第二幕
ピッ、と短い電子音が鳴り、暗がりにあった部屋が明かりで満たされる。がちゃりと開いた扉から顔を覗かせると、静まり返っていて少し寒い。
「ただいま戻りました。さあ、どうぞ上がって下さい」
「ああ。……お邪魔します」
扉を大きく開き、連れ立っていた人物を手で促せば、真面目げに頷いて扉をくぐる。それから僕も後に続いて中に入った。ぽたぽたと水の垂れる傘は玄関の端に立てかける。同じように赤い髪から水を滴らせているリドルは、上がる事を躊躇って所在なさげにしている。
「すみません、少々お待ちを。今タオルをお持ち致します」
「えっ、ああ……うん。頼むよ」
客人より先に上がるのは気が引ける、という状況でもない。さっと靴と外套を脱ぎ、リビングへ向かう。扉を開けてすぐに明かりを点け、外套をハンガーにかけて鞄を置く。それから壁際の収納スペースを開き、適当なタオルを取り出した。玄関へ戻ると、棒立ちのままで待機するリドルが見えて笑いそうになった。
「お待たせしました」
「ありがとう、助かるよ。……まさか、キミに世話になるなんて思わなかった」
タオルを頭に被せ、雨を吸い込んだ髪から水分を抜きながら溜息交じりに呟かれた言葉に、今度こそくすりと笑った。
「僕も驚きました。まさか、ご近所のお店で立ち往生するリドルさんと会うなんて」
「キミたちが付近に住んでいると知っていたら、絶対に来なかったのに……ついてないね」
「そんな寂しい事をおっしゃらないで」
コートも水を吸っていたのだろう、髪を拭き取り終えたタオルは肩に下がり、腕を拭き始めた。
「折り畳み傘を持ち運ぶようにした……と、いつだか聞いた気がするのですが、本日はお忘れになられたのですか?」
「いや、今朝は持って出たんだ。でも途中で――くしゅっ!」
「おや。これはいけませんね。中でお話ししましょうか」
寒気にぶるりと身体を震わせるのを見て、人間が自分達より寒さに弱いのだという事を思い出した。元々は人魚とはいえ、決して寒さに強い身体という訳ではないが。最近は特に、暖房機器に慣らされたせいだろう、冷たい空気が苦手になっている。寒さに震える心地を理解して、リドルから濡れたタオルとコートを受け取った。リドルは申し訳なさげにそれらを手離すと、これまた濡れた靴を脱いだ。
「……仕方ないね」
息をひとつ吐き出して、シャツの胸ポケットから魔法石を取り出した。ぶわりと風が吹いて、彼の身に纏う服や靴が一気にからりと乾いてしまう。
「お見事です、リドルさん」
「どうも。キミに褒められても嬉しくはないけれど」
「本心ですよ」
手元の濡れていた筈の軽くなったコートをリドルに手渡して、リビングへと通す。部屋へ入ったところで、再び立ち止まって視線を彷徨わせた。
「どうぞお好きな所へ掛けて下さい。今、紅茶を淹れますよ」
「いや、必要ないよ。長居するつもりはないからね」
「では、僕が飲みたいので淹れさせて下さいますか?」
「……分かった、好きにしてくれ」
了承を得てキッチンへ入る。背の高い棚を開いて、自分好みに陳列された紅茶の缶を眺める。少し前のバースデーに、彼のためにブレンドした配合を思い返しながら目当ての銘柄を手に取った。
電子ケトルでお湯を沸かしながらリビングに目を遣ると、広いソファの端に座って背筋を伸ばす姿があって笑いが零れる。
「そういえば、リドルさん」
「なんだい」
「”ハートの女王の法律”はもう良いのですか? 確か、こういう時は海の中で――」
「ジェイド!!」
今しがたまで縮こまっていた肩が怒りながら立ち上がった。堪え切れずに笑う口元を見咎めて、その顔に熱が集まっていく。
「いつまでその話を引っ張り出すつもりだい……!?」
「すみません。とても感銘を受けた出来事だったので、なかなか忘れられなくて」
「本当に変わらないね、キミたちは! ああもう、これだから会いたくなかったんだ……!」
そっぽを向いてしまったリドルは吐き捨てるように言いながら、また大人しくソファに座る。同時にパチンとスイッチが切り替わる音がした。湯が沸いたようだ。カップを取り出して、ブレンドした茶葉をティーストレーナーに入れる。
コポコポと心地良い音を立てて紅茶がカップに注がれる。あまり大仰にしてもウケが良くない、という事を市井で学んだので、セットのソーサーに載せるだけにして、リドルの元へと運んだ。目の前にそれを置くと、不機嫌に顔を歪ませていたリドルがぱちりと瞬きをして、僕の顔を見た。
「この香り……ボクのバースデーに贈ってくれたブレンドかい?」
「お分かりになりますか。ええ、その通りです。貴方の顔を見ると、このブレンドが淹れたくなりまして」
