきた。ジェイドも戸惑った表情を見せて、上からそっと覗き込んでくる。
「どうしました? 怪我か?」
「んーん」
「……では、悲しい?」
「ちがーう」
 困惑気味にアズールがジェイドを振り向く。ジェイドもまた、首を傾げて目を合わせた。二人の指に光る銀色に、また涙が落ちる。
「嬉しくて泣いてんの」
 段ボールの中には、三人分の荷物が詰め込まれている。思い出も、業務内容も全部、この部屋から引き継いで、三人だけの家に住む。いつかフロイドが出ていきたくなる日までは、三人ぼっちの生活の延長だ。
 笑いながら涙を流すフロイドに、ジェイドがぽろりと涙を零した。それを見てアズールは慌ててその涙を拭って、唇を噛んだと思ったら、嗚咽が漏れてきた。三人分の涙と笑い声が、307号室を満たしていた。

 ――オレ達は、明日、この部屋を去る。

 

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