意識的に笑顔を作って言う。しかし彼は柔らかく微笑んで、カップを手に取った。
「ありがとう。良ければ、後でこのブレンド……を……」
対面に腰掛ける僕に、リドルは言いかけた言葉を飲み込んだ。その先に続くであろう文言は想像に難くないが、取りやめた理由が分からずにこちらも瞬きをしてしまう。リドルは一口飲んで、ひとつ咳払いをした。
「……ええと、このブレンドの方法を教えてくれるかい?」
「もちろんです。キッチンの方で実践いたしましょうか」
「いや、いい! こ、口頭でお願いするよ!」
大きく首を振って否定を示される。まさか拒絶されるとは、と面白く思いながら、後でメモして渡す事を決める。
「ところで、キミ、アズールとは上手くやってるのかい?」
「え? アズール、ですか? どうしてまた」
「ああいや、言いたくないならいいんだ。少し気になっただけだから」
言いたくないも何も、言う事がない。疑問を呈するにも、納得した様子で頷いてしまったリドルは話を続ける気が無さそうだった。もう一口、紅茶を飲んで、ほうと息をつく。冷え切っていた体が温まってきているのだろう。頬の血色がよくなっている。
「彼、会う度にキミの話をするんだよ。いや会わなくてもしてくるな……だから仲が良いのは分かっているよ。でもあまりに頻繁だから、ちょっと気になってね……」
「……ええと……はあ。そうなんですか?」
「そう、だけど? ……え?」
呆れた様子で告げられた言葉には、やはり首を傾げるほかない。最近はお互いに忙しくて、特にこれといって他人に話すような話題も無いと思っていた。リドルもこちらの反応に首を傾げている。顔を見合わせ、何かおかしいと口を開いたところで、がちゃりと玄関扉が開かれた。
「ただいま戻りました」
扉越しに声がする。今しがた話題に上っていた人物その人だ。リドルに断って席を立とうとした時、苦々しげに「げ」と呟くのが聞こえた。落ち着いて飲んでいた紅茶も机に戻して、居心地が悪そうに身動ぎ始める。はて、彼はアズールの事がそこまで苦手だったろうかと思い返して、記憶はそれを否定した。
疑問に固まっている間に、アズールは玄関からリビングへの扉を開いて姿を現した。
「ジェイド? ……おや、リドルさん! お久しぶりです!」
「うわっ、アズール。……お邪魔したね。すぐに出るよ、じゃあ」
すぐさま帰り支度を始めるリドルに、やはり疑問符が浮かぶばかりだった。知らぬ間にアズールが彼に余計なモーションを掛けているとしか思えないが、その理由が分からない。
「まさか、邪魔だなんて。もう少しゆっくりしていったらどうですか? ……ほら、紅茶も淹れてありますし」
「あのね……何度も言っているけれど、アズール、ボクは別に……」
アズールは乱雑にコートを脱いでいく。珍しいと思いつつ近寄って、身支度を手伝う。袖を腕から引き抜いたところで、突然手首が掴まれる。
「それで、リドルさん。今日はどのようなご用件で?」
「はあ……急な雨に降られてね。そこをちょうどジェイドが通りがかったから、上がらせてもらったんだ。それだけだよ、そうだね?」
アズールには手首を引っ張られて、リドルからは肯定しろと強い眼光が向けられる。流石に理解が及ばず、内心では首を傾けながらも、取り敢えず頷いた。
「リドルさんのおっしゃる通りですよ、アズール。何を心配されているのかは知りませんが」
「心配なんかじゃありません」
「はあ」
手首が離されたかと思うと、アズールは急にそっぽを向いた。困ってリドルの方を見れば、彼もまた疲れた様子で首を振っていた。
「……じゃあ、ボクは帰るよ。後はごゆっくり」
そう言うや否や、リドルは居心地悪いリビングから出て行ってしまった。アズールは玄関が閉じる音と同時に、先程までリドルが座っていた場所に腰掛けた。
原因は良く分からないが、恐らく彼は疲れていた。そう結論付け、次は彼のために紅茶を淹れ直す事にする。
いつも通り、手を掛けて淹れた紅茶を彼の前に置けば、ふっと表情が緩む。無言のままでも伝わる機嫌に安堵して改めて正面に腰を落ち着けた所で、激しく玄関扉が開け放たれた。
「ただいまー! 金魚ちゃんいた~!」
「アズール! ジェイド! 今すぐにこれを何とかしろっ!」
「おやおや……鉢合わせてしまいましたか」
楽しげに先程見送った筈の客人を引き摺って来た兄弟に、相変わらずの関係性が見えて笑みが浮かんだ。アズールはと言えば、穏やかに紅茶を飲みながら、どこか勝ち誇ったような表情でリドルを見ていた。当然、リドルはげんなりとして、また僕の名前を叫んだ。
コメントを残